【8】朝希・2
休み明け、通り魔事件は話題の中心だった。レリーズに来ていた生徒が喜々として現場の空気を語る横で、おれたちはそこにいたことすら黙っていた。幸い誰にも見られておらず、存在を指摘されることはなかった。
おれは安堵していた。涼子も未宇も同じだったと思う。あの場面が見られていたら質問攻めは必至だ。だけど正直なところ、もう思い出したくもなかった。
死者の数は四人だった。おれが見たのはせいぜいふたり。あの短い間にその倍殺していたのかと思うと背筋が寒くなる。自分が五人目だったかもしれないのだからなおさらだ。犯人は叶市に住むサラリーマンで、一週間前から家族と連絡が取れなくなっていたとニュースで聞いた。
それ以外は平穏なものだった。史也が「なんかお前も宗田さんも元気なくない?」と言うくらいで。
だがそれも昼休みまでだった。
昼休憩の終わり、担任が教室にやってきた。十五分は早い登場に皆がざわつく。彼女は教室を見回し、おれを見つけると目に憐れむような色を浮かべた。
その瞬間に察した。昨日のことだ。
「田嶋くんと宗田さん。あと矢代さんも。ちょっと来てくれる?」
互いに顔を見合わせる。史也が「なんかしたのか?」と尋ねてくるが、それどころではない。担任が入り口から動かないこともあり、おれたちは急いで教室を出た。
廊下を歩いている間、担任はひとことも話さなかった。もちろんおれたちも。なぜ呼ばれたかはわかっているが、わざわざ話したいことでもない。担任はまっすぐ職員室のほうへ向かい――校長室横にある応接室の前へとおれたちを連れていった。
「警察の人が来てるの」
そこで初めて担任は口を開いた。職員用の空間のため人通りはあまりない。おれたちは頷く。なぜ来ているのか、なぜ呼ばれたのか――説明は不要だった。
「ひとりずつ会いたいとのことだから……矢代さんから、いい?」
未宇は不安げにおれを見たが、頷いてやると小さく頷きを返した。担任がドアを開け、未宇だけが入っていく。中から聞いたことのある声が迎えた。昨日の刑事たちだ。
担任は廊下に残り、涼子に目をやった。「次は宗田さん。最後は田嶋くんね。終わったら順番に教室に戻ってちょうだい。先生は授業があるから一緒にいられないけど」
「わかりました、先生」涼子が言った。「矢代さんにも伝えておきます。準備もあるでしょ? 行っても大丈夫ですよ」
担任は申し訳なさそうに、だが安心したように去っていった。彼女はまだ若い。生徒とはいえしっかりした涼子に後を任せられると思うと楽なのかもしれない。
応接室の扉は厚く、耳を澄ましても話の内容は聞き取れなかった。だが涼子が行儀よく立っているので、そんな下世話なことをしている自分がすぐ恥ずかしくなる。結局おれはほとんどの時間を彼女の隣で直立不動のまま過ごした。
未宇が中にいたのは二十分くらいだったと思う。その間に予鈴が鳴って、教師が職員室を出たり入ったりした。おれたちに妙な目が向けられることはあったが、話しかけられることはなかった。
未宇が出てきて「どうぞ」と言った。涼子が頷き、開きかけの扉をノックする。「入ってもいいですか」と言うと了承の返事があった。おれはちらと中をのぞき見る。いるのはやはり昨日の刑事たちだった。
涼子が扉を閉め、未宇とふたりきりになる。もう授業が始まっているので人影はない。未宇が動こうとしないので、おれははっとして担任から聞いたことを伝えた。
「終わったら戻っていいらしいよ。授業も始まってるし、未宇は先に戻りなよ」
未宇は「でも」と呟いた。動く気配はない。心細いのだろうか――気持ちはわかる。
「じゃあ、涼子が戻ってくるまで待とう。それからふたりで戻るといいよ」
「朝希くんは……?」
「ん……鈴原は終わった順に戻れって言ってたからさ。三人そろってはさすがによくないと思うんだよな。おれは大丈夫だから」
未宇は頷いたがどこか不服そうだった。そこでようやく、彼女はただおれと一緒にいたかっただけじゃないかと気づく。途端に頬がじわりと熱を持った。
「どんな話したんだ?」
照れ隠しで尋ねると未宇は表情を明るくした。「たいした話じゃないです。昨日のこと……あのときどこにいたかとか、犯人の様子とか」
「そっか」
会話はすぐに終わった。元々盛り上がる話でもない。どうしたものかと思っていると室内の空気が動いた。ドアが開き涼子が出てくる。
「はやいな」
もうそんなに経っただろうか。無意識にこぼすと涼子はおれを見て――隣に立つ未宇に驚いた。
「戻ってなかったんだ」
「ひとりで戻らせるのもアレだろ。一緒に戻ってくれよ」
「りょーかい」
そのやりとりに未宇は頬を染めた。潤んだ瞳がおれに向けられる。
「朝希くんがモテないって嘘ですよね? 信じられないです」
おれも涼子も目を丸くした。唐突な話題。いや、その前に誰が言ったんだそんなこと。確かに事実ではあるけれど。
まさか涼子じゃないよなと思い彼女を見ると、未宇の横で得意げに腕組みしていた。
「そーよね。あたしも信じらんない。世の中の女は見る目がないのよ」
未宇はそれにますます頬を赤らめた。表情は輝いている。
「いいんです。わたしだけが知ってるってことですから」
涼子は口を開きこそしなかったが、力のこもった目をおれに向けた。それが「あたしも知ってたよ!」と言っているように見えて――ふたりきりなら間違いなく言っていただろうことが容易に想像できて――おれは思わず笑ってしまった。
「ンッンン」
わざとらしい咳払いがした。応接室の戸口に背の高い男性が立っている。長めの前髪を左に流して綺麗に整えた、洒落た雰囲気の大人。呉竹刑事だ。
「田嶋くん、いいかな?」
「は、はい!」
慌てて応接室に駆け込んだ。開きっぱなしの扉の向こうで、涼子と未宇が一礼して去っていく。それをにこやかに見送って扉を閉めると、呉竹刑事は下唇を突き出した。
「ねー、きみめっちゃくちゃモテんじゃん。いいなあ、俺男子校だったからさあ」
「さっさと戻れ」
そう言ったのは嵯峨刑事だ。短く刈った髪には白髪が目立つ。しかし眼光鋭い表情からは深い経験を感じさせ、佇まいには威圧感があった。
「いや-、ああいう青春っぽいのうらやましくって……」
呉竹刑事は笑いながらおれを促す。応接室にはテーブルを挟んでふたつ大きなソファがあった。一方に嵯峨刑事が座り、おれは呉竹刑事の誘導で空いたソファに座る。呉竹刑事は嵯峨刑事の横に座るものとばかり思ったが、彼は詰めるように言っておれの隣に腰かけた。
「……なにしてるんだ」
他のふたりにもこうしたわけではないらしい。嵯峨刑事の問いかけに呉竹刑事は軽く笑って「たまには嵯峨さんのお話正面から聞こうと思って」と言った。
嵯峨刑事は深くため息をつき、おれに向かって「すまないな」と言った。首を振ると「ありがとう」と笑う。柔らかく親しみを感じさせる笑みだったが、一瞬ののちにその顔は刑事のものへと戻った。自己紹介もそこそこに本題へと移る。
「わかっていると思うが、昨日のことを聞かせてもらいたいんだ」
おれは頷く。嵯峨刑事は手帳から紙束を取り出した。興味を示すおれを視線で止める。話が先らしい。
聞かれるままに話をした。涼子に誘われ、未宇と三人でショッピングモールへ行ったこと。久鵺町三条目橋からバスに乗り、レリーズの前でこうもり傘を持った男を見たこと。思えばあれが犯人だったのではないか。すべて昨日話した内容と変わらなかった。
おれの話を一通り聞き、ようやく嵯峨刑事は紙束を広げる。
それは写真だった。免許証から取ったのか、正面から撮影されたものばかりだ。
「知っている人は?」
問いかけに首を振る。すべて知らない人間だった。青年、老人、壮年に女性まで……。
「わかる?」
呉竹刑事が小さく言った。声の響きにハッとする。老人。血に染まった白髪。
「死んだ人……?」
ふたりは否定も肯定もしなかった。ただ呉竹刑事は小さく肩をすくめた。
「本当に見覚えのある人はいないんだね?」
「事件の前でということなら……いません」
「なぜ狙われたか心当たりもない?」
胸がざわついた。それはおれも考えたことだ。名も知らない少女の手を握って――吹き抜けの手すりにぶら下がっていたときに。
あのときおれは恐怖していた。今にも死にそうだったからではない。それも確かに恐ろしかったが、もっと得体の知れない恐怖だった。あいつはおれを狙っていた。少女には目もくれずに――おれだけを。
ただの通り魔なら彼女を見逃す理由はない。あいつには、おれを狙う理由があったのだ。
あのとき。おれが気づいたとき、男は白髪の男性を刺していた。奥さんの悲鳴がして、男は包丁を抜く。逃げ惑う人々。そうして次は、へたり込む奥さんを無視してカップルの男性に――。
「この人」
おれは震える声で一枚の写真を指す。刑事たちの空気が変わった。彼らはおれの――声と同じに震える指先を見る。それは唯一の女性の写真だった。二十代後半から三十代くらいに見える。
「なんで、死んだんですか」
「なんでって……」
呉竹刑事が困ったようにこぼす。そうだ。死因は明確だ。
「子どもと一緒に来たり……してませんでしたか。近くにいたりしませんでしたか」
「見てたの」
おれは必死に首を振る。見てない。何も見てない。でも――。
「その子をかばって死んだんじゃないんですか。その子は――男の子だったんじゃないですか」
嵯峨刑事は手帳を開く。おれの声はどうしようもないほど震えていて、ほとんど泣いているようなものだった。涼子も未宇もいなくてよかった。こんな情けないところ、ふたりには見られたくない――。
彼が頷くのが霞んで見えた。涙がこぼれそうになり、細かく瞬きを繰り返す。
怖い。こわい。
男。
男だから。
「女の子がいたんです。吹き抜けに投げられたおれを助けてくれた……あいつは近くに来てたんだ。包丁を振り上げて……おれ、死ぬんだと思った。おれだけじゃなくてあの子も……おれを助けようとしたから死ぬんだって……。でもあいつはあの子を刺さなかった。おれだけを狙っていたんです。それで落ちた。ずっとそうだ。あの夫婦の奥さんも、カップルの彼女のほうだって、あんなに近くにいたのに」
男だから殺された。男だから狙われた。ただあの場所にいた――男だから。
嵯峨刑事が表情を変えることはなかったが、呉竹刑事の方は訝しげな顔をした。
「男を狙う男ねえ……」
呟かれた言葉にカッとなって詰め寄る。
「あんたはあの場にいなかったから! あいつはおかしかった! 獣みたいで……なにか変な薬でもやったみたいな、イカレた顔つきをしてたんだ! 涼子も未宇も見たはずだ、あいつがおれを助けてくれた子には目もくれずに、おれだけを追いかけて死んだこと!」
呉竹刑事は焦った様子でおれをなだめる。
「でも、薬物反応は出なかったんだよ」
「呉竹」
「いいじゃないですか、どうせニュースでやるんだし……」
嵯峨刑事はため息をつく。「田嶋くん」と呼ばれ、いまだ興奮する意識は彼へ向く。
「レリーズの三階は女性向けのフロアだ。そこで事件が起きて、被害者……きみも含め、狙われた相手が全員男だというのは、確かに偶然とは思えない」
呉竹刑事が驚いた顔をする。おれも同じだった。頭を支配していた怒りが急速に冷めていく。
「明確なことは言えないが、何かの意思を感じる。呉竹の言うことは気にしないでいい。きみの指摘は的確だった。記憶もしっかりしていて、とても助かったよ」
小さく頷く。胸が変にどきどきしていた。こんなことは初めてだ。「ごめんね」と呉竹刑事が言い、おれは首を振った。
話はそれで終わりだった。ふたりが腰をあげたので一緒に立ち上がる。
「その……おれを助けてくれた子は、見つかったんですか?」
最後にそれだけ聞くと、嵯峨刑事は「いや」と言った。
「あの場にもうひとり少女がいたことは聞いている。だが見つけられなかった。こちらも詳細は把握できてない」
あの子にお礼を言いたかった――改めて、しっかりとした形で。警察づてでもそれが叶わないことを知り、おれは落胆した。
落ち込む目の前に大きな手が差しだされる。顔をあげると嵯峨刑事の柔和な視線とかち合った。
「協力ありがとう」
触れるとがっしりとした手が強く握り返してくる。おれとはまるで違う手のかたち。その中にいる自分の指先を見ていると、胸が締めつけられる感じがした。
「きみが安心して元の暮らしに戻れるように、私たちも全力で捜査に当たるから」
おれはこくこくと頷いて、それだけだと失礼だと思い直し「ありがとうございます」と口でも言う。でもこんな失礼を彼は許してくれる。そんな願望めいた確信があった。
応接室から出て扉を閉め、深く息を吐く。警察の人だったのに、思い出したくもない話だったのに。どこか満たされた感覚があった。
このわずかな時間で、おれは嵯峨刑事に好意を持っていた。大人の男性に肯定され――認められるのは初めてだった。
手元の名刺に目を落とす。退出の直前に渡されたものだ。嵯峨刑事の名前と階級、署の住所に内線番号。「思い出したことがあったら教えてほしい」と――そう言われた。
知っていることは全部話した。この名刺を使うことはきっとない。
それでもおれは、丁寧にそれをポケットへとしまった。
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