【7】楓・1(2)
三十分後、おれたちは下着売り場にいた。
正確に言えばそこは三階にあるランジェリーショップで、入ったのは涼子と未宇のふたりだけだ。おれは店の前の手すりにもたれ、吹き抜けから階下を眺めた。二階はメンズのショップとゲーセンが主だ。おれの位置からは子ども用のボールプールが見える。
元々ここは予定になかった。初めて遊ぶ女の子と、男子混じりで寄るところじゃない。けれど未宇の些細な関心に涼子はめざとく気がついた。
せっかくの興味は尊重すべきだ。当然おれも賛成したが、さすがに中へは入れない。手持ち無沙汰に待つこととなった。
店内でふたつの頭が揺れる。見慣れた涼子の後頭部と、それより少し低いところで浮き沈みする未宇のリボン。ふたりを囲む色とりどりの下着。白、水色、ピンク……。
未宇は……下着までピンクだった。
頬がカッと熱くなる。一度思い出したら止まらない。振り払おうとしたがだめだった。恥ずかしさが際限なく沸き起こり、全身をむしばんでいく。
女の子の下着姿を見てしまったことだけじゃない。今まで異性に対する欲求がある意味欠如してたこのおれが、あのとき初めて相手に触りたいと思った。触れて、それに応えてほしいと思った。
頭でなく心で、理解したと感じる。これが、あんなことをされたとき、普通の男が女の子に抱く気持ちなんだ。息が詰まって、ぼんやりして――何も考えられなくなる。その子のこと以外、何も。
未宇。すごく可愛くて、おれのことが好きな女の子。でも、どうして未宇がそんな気持ちを抱いているのか、おれは知らない。ろくな会話もせず、会って数時間で「セックスしてください」なんて頼むのは、絶対に理由があるはずなのだ。
未宇のおかしさは今日だけで十分感じることができた。兄が買った服を言われるがままに着てる未宇。食べものを自分で選んだことがなくて、ステーキとかパフェとか、そんなよくある外食メニューを生まれて初めて食べたかのようにしてた未宇。たぶん、バスも乗ったことがなかったんだろう。
管理されてるんだと思う。それも、かなり厳格に。それが彼女の常識を歪めて、あんな告白をさせたんだとしか思えない。
未宇は可愛い。男としての自分をわずかでも自覚した今、あんなふうに迫られて拒否し続けられる自信がない。でも、未宇の誘惑に乗るのは彼女の弱みにつけ込むのと同じだとも思う。
「わかんねえ……」
周りに人がいないのをいいことに小声でぼやく。
おれはどうしたらいいんだろう。どうしたら、未宇にとって一番いいんだろう。
「ぎゃあ」
フロアの中央から声がした。あまりに鋭く悲痛な音で、思わず手すりから身を起こす。涼子と未宇もこちらを見ていた。表情がこわばっている。
エスカレーター前にうずくまる影がある。白髪の男性だ。先ほど通ったとき、近くのベンチに座る老夫婦がいたことを思い出す。男性の後方には同じく白髪の女性がおり、床に膝をついていた。
具合が悪いのかと思った。男性も女性も、切り取られたように動かない。何か手伝えないかと歩き出し――そのとき初めて、男性の傍にもうひとりいることに気がついた。
スーツを着た男だった。背を丸め、頭と肩を大きく落としている。だらりと伸びた右手に何か持っていた。
男が手をあげるのと、床の女性が叫ぶのは同時だった。
握られていたのは刃物だった。妙に刃が長い。柳刃包丁というやつだろうか。男はためらいなくそれを男性の後頭部に振り下ろす。一回、二回、三回。白髪が徐々に赤く染まるのが遠目からも見えた。
悲鳴が爆発した。
足が動く人間は皆走り出す。ぶつかって、転んで――エスカレーター付近はパニックになる。男は叫喚の渦を無視して老人から刃物を抜くと、素早い動きで傍にいたカップルの青年の腹を刺した。腰を抜かす彼女を助け起こそうとしていた彼は、がくりと恋人の上に倒れた。
即座に踵を返す。足に力が入らない。気を抜くともつれそうだ。
涼子と未宇は店から顔を覗かせてはいたが、肝心なところを見てなかったのだろう。流れてくる混乱にただ困惑していた。
「アキちゃん、なにがあったの――」
「逃げるぞ! はやく!」
ここはまだ距離があるが、男に近すぎる。焦るおれの前で未宇の表情が歪む。
「朝希くん!」
鋭い叫びにふり返る。目の前に刃物が迫っていた。
「うわあ!?」
かろうじて避ける。男はよろめいたがすぐ立て直し、飛び出た目をおれに向けた。
入り口で見た、こうもり傘の男だ。
そうは思ったが確信はできなかった。背格好こそ似ているが顔つきがまるで違う。目は血走り焦点が合っておらず、むきだしの歯の隙間からはよだれが垂れている。顎は絶えず軋む音をあげ、尋常じゃないのがひと目でわかった。
男はおれから視線を外さなかった。涼子と未宇には注意も向けない。
恐怖に潰れそうになる思考の隅で――ラッキーだと思った。
血の飛び散る顔や襟元、手からたちのぼる鉄錆の臭い。異常な状況を彩るそれらは恐怖心を生々しく刺激する。それでもこいつがおれを狙うなら、ふたりから遠ざけられるかもしれない。
じりじりと後退すると、男も同じだけ前進した。
「アキちゃん逃げて!」
涼子が叫ぶ。同時に刃物が伸びてくるのを飛び退いて避けた。男は再びよろける。おれも転びかけたが素早く姿勢を立て直す。
いける。
男に背を向け走り出す。涼子が叫んだことだけは気がかりだった。あれで狙いが逸れなければいいが――。
「アキちゃん!」
より悲痛な声がした。ふり返ろうとしてバランスを崩す。
首が絞まる。誰かが引っぱったのだ――パーカーのフードを。
包丁が服を掠める。痛みはない。感触から、尻ポケットに入れた財布に刺さったのだと察する。おれを捕らえるため男は相当無理のある体勢をしていた。そのせいだ。
ズボンのポケットが切り裂かれ、刃先と一緒に財布が落ちる。男に引かれるままおれも尻餅をついた。尾てい骨を強かに打ち視界が明滅する。
黒い影がさす。半ば横たわるおれを覆うように男が立つ。常軌を逸した顔の横に――輝きこそ失ったものの人を傷つけるには充分な――刃物がかざされる。
死ぬ。
刺される未来が見える。衝撃を、痛みを、想像して――おれは動けなかった。
「だめえっ」
男の体が大きく揺れた。包丁がびたりと止まる。
見上げれば、未宇が男にしがみついていた。
「未宇ッ!」
叫ぶことしかできない。男は未宇を振り払おうと全身を揺らし、その動きにおれは翻弄される。引きずられたかと思うと押し返され、立てそうかと思うと頭を蹴られる。だけど彼女が必死に止めてくれるおかげで、刃物が近づくことはなかった。
「うぐうううふうううう」
未宇をふりほどけず男は獣じみた唸りをあげる。一、二度身震いするとパーカーの端から手を離す。しかしおれがそれに気づいたのは改めて服ごと首を掴まれてからだった。片腕に未宇がかじりついているのにもかかわらず、おそらく利き腕ではない左手ひとつで男はおれを持ち上げた。
「うわあ!?」
まるで重さを感じていない手つきだ。それなのに指先はギリギリと首に食い込む。血が止まる。痛い――。
「アキちゃん!」
いち早く察した涼子が駆け寄ろうとする。彼女の必死な顔を見ながら、おれは自分が宙を飛ぶのを感じた。
そうして気づく。この先が吹き抜けであることに。
手すりが体の下を通り過ぎる。手を伸ばしたが十センチは離れていた。
床が消える。体表を撫でていたどこか心地いい浮遊感と恐怖が、たちまち絶望へと姿を変える。それは重力となって、おれの体を引きずり下ろす。
涼子が、未宇が。虚ろな目でおれを見ていた。起きていることが信じられない、現実とは認められない――。
おれも同じ目をしているに違いなかった。たった数メートルだ。それなのに、ふたりは生きて、おれは死ぬ。
視界の端に小さな影が映った。
「ああああああ!」
誰かの絶叫とともに時間が戻る。何かが体に触れる。そのままおれは引き戻され、手すりと壁の境に体を打ちつけた。
頭上では知らない女の子がおれの腕を掴んでいた。腹を手すりで打ったらしく、くの字に曲がりながら「ぐふっ、おえっ」と声を漏らす。それでも歯を食いしばり、おれの手を離さなかった。
助かったのを自覚すると同時に、下を見てしまう。清潔に磨かれたクリーム色の床。さわやかさを感じる色合いと、落ちたら死ぬという事実。その温度差にめまいがした。
手すりの向こうには涼子と未宇の姿が見えた。ふたりとも無事のようでホッとする。しかし何かが足りなかった。その理由にはすぐに気づいた。
ふたりしかいない。
上を見る。少女の傍に立つ影があった。男だ。血に汚れた手で手すりを掴む。少女も気がつき、苦しげな表情を更に歪めた。
だがどうしようもない。彼女が刺されたら、今度こそおれは死ぬ。
しかし男は少女に何もしなかった。包丁を持った手を手すりに乗せ、身を乗り出し――まっすぐにおれを狙い続ける。
彼女が刺されなかったことには安堵する。だけど、それ以上に混乱した。あまりにも執拗だ。そして、こんなにまで狙われる心当たりがまるでない。
男は何度か腕を振りおれまで刃が届かないことを悟ると、前のめりになり始めた。
おれも、少女も、くいいるように男を見つめる。
男は体を折り曲げ、少女と同じ姿勢になる。まだ刃が当たらないから、更に体を押し進める。腰の位置が手すりを越える。足の先が上を向く。手すりの柵の部分を掴んで、逆立ちするような――大道芸じみた格好になっていく。
そして、落ちた。
バアンとすごい音がして足元で悲鳴が上がる。視線を向けると、さっきまで綺麗だったクリーム色の地面に黒い染みが広がっていた。
「見ないで」
上から声がする。少女のものだ。
「見ないほうがいい」
おれは小さく頷いた。言われなくてもこれ以上は見れなかっただろう。おれだってまだ安全じゃない。あんなものを見ていたら、引きずり込まれてしまう気がする。
何よりおれの目には男の顔が焼きついていた。焦点の合わない瞳で、手すりに虫みたいに貼りついた男。落ちる寸前、あいつの目はゆっくりと裏返った。ずっと噛みしめられていた口元からふっと力が抜けて、うっすらと笑みさえ浮かべて。よだれがぼたぼたと落ちて、おれはそのとき、すごく甘ったるいにおいがすることに気がついた。
男は落ちた。白目を剥いて、どこか幸せそうに。
「誰か手伝って!」
少女が声を張りあげた。涼子と未宇は急ぎ寄ってきたが、他に人が来る気配はない。
ここからだと柱が邪魔でエスカレーター前の様子はわからない。逆にあちら側からも見えないから、犯人がまだ近くにいると思われているのかもしれなかった。
これ以上は少女に負担をかけられない。そう思い、空いた手を手すりの根元に伸ばす。かろうじて柵の部分を掴んだが、まるで力が入らなかった。独力でぶらさがることはできそうもない。それでもなんとか腕を絡めて支えにすると、少女はホッと息をついた。
結局他には誰も来ず、おれは三人がかりで引き上げられた。
刃物を持つ大人に追われ宙に投げ飛ばされた経験は、思ったより体にショックを与えていたらしい。地面に足が着いた瞬間、おれはへたり込んだ。
「朝希くん!」
泣きそうな顔で未宇がしがみついてくる。
「ありがと、未宇。怖かったよな」
そう言うと、彼女はぶんぶん首を振った。
「朝希くんが死ぬと思ったら、すごく怖かった……」
胴へ回る手に力がこもる。未宇の体はあたたかかった。それに何より生を覚え、気づけばおれも力いっぱい彼女を抱きしめ返していた。
「あ、朝希くん……?」
上ずった声がする。もう安全な場所にいて、危ない男はいなくなって、死ぬ心配もないのに。おれは生にしがみつくように未宇の体にすがっていた。いつしか彼女は体の力を抜き、おれの背を優しく撫でてくれた。
少し気持ちが落ち着いて、礼を言うと体を離す。未宇は「いいんです」とおれの手を握った。白くて細くて、柔らかい手。これがあの男の動きを抑えていたと思うと信じられなかった。
隣を見ると、同じく座りこんでいる少女と目が合った。隣には涼子がいる。
「その……ありがとう。ホントに助かった。命の恩人だよ」
少女は首を振った。長い黒髪がさらりと揺れる。
「あたりまえのことをしただけ。間に合ってよかった」
「その、お腹……大丈夫?」
尋ねると、少女はブラウスの裾をまくり上げた。唐突な行動にぎょっとする。しかし赤く染まった彼女の腹にすぐ意識が奪われた。
「ご、ごめん……」
「いいの。すぐに治るよ」
「ほ、ホントに……?」
とてもそうは思えない。腹を切るように手すりの跡が残っている。女の子の体にまざまざと残った線におれは動揺したし、涼子もうろたえていた。
「気にしないで。命と比べれば安いものだよ」少女は肩をすくめた。
大人たちがばたばたとやって来たころ、おれはようやく自力で立てるようになった。犯人が死んだのを確認したからだろうか。三階に残る客を誘導するため次々と人がやってくる。おれたちも大勢に囲まれた。
ふと吹き抜けの向こうに目をやると、ちょうど反対側に立つ人影が見えた。背の高い男の人だ。誘導の人間に声をかけられ、連れ立って去っていく。
気づかなかった。
いつからあそこにいたんだろう。犯人が来る前からか、後からか……。どちらにせよ、あの位置ならすべて見えていたはずだ。吹き抜けの向こうで起こっていることも、人が死んだのも、おれが落ちかけて、助けを求めていたことも……全部わかっていたはずだ。
胸がもやついた。
責めることはできない。そりゃあ、自分の命が一番大事に決まってる。
だからこそ、身を呈して助けてくれた三人におれは改めて感謝した。
犯人が来た道とは反対方向に促され、遠回りして階下に向かった。疲れていたけれど、男の道筋が血で汚れてることを思えば別のルートを選んでもらえてほっとした。下のフロアにおりて三階を見上げる。エスカレーターの近くにブルーシートがかけられているのが見えた。
モールの外に出ると、正面の広場は信じられないほどごった返していた。避難した人だけでなく、警察に消防、テレビカメラまで集まっている。ついさっき、世界がおれたちと犯人だけに感じられた瞬間からは想像できない混雑ぶりだ。
おれたちは一台の救急車の側に連れていかれ、改めて怪我がないか聞かれた。おれも涼子も少女のことを告げたが、救急隊員はそれを未宇だと思い、彼女を車に乗せようとする。
「その子じゃないんです。もうひとり、髪の長い子が……」
そこで、いつの間にか少女が消えていることに気づいた。見渡してもどこにもいない。大人たちはざわつき、何人かはモールのなかへと戻っていく。おれも探そうとしたけど止められてしまった。
いろんな人が代わる代わる来た。おれたちは保護者の連絡先を聞かれ、体に異常がないか調べられて、酷いショックを受けていないか探られた。何かを考慮してか、話しにくいことがあるなら一対一で話そうかと言う人もいたけど、誰も頷かなかった。涼子と未宇と離れたくない。この瞬間、互い以上に信頼できる人間がいるとは思えなかった。
そうしているうちに、嵯峨直泰(さが・なおひろ)と呉竹裕保(くれたけ・ひろやす)という、刑事を名乗る二人組がやってきた。彼らはおれたちを引き離すこともせず、何があったかを尋ねた。隠すこともない。おれたちは正直に答えた。
そのうちおれの母親が血相を変えてやってきた。先に気づいたのは涼子だった。「おばさん!」と叫び、彼女に抱きつく。母親はそれを強く抱き留めた。そうしながらも横目でおれを探し、見つけると小さく手招いた。
普段のおれなら絶対に素直には行かない。このときも内心では「しょうがないなあ」と思った。だけど足だけはまっすぐ彼女の元へと向かっていた。
ふたりの側に行くとおれの体は絡め取られた。たぶんここ数年で一番強く、母親はおれを抱きしめた。そしておれも……ここ数年で初めて、彼女を抱きしめ返した。
母親は無事を確認し終えると、嵯峨刑事におれたちを連れ帰っていいか尋ねた。刑事は涼子を代理で連れ帰ることを渋ったが、彼女の親が軽々しく戻ってこれない距離にいることを知ると了承してくれた。
未宇はその間、呉竹刑事のほうに付き添われて立っていた。おれはそんな彼女を見てようやく――彼女を迎えに家族が来る可能性に思い至った。
「さ。帰るよ」
「あ、あのさ。もうちょっと待てないかな。未宇もひとりになっちゃうし……」
母親はそこで初めて未宇に気がつき、同情を寄せる視線を注いだ。しかしそれはそれとして、息子をここから引き離したい気持ちも見て取れる。
「大丈夫、気にしないで。この子のお兄さん、もうすぐ迎えに来るみたいだから。彼女もすぐ帰れるよ」
呉竹刑事が言った。母親はそれにホッとして「だって。行こうか」と言った。食い下がろうとしたけれど、涼子に止められる。
「未宇ちゃんが心配なのはわかるけど、帰ったほうがいいよ。……あたしも帰りたい。だめかな、アキちゃん」
そう言われると頷かないわけにはいかなかった。おれたちは母親の運転する車で家へと帰った。
母親は夕食の準備の途中で飛び出したらしく、家のなかは乱雑としていた。
「びっくりしたのよ。テレビつけたら、レリーズで通り魔だって……死者も出たっていうし。あんたに電話しようとしたら知らない番号から電話がきて……もう、死んだのかと思っちゃった」
「ごめん」
「なんで謝るの。生きててくれたんだからいいのよ。夕食あとちょっとだから、あんたたちは休んでなさい」
母親は赤い目元で笑う。そんな顔をされると、本当に死にそうになっていたとはとてもじゃないけど言えなかった。
「おばさん、手伝います」
「涼子ちゃんも休んでて。今日は疲れたでしょう」
「でも……」
「いいから。朝希と一緒にいてあげて」
「なんだよそれ」
今度は追い払おうとしてくる母親に不満を抱いたけど、言われたとおりリビングを出た。ドアを閉め階段をのぼる途中、押し殺したような泣き声が聞こえて足を止める。涼子を見ると、彼女もこちらを見つめていた。
「……泣くことないのに」
「アキちゃんも、大切な人ができたらわかるよ」
涼子がまた大人びたことを言うので、おれはますます不満に思う。
「だって、怪我もしてないしさ」
「それは結果でしょ。おばさんは過程でいっぱい苦しんだから、ホッとして泣いてるの。他人は管理できないじゃない。だから大切な相手がいる人は、その行動や状況に一喜一憂するんでしょう。立場が逆でも同じこと思う? おばさんが通り魔に襲われて、無事に帰ってきて、怪我しなかったからいいやって思う?」
「……思わないけど」
思わないけど、涼子の言葉にとげを感じ、おれは黙った。気まずい空気を抱えて部屋へ戻る。涼子も後に続いた。
彼女が怒ることはほとんどない。でも声や言葉の調子で、少し機嫌が悪かったり、体調が優れなかったりするときがわかった。おれがそれに気づいたと悟ると、涼子はいつも困った顔で「あたっちゃってごめんね」と謝った。
今、涼子はどんな顔をしてるんだろう。
ふり返ろうとして動きが止まる。首元に腕が回されていた。甘い香りが鼻腔に広がる。
「りょ、涼子?」
びっくりしてふり返り、間近に涼子の顔があってまたびっくりした。とっさに顔を逸らす。首から背中にかけて一気に力が入り、おれは正面を向いたまま固まった。
「あたしだってそうだよ。アキちゃんが投げ飛ばされたとき、すごく怖かった。アキちゃんがこっちに手を伸ばしてるのに、あたしはその手を取れなくて、これからアキちゃんは地面に落ちて死んじゃうんだって思ったら……目の前が真っ暗になった。今、アキちゃんは怪我もしないで元気だけど、あたしは、まだ胸がざわざわしてる」
涼子の声は潤んでいた。小さく鼻をすする音もする。
「あたし、おかしい? 感傷的すぎる?」
おれは今度こそ本当に、心の底から自分が子どもだと思った。
心配も、苦しみも、相手を大切に思うからこそで。その感情の高まりに――たとえ理解できなかったとしても――水を差すべきじゃなかったのだ。
「ごめん、涼子」
「あたしこそ、ごめんね」涼子の体が離れていく。「気持ち押しつけちゃった」
おれは今度こそふり返る。涼子の目元も赤かった。
「謝るなよ。おれが悪いよ。涼子や……母さんが、おれを心配してくれたのに。口先だけで適当なこと言ってさ」
いい歳して親に迎えに来てもらい、公衆の面前で抱きしめられた。そんな事実だけを羅列して、恥ずかしくて強がった。
本当はおれだって怖かった。生きててよかったって思うのに。
涼子が小さくほほえむ。その目尻にまだ悲しみが残っているように見え、おれは思わず手を伸ばした。
指先が肌に触れ、驚いて手を引っ込める。自分がしたことなのに。涼子は一瞬目を丸くしたが、さまようおれの手に気づくとそっと絡め取り、自らの頬に乗せた。
「あったかいね」
本当にあたたかかった。与えられるぬくもりで、少しずつ力が抜けていく。
「生きててくれてよかった」
こうしていると、子どものころに戻ったような気がした。性別とか、コンプレックスとか――そういうものが一切なく、思うまま親愛を表現できていたあのころに。
涼子が視線をあげる。真正面からそれを受けて――息が詰まった。
いつも……こんな目をしていただろうか。こんな、愛情溢れるような目で。
「涼子」
両手を彼女の首に回す。背はおれのほうが低いから、引き寄せる形になる。涼子は抗わなかった。耳元で驚いた声が上がったが、それだけだった。
すぐに自分のしていることへの恥ずかしさを感じたが、止めるのはもっとカッコ悪い気がした。照れ隠しに肩へ顔を埋める。呼吸するたびに彼女の匂いが広がって眩暈がした。
「ごめん」
首が振られるのを感じる。おれも小さく首を振る。何に謝って何を許されているのか、段々とわからなくなる。
「生きててよかった。おれだけじゃない。涼子も、未宇も――無事に帰ってこれてほんとによかった」
「守ろうとしてくれてたもんね」涼子がささやく。「あたしたちのこと」
自嘲気味に笑う。涼子はなんでも知っている――おれのささやかな悪あがきまで。
「結局守られてたけどな」
そう言って腕を解こうとすると、逆に抱きしめ返された。
「かっこよかったよ」
心臓の音がする。これはおれのものだろうか。それとも――。
「ほんとだよ」
胸の奥をぎゅっと掴まれる感覚があった。何かが押し出されて目頭が熱くなる。何度も鼻をすすって耐えようとするが、結局叶わず――堪えきれなかった涙が、一筋だけ彼女の髪を伝った。
「へへ」
耳もとで涼子が小さく笑う。その声も濡れていた。泣いているのがバレたのかと思い「なんだよ」と拗ねた口調でこぼすと、おれを抱く手に力がこもる。
「未宇ちゃんに、先こされちゃったから」
意味を理解して――じわじわと頬が熱くなった。
涼子もあのとき、おれとこうしたいと思ったのだろうか。抱きしめ合って、ぬくもりを感じて。生きていることを確かめ合いたいと――。
そう思うとたまらなかった。でもどう表現していいのかわからなくて、抱く力をただ強くする。心臓がうるさい。今ならわかる。これはおれの出す音だ。
皮膚の表面から内側まで、全部涼子で満たされている。五感のすべてが彼女でいっぱいなのに、まだ足りないと思ってしまう。これ以上ないほど近くにいるのに、もっと……もっと近くに行きたい。
頬を新たな涙が伝った。悲しいわけじゃない。嬉しいわけでもない。ただ胸がいっぱいで、どうしようもなく切なかった。
母親に呼ばれるまでおれたちはひたすら抱き合った。あのときできなかったことをやり直すように。
おれは涼子に身を委ね、彼女の頭を抱き――胸の痛みを感じながら、この感情に名前があるのかを考えていた。
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