【7】楓・1(1)
「アキちゃん、買いもの行かない?」
日曜の朝、涼子が唐突に言った。まだパジャマでベッドの上にいたおれは、ぼんやりと目の前のシルエットを見上げる。
「未宇ちゃんと一緒にでかけるの。未宇ちゃんもアキちゃんに来てほしそうだったし、ヒマならおいでよ」
涼子はすっかりめかし込んでいた。白い半袖シャツに大人っぽいサロペットを履いて、あまいにおいを漂わせている。
「何時から……?」
「十一時集合。駅前のショッピングモールに行くから、お昼はそこで食べるよ」
「今何時……?」
「九時半。だらけすぎー」
「いいだろ日曜日くらい……」
流れるように毛布を抱えて背を向ける。涼子はベッドの側まで来て、おれの体を小さく揺する。
「ねー行かないの」
香りが強くなる。涼子が出かけるときに好んでつける香水だ。ただあまいだけじゃなく抜けるようなさわやかさもあって、なんというか、すごくいいにおい。
初めて香水瓶から中身を嗅いだときは「悪くない」と感じただけだった。でもそれが涼子の肌に乗った途端、あまりにもいい香りになってびっくりしたことを覚えている。
「ねーねーアキちゃん」
声が近くなる。小さい体温が離れて、もっと大きい、質量のあるものが背に触れる。涼子の頭だ。声が揺れると背中の頭もぐりぐりと揺れ、合わせてにおいがあまく香った。
「行こうよー。アキちゃんと一緒におでかけしたいよ」
「…………行く」
毛布にぐっと顔を埋める。それでも涼子の耳には届いたらしく「やったあ」と弾んだ声がした。
なんだか息苦しかった。香水のせいだろうか。
つけすぎではないだろう。慣れ親しんだ強さ、慣れ親しんだ香りだ。それなのになぜか苦しく感じる。胸の奥まで入ってきているような。
「起きるからどいて……」
「はーい」
ベッドから気配が遠ざかる。おれは起き上がり、部屋の端でちょこんと正座する涼子を見た。目が合うと彼女は首を傾げる。
「どしたの?」
どしたのじゃない。
「着替えるから出てって」
「あ、そっか」
涼子は笑いながら出ていった。閉まるドアを複雑な気持ちで見つめる。おれをなんだと思ってるんだろう。ひょっとしたら、弟としてすら見てないかもしれない。
「おれだってなあ……」
思わず口にしたが、その先は出なかった。「おれだって」なんだろう。何ができるっていうんだろう。
気を取り直してクローゼットを開ける。涼子と出かけることが多いので、彼女の着るものがわかるときはイメージの似た服を選ぶようにしていた。
比較的形のいいシャツを手に取る。白がベースだが、襟やボタンに差し色として黒がありおしゃれに見える。いつだったか涼子と出かけたときに買ったものだ。
これにしようかと思ったところで、今日はふたりじゃないことに思い至る。未宇もいるなら、涼子だけに合わせるのはどうなんだろう。
改めてクローゼットを眺めて気づいた。どの服も涼子と買ったものばかりだ。
おれは服にあまり興味がない。それでもそこまでダサくなってないのは、選んでくれるのが涼子だからだ。ほとんど連れられるように買いものへ行き、勧められたものを買って帰ってくる。
「……ダメだなおれ」
生活が涼子に依存しすぎている。彼女に促され外に出て、学校でも彼女と一緒で、家には彼女の選んだものがたくさんある。ひとりになったら何もできなくなるんじゃないだろうか。
そりゃあ涼子も弟扱いするし、「彼女ができたらお祝いしたいから教えて」なんて、微塵も男として意識してないことを言うはずだ。
結局、ただのTシャツに半袖パーカーを羽織って部屋を出た。母親と談笑していた涼子はおれを見て「今日はカジュアルだね」と笑った。
待ち合わせ場所では日傘を差した未宇が待っていた。
彼女はチョコレート色のワンピースを着ていた。胸元だけがレース地で、肌がうっすら透けて見える。袖口やスカートの裾は柔らかく膨らんで、あちこちを飾るフリルが体の凹凸をさらに強調させている。全体的にドレッシーな中、威圧感のある首元のチョーカーだけが妙に異質で、背徳的な雰囲気を漂わせていた。彼女が毎日つけているチョーカーだ。
未宇はおれたちとつるむようになった。彼女は勉強も運動もそつなくこなす。なんなら涼子より頭がいいかもしれない。抜き打ちの小テストでクラス最高点を叩きだし、「わたしあまり賢くないので……」と言ってのけたことは記憶に新しい。
嫌みじゃないとわかるのは、教室中の注目を浴びた彼女があまりにも恥ずかしそうにしていたからだ。声も聞き取れないほど小さかった。
目を引く容姿だけじゃなく、体も動かせるし頭もいい。非の打ちどころがない彼女の唯一の隙――それがチョーカーだった。
教師から注意を受けたことはなく、体育のときも外さない。あれがただのアクセサリーじゃないというのは、この一週間でおれたちの共通認識となっていた。何かを隠すためのもので、だから先生も認めているのだろうと。
その下について、生徒たちは好き勝手に想像した。キスマークだとか手術跡だとか、首吊りの痕とまで言うやつもいた。未宇に直接聞いた人間もいたが、困ったようにほほえまれるだけだった。
ともかくそんなアクセサリーを彼女は今日もつけていた。
朝の選択が正解だったことをひそかに安堵する。未宇の服装はおれや涼子とは毛色が違う。というか、この辺ではあまり見ない格好だ。チョーカーも相まって余計そう見える。
おれたちを見て未宇は顔を輝かせた。小さく日傘を傾ける。
「おはようございます、朝希くん、宗田さん」
「おはよ」
「待たせちゃった?」
「いいえ、今来たところです」
待ち合わせ場所は三条目橋近くのバス停だった。合流すると、涼子は未宇の隣におれを立たせた。
誰かと話すとき、彼女はおれを中心に置きたがる。始めこそ話せやしないのにそんなことされてもと思ったが、そのうち意図を理解した。喋らないから真ん中に置くのだ。これが端にいようものならたちまち輪から外れてしまう。
気づいてからは何も考えずそのポジションに収まった。涼子と話し相手に挟まれると、自分が何も話さなくても会話に混ざった気になれる。それが楽だった。
とはいえ未宇と並ぶのは多少気まずく、心なしか肩に力が入る。背筋を伸ばし立っていると頭上に影がさした。未宇の傘だ。目が合うと彼女は頬を染めてにこっとした。
「もう仲良しね」
涼子の言葉に、未宇はますます顔を赤くする。つられておれも恥ずかしくなった。涼子はおれの様子に気づき「ふーん?」と茶化すように言う。
「違うって」
思わず言い返すと「違う……?」とか細い声がする。見れば未宇の表情が露骨に暗い。
「そこそこ! そこそこ仲良し!」
慌てて言い直すとみるみるうちに目が輝いた。ものの数秒で元より数段明るくなる。
未宇はすごくわかりやすい。感情がすぐ表に出るから、何を考えていて今どんな気持ちなのか、顔を見ればだいたいわかる。
なぜか好意を持たれているおれとしては、わかりやすすぎて嬉しい反面、ちょっと怖かった。この子は隠しごとなんかできないんじゃないだろうか。いつかぽろっとみんなの前で、先日の告白めいたことを繰り返しそうで心配になる。
でも彼女の表情は何より雄弁におれが好きだと語っていて、それを見るだけでなんだか安心するような、満たされたような気持ちになった。その感覚が不安を押し流す。
「今日なに見るんだ? 服とか?」
未宇のことばかり考えそうになるのを振り払おうと話を振る。「あたし服見たい!」と涼子が言って、ものめずらしげに未宇を見た。
「未宇ちゃんの服、すごくかわいいね! ちょっとロリータっぽい雰囲気あるし」
「そうなんですか?」未宇は不思議そうに体を見下ろす。
「このへんじゃそういうの売ってないかも。お気に入りのショップとかあるの?」
未宇は申し訳なさそうな顔をした。「兄が選んでくれるので、よくわからないんです」
しゃべってなかったおれですら一瞬言葉を失った。涼子はなおさらだ。変な沈黙が続きそうになり、それを埋めるように涼子が「おにいさん?」と尋ねる。
「おにいさんが、未宇の服を買ってくるってこと?」
涼子の言葉を引き継いで馬鹿みたいに繰り返す。なんだか、開けちゃいけない箱に触れている気がする。
「はい」おれからの質問に未宇は嬉しそうにした。「今日の服も兄が選んだんです」
「おにいさんが選ぶの?」声が若干裏返る。「未宇じゃなく?」
「はい。制服以外の服はいつも」
今度こそおれたちは口を噤んだ。おれが言えることではないが、この歳になって家族に着る服を選んでもらうのは、なんというか――かなり――変わってる。おれだって、その日の服選びくらいはさすがに自分でする。
「そうなんだあ。仲いいんだね」
ようやく涼子はそれだけ言った。あの涼子が、明らかに困惑している。対しておれは本当にかける言葉が見つからず、石像のようになっていた。
そこにバスが来ておれたちはホッとした。最後尾が空いていたので並んで座る。まるでバスに初めて乗る人みたいに、未宇はずっときょろきょろしていた。
おれたちが住む久鵺(くぬえ)町は元々独立した自治体だった。だけど人口の流出が激しく、つい何年か前に隣の叶(かない)市に吸収された。
大人たちの中には自治体としての久鵺町がなくなったことに抵抗がある人もいるらしいけど、おれたちにはあまり関係ない。久鵺より叶市はずっと発展していて、ショッピングモールだけでなく、映画館やカラオケ、プールにゲームセンターなど、学生が遊べるところがたくさんあった。久鵺の学生が遊ぼうと思ったら叶市に出るしかなかったから、合併のときには叶市民と名乗れることを喜ぶ声のほうが多かった。
駅前は混雑していた。叶市はこの辺りで一番大きい市で、休日ともなると人が集まる。少し歩けば目的地であるショッピングモール・レリーズがあった。正面入り口前の大きな広場はベンチや花壇で飾られ、待ち合わせ中なのかぽつぽつと人の影がある。
中に入ろうとして、何気なく見た先で目が留まった。
傘だ。こんな晴れた日に。
「今日って雨降るんだっけ」
「えーやだ」涼子が過敏に反応する。「晴れって言ってたわよ」
「10%ですって。大丈夫だと思いますよ」
「よかったあ。雨キライなのよ。傘も持ってきてないし」
心底安心したように涼子は言う。びっくりさせないでアキちゃん、と軽く小突かれる。
「いや、傘持ってる人がいたからさ」
「日傘じゃないですか?」傘をたたみながら未宇が言う。「今日は日ざしが強いですし」
「雨傘だった気がするけど……」
「日傘代わりにしてるとか?」涼子は笑っておれの背を叩く。「行きましょアキちゃん」
ふたりのうしろで、おれは一度だけふり返った。
スーツを着た男がひとり、背を丸めてベンチに腰かけていた。着ているものはやけにしわくちゃで、みすぼらしいどころか汚く見える。鞄の類いはなく、黒くて大きなこうもり傘だけを手に持っていた。
「アキちゃん?」
「今行く」
やっぱりあれは雨傘だ。
だけどそんな些細なことは、すぐに忘れてしまった。
おれたちはまっすぐフードコートに向かった。そこでも未宇はものめずらしそうにきょろきょろして、何を食べるかもすごく迷った。聞けば「こんなにお店が並んだところでご飯を食べるのは初めて」だし、「食べるものを自分で選ぶことも初めて」らしい。後者に関してはまたしても時が止まりかけたが、フードコートの活気とキラキラした未宇の目がそれを阻んだ。
結局彼女はおれが「おいしかった」と勧めたサイコロステーキ定食を頼み、一口食べては「すごくおいしいです!」と報告してくれた。おれと涼子はそんな姿を面白がって、頼んだものを少しずつ彼女に分けた。未宇はオーバーなくらい嬉しがり、おいしいおいしいと食べた。
あんまりおいしそうにするので、食事に夢中な彼女に隠れておれたちは小さなパフェを買った。未宇の前に置くと「ホントにいいんですか?」と瞳をうるませる。口に運ぶ間はずっと無言で不安に思ったが、食べ終わり「こんなにおいしいもの初めてです……」と泣きそうな顔で言うのを見て、おれたちはホッと息をついた。
食事のあとは服を見に行くことになった。おれは特に買うものもないし、今日は未宇が優先だ。レディースの店舗がある三階へと向かう。
未宇はショッピングモール自体初めてらしい(そうだろうと思っていた)。何を見たらいいかわからないと言うので、まず涼子のお気に入りのショップに寄った。おれもふたりと一緒に入り、ディスプレイを見て回る。涼子が好きそうなものを見つけては教えるのが通例なので、自然とそんな思考で服を眺めた。
「アキちゃん、ちょっと」
目に留まったジャケットのサイズを見ていたとき、涼子に呼ばれた。手には一枚のシャツがある。彼女はそれを隣の未宇にあてた。
「どう思う?」
「どうって」
白い長袖のシャツだ。ふんわりした袖とボタン周りの意匠が未宇の服装と合っている。「いいと思うけど」と返すと未宇は顔を赤らめ「じゃあ着てみます」と言った。
「あ、でも――」
口を開きかけたが間に合わなかった。未宇は服を受け取ってすぐ試着室に消える。おまけにおれの声も小さかったから、届いたのは涼子にだけだった。
「なあに?」
代わりのように尋ねる彼女を半ばやけくそでにらむ。
「なあにじゃなくて……入るのか? あれ」
「Mサイズだから大丈夫じゃない? ここの服ちょっと大きめだし。未宇ちゃん細いから大きいくらいかも」
「そうじゃなくて……」
涼子は始めこそきょとんとしていたが、おれの煮え切らない態度と覚束ない視線でさすがに気づき「あ」と気まずそうな声を出した。おそるおそる様子を窺うと、試着室のカーテンが細く開いて未宇の顔がのぞく。
「すみません、ちょっと小さいみたいです……」
「あー、そっか! ごめんね! 別のサイズないか聞いてくる!」
ごまかすように笑って涼子は店員の元へと向かった。おれは何気なくその背を追って、再び試着室に視線を戻す。
「えっ……」
カーテンが開いていた。未宇の顔の幅くらいの太さで、はっきりと。そのせいで顔どころか全身が露わになっている。目が合うと彼女は不思議そうに、しかし嬉しそうに頬を染めた。
「ちょっ、ちょっと!」
慌てて飛びつきカーテンを押さえる。否応なく近づく距離。感じる熱から懸命に視線を逸らす。
「み、見えるから……」
と言いつつも、しっかり見てしまった。ワンピースだから当然かもしれないが、未宇は服をすっかり脱いで、そのうえでシャツを羽織っていた。
はち切れそうなボタンの下に押しこめられた胸と、へその当たりまで持ち上がった服の裾。隠しきれなかった下着に、柔らかそうな太もも。
この薄い布の向こうにまだそれがあると思うといたたまれなくなり、未宇にカーテンを託そうとする。だけど受け取る気配がない。自分で閉めることすら思い至らず固まっていると、カーテンの向こう側で未宇の体が動いた。布越しに手が握られる。
「見たいですか……?」
かすれた声にぞくりとした。寒気とも違う妙な感覚が背筋を這い上がってくる。違和はあるが不快ではなく、身を委ねたくなるほど心に絡む。
未宇の胸元が見える。取れそうだったシャツのボタンがひとつずつ外され、不自然に押し上げられた胸の形が自然なものになっていく。それでも谷間の深さは変わらない。
質量を感じる膨らみがおれの腕に押し当てられる。ゆっくりと、意図を持って。
「見てほしいです……朝希くんに、たくさん……」
脳が痺れる。未宇の声色は甘かった。こんなに小さく、ささやくように、ほんの少しの言葉を言われたくらいで。砂糖菓子を腹いっぱい食べたみたいな気持ちになる。頭からつま先まで甘ったるいものを詰め込まれ、一歩違えば吐きそうなのに、ギリギリのところで満たされている――そんな気分だ。
目をあげると間近に未宇の顔があった。そのさまに息をのむ。食事をしていたときは、まるで子どものような無邪気さだったのに。
赤く染まった目元からは、視線を釘づけにする何かが漏れている。少しすぼまった唇の端には、誘うような何かが浮かんでいる。
「朝希くん……」
伏せた睫毛が持ち上がる。おれを視界に入れると当然のように未宇はほほえむ。いつものあどけない表情がじわじわと広がり、先に乗った大人びた色と混じり合う。
目が離せない。どうしてかわからないけど、強く――未宇に触れたいと思った。
「ごめん未宇ちゃん、サイズそれしかないみたい!」
反射的にカーテンから手を離す。ふたたび未宇の、今度は下着の上にシャツを羽織っただけの姿が見えそうになり、慌ててうしろを向く。だけど体は動かさない。未宇がカーテンを閉めるまで、衝立があったほうがいいと思ったからだ。
「……アキちゃん、なにしてんの?」
試着室に背を向けて直立する男はさぞかし奇妙だったのだろう。戻ってきた涼子が訝しげに尋ねる。
「が、ガード……?」
そしておれも、素っ頓狂なことしか言えなかった。
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