【5】涼子・2
ひねった(ことになっている)足の問題はおれを悩ませた。
涼子は怪我にひどく過敏だった。絆創膏やら何やらを山ほど持ち歩き、かすり傷ひとつでもかいがいしく世話をする。今回もおれが保健室に行っていないと知ると驚き、結局は無理に連れて行かれた。さすがに湿布までは持ってないからというのが理由だった。涼子は謎に悔しがり、次までには用意しておくと息巻いた。
おれも「よくなった」タイミングを計るのに苦労した。涼子に支えられて帰るわけにもいかない。そのうえ彼女は進んでそうしそうだった。
未宇も一緒に帰ることになった。家が隣の区らしい。「途中まで一緒に帰らない?」と誘う涼子に、史也は混ざれないのを悔しがった。彼の家は反対側なのだ。
歩きながらいろいろなことを聞いた。何回もされただろう質問に、未宇は嫌な顔ひとつせず答える。以前は北海道に住んでいたこと。家庭の事情で久鵺に来たこと。両親とは別に暮らしていて、今は歳の離れた兄とふたり暮らしだということ。食事は自分が作ること。勉強はあまり得意じゃないこと。
「大変ねえ」
涼子の声には多分の同情が含まれていた。彼女の両親も出張続きで家にいない。だからいつもおれの家で夕食を取る。親から預かったのだろう少し厚みのある封筒を、ときどき母親に渡しているのを見たことがあった。
「そんなことないです」未宇は首を振る。「今のわたしにはそれくらいしかできませんから。少しでも兄の役に立ちたいんです」
その言い回しに違和感を覚えた。両親より、兄の比重が大きく聞こえる。
もう一段深い事情がある気がした。彼女があんな――おかしな告白をしてくる何かが。
「あ」
未宇が声をあげた。三条目川にかかる橋を渡り終え、大きな道に出たところだった。彼女は立ち止まり、名残惜しげにおれを見た。
「わたし、こっちなので。ありがとうございました」
「じゃあ、また明日」
「ばいばい!」
小さく頭を下げ、未宇は去っていく。遠ざかる背をおれたちはしばらく見送った。
「なんか、不思議な感じの子よね」
「うん……」
「ふわふわしてるっていうか、ほっとけないっていうか。守ってあげたい感じ?」
「うん……」
「ん?」
急に視界に涼子が現れ、おれはのけぞった。笑みを含んだ視線とかち合う。
「ぼーっとしちゃって。未宇ちゃんに夢中?」
「違うよ」
顔を背けて歩き出す。別れ際の未宇の寂しそうな目がまだ頭に残っていた。あんな顔をされたのは初めてだ。
もしおれが「送るよ」なんて言ったら、彼女はどうしただろう。一気に表情が明るくなって、何度も頷いたかもしれない。そう思うと胸が暖かくなり、実際そうしなかったことを後悔した。隣に未宇がいないのを寂しく感じる。
でもすぐ告白のことを思い出す。初対面の相手にするとは思えないもの。おれたちは今日会ったばかりだ。その事実が――未宇のかわいらしい容姿や、いじらしいふるまいをもってしてもごまかせないほどしっかりと――脳に楔を刺していた。心が浮き足立っても、頭のそれが邪魔をする。おかしい。冷静になれ、と。
並んで家路を行く。相変わらず挙動不審なおれを、涼子はそっとしておいてくれた。
柔らかな風が吹いていた。ふと隣を見るとひときわ風が強くなる。涼子の髪がうしろに流れる。夕日に滲んだ顎のラインが、なんだか特別に感じられた。
「どうしたの、アキちゃん?」
妙な感覚をごまかすようにおれは小さく首を振る。「んー?」と彼女は首を傾げたが、深掘りする気はないようだった。
聞かれても困ってしまう。どうしてそう感じるのか、自分でもわからないのだ。
「なにかあったら言ってね。話せば解決することもあると思うよ」
涼子は無理に聞こうとしなかった。それでもう、洗いざらい話してしまいたくなる。この瞬間のことだけじゃない。今日起こったあらゆることを。
未宇にセックスしようと言われたこと。彼女に何か、心の病があるとしか思えないこと。
その現場を梨音に見られたこと。彼女をかわいいと言う史也にもやもやすること。
未宇が自分の挙動で一喜一憂するのを見て、嬉しいとか気まずいとか思うこと。悩みがあるならどうにかしてあげたいこと。でもどうしたらいいのかわからないこと。
涼子が朝と違って見えること。それもなぜかはわからないこと。
彼女は答えを持ってる気がした。相談すれば、喜んで応えてくれるだろう。
聞いてみたい。でも同じくらい言いたくないとも思った。未宇に失礼だという気持ちもある。だけどそれ以上に、女子のことで悩んでいるのを彼女に知られたくなかった。
相談すれば楽になれる。でもそれじゃ、涼子にとっておれはいつまでも「ほっとけない弟」のままだ。そう思うと口は重くなった。
それでもひとつだけ聞きたかった。自分で考えるには限界があって、誰かの――それも女の子の――意見を聞きたいと思うこと。
「あのさ」
涼子はおれを見る。「なになに?」と聞く表情は興味津々だ。本当は聞きたかったけど我慢して聞かなかったんだ、というのが漏れ出ている。
そんな顔をされると質問しにくい。彼女が聞きたいこととはズレてるだろうから。でも声をかけた手前撤回もできず、おれはしどろもどろで口にする。
「その……涼子は……好きじゃない相手と……キス……とか、できるのかなって……」
「どしたの!?」
今日一番びっくりした顔をされた。当たり前だ。こんな話がおれたちの間で出たことはない。言いわけを探して、唯一おれが知っていて涼子が知らない人間の名を出す。
「えーと、その……梨音から、そういう人の話を聞いてさ。おれはよくないと思ったんだけど、普通……女の子は、どう感じるのかなって」
涼子は少し真面目な表情になった。「よくないっていうのは?」
今度はおれがびっくりする。まずいことを言っただろうか。
「気持ちがともなってないとだめ、みたいな……?」
おそるおそる言うと、涼子は腕を組んで顎を落とした。「うーん……」と小さく唸る。
おれは内心びくついていた。考えたことがないわけじゃない。それでもなんの根拠も前提もなく、気持ちがともなわない行為なんてないと思っていた。
「だめってことはないんじゃないかな」少しして彼女は言った。
「そうなのか?」
涼子は顔をあげ、目を細めて遠くを見つめる。
「そもそも、好きな人に好かれるってすっごく奇跡的なことじゃない? 全部が全部、そんなふうにはならないでしょ。だから、この世でお付き合いしてる人たちはみんな――多かれ少なかれ、どこかで折り合いをつけてるんじゃないのかな。
そう考えると、キスとかのふれあいが先に来て、それがきっかけで相手を好きになるってことも、めずらしくはないんじゃない?」
「うーん……」
今度はおれが唸る番だった。突然キスされて、相手が気になって……そんな気持ちは理解できる。
だけど、キスとセックスはきっと違う。
「なになに、どしたの。なんか言いたげ?」
どこまで質問していいのだろう。そんなこともわからない。視線を逸らして「セクハラになる……」と呟く。
「気にしないでよ。あたしたちの仲じゃない」涼子は笑う。
そこまで言うなら聞いてもいいだろうか。おれなんかいつ精通したかまで知られてしまってるわけだし。
「……キスじゃなくて、その」
「うん」
「えっちなこと、とかは……」
「アキちゃん!?」
今日一番のびっくり顔が更新された。あまりの恥ずかしさからおれはやけくそになって怒鳴る。
「だから言いたくなかったんだよ!」
「複雑なきもちー……」
「なんだよ!」
気持ちの表れか、涼子の上半身は四十五度くらい左に傾いでいた。
「アキちゃんがなんにも気にせず恋してくれたらって思ってたけど、こんな一足飛びに大人になられちゃうとやっぱりさびしい……」
「うるさいなあ!」
めちゃくちゃ子ども扱いされてる気がする。言わなきゃよかった。しょげるように背を丸めてるくせに、顔は笑ってるし。
涼子は少しそうやって寂しがってるふりをした。それからすっと背を伸ばし、静かな口調で続ける。
「そういうことも一緒じゃない? お互いに好きだけど体の相性が悪かったから別れた、なんて話も聞いたことあるもの」
「ええ……?」
急に知らない世界の話になった。おれの声色から感情を読み、涼子は意地悪く笑う。
「女子って結構進んでるのよ」
おれは涼子とこんな話をしたことがない。けれど彼女はきれいだし、おれにさえ構ってなければ引く手あまただったんだろうなとは思う。だからそれを聞いて、今度はおれが複雑な気持ちになった。
おれの知らない涼子はいる。知らなかったのは、彼女が見せないようにしてたからだ。自分の未熟さのせいとわかってはいたけれど、やっぱり悲しかった。
こんな話続けてもいいのだろうか。そう思いつつおずおずと口にする。
「涼子はどう思うんだ……?」
「それはセクハラかも」
「ごめん……」
勢いはすっかりなくなっていた。涼子はおれが意気消沈したのに気づいたのか、妙に明るく「うそうそ、アキちゃんならいいよ」と笑った。
「あたしは、やっぱり好きな人とがいいって思うかな。それは別に、特別な体験だから好きな人としたい、ってわけじゃなくて。人間ができることって――食べて、寝て、繁殖して――ほとんどたいしたことないじゃない? どんな生物でもやってるような、ありきたりなことよね。それが特別になる……自分の人生で価値ある体験になるっていうのは……結局のところ、いつ、誰とそれをするかってことじゃないかと思うの」
涼子はおれをちらりと見た。「……わかる?」
おれは彼女から目が離せなかった。夕日のせいか、やけに眩しく見える。
「……おれ、こどもだ」
ようやくそれだけ呟くと、アスファルトに目を落とす。おれと涼子の影が並んでいた。隣の影は実際以上に大きく見えた。
「そんなことないよ」ふたつの影がくっつく。「アキちゃんの考えかた、あたしは好きだよ。女の子とするそういうことを、大切に思ってくれてるってことだもんね」
頬が熱くなる。言葉にされると恥ずかしい……すごく恥ずかしい。一方で、涼子がそう言ってくれるのが嬉しかった。
「ねえ、アキちゃん」
影が離れ、小さくなる。ふり返ると、道に立つ涼子のうしろに太陽の名残が見えた。
「あたしって、大事な幼なじみよね?」
「なんだよ急に」
ふざけてるのかと思ったが、涼子は静かな笑みを崩さない。「ん?」と催促するように首を傾げる。そこに朝のような強情さを感じ、おれは「あたりまえだろ」と口にする。
こんなことを聞かれるのは初めてだった。いつもおれの気持ちを先回りする涼子なら、そんなこと言われなくてもわかってるだろうに。
「アキちゃんにも、これからいろんなことがあると思う。誰かを好きになって、恋人ができて。それこそさっきの話みたいに、キスしたり、えっちなこともするかもしれない」
「そ、そうかな……」
想像もつかない。自分にはできないと思い続けてきたから、考えること自体が困難になっている。未宇に告白されたときだって、いかに切り抜けるかしか頭になかった。
「そういうことがあったら、あたしに最初に教えてほしいの」
「え……?」
涼子はまっすぐおれを見た。「あたしが一番にお祝いしたい。……だめ?」
「……いい、けど」
それしか言えなかった。涼子はホッとしたように「約束ね!」と笑う。
「うん……」
おれたちはいつもと同じに家まで歩いた。いつものように話をし、自然な沈黙も流れたが、おれはずっと、心に小さな穴が開いた気分だった。
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