【4】梨音・1

 数分はその場にへたりこんでいた。やっと動く気になり、でも腰に力は入らないまま、這いずるように校舎の壁まで行く。背をそこに預け、背後に空間がなくなったことでようやく安心した。

 未宇はもういない。そのはずだが妙に不安で、首だけ廊下に差し入れて彼女が去った方角を確認する。

 誰もいない。

 今度こそ肩の力が抜けた。深いため息がこぼれる。

 なんだったんだ、今のは――。

「みーちゃった」

「うわああ!?」

 すぐうしろから声がした。再度体が固くなる。クスクス笑う声に振り返ると――目の前――おれがさっき一瞬もたれた壁のちょうど裏側で、女の子が膝を抱えて座っていた。

「なにしてんの!?」

「こっちのセリフなんですケド」

 髪の短い女の子だった。ブレザーの下にパーカーを着ており、首元から薄紫のフードが見えている。長い袖を口元に当て、おれの顔をじろじろ見ながら含みありげに「ふーん」とこぼした。

「なに」

「いやあ。あんなに熱烈に迫られてるから、どんなもんかと思ったけど……」

 その先を察して気分が悪くなる。だがそう言われても仕方ないほど少女は整った容姿をしていた。未宇のような甘さのある顔とはまた違う。幼いなかに大人びた影を感じる。ぱっちりとした目の奥には理知的な光があった。

「なんだよ……」

 別に自分を格好いいと思っているわけじゃないけど、初対面でがっかりされる筋合いはない。そんな意図を多分に含んだ視線を向けると、少女は面白そうに笑った。

「そんな怒んないでよ。別にのぞく気なかったんだよ? なんなら気を利かしたつもりだったんだから。ちょうどここにきたとき、告白の真っ最中だったんだもん。水差すのも悪いと思って隠れてたんだよ」

 おれが気分を害した理由を少女は勘違いしているようだった。これくらい整った顔立ちなら、容姿について言うことで他人が傷つく可能性など考えないのかもしれない。

 そしておれも、本来ならそのことに腹を立てるべきだったと気づいた。次々にいろいろと起こるから思考が散漫になっている。せっかく未宇は人目を避けようとしていたのに。クラスメイトの告白――それもどこか病的なもの――を他人に聞かれてしまった。

 おれの焦りに気づかず、内緒話でもするように身を寄せて少女はささやく。

「あの人、ちょっとヤベーやつ?」

 今度こそ、はっきりと気分が悪くなった。

「勝手に聞いといて、そういうこと言うのやめろよ。なんか……事情があるんだよ」

 半分は願望だったが、言い返さずにいられなかった。少女は少し驚いた顔をし、それから目を細めて再度「ふーん」と呟いた。先ほどとは違うニュアンスの音だった。

「……なんだよ」

「女の子に迫られてたじたじだったじゃん。ただのヘタレかと思ってたけど、ちゃんと言うこと言うんだね」

「さっきから失礼だぞ……」

 女生徒は意味深に笑う。

「ホントに失礼だと思うよ。だっておにーさん二年でしょ?」

「え?」

「アタシ一年。日下辺梨音(くさかべ・りおん)」

 言いながら梨音は袖に半分埋まった右手を差しだした。おれは足元に目を向ける。この学校は上靴に入った線の色で学年がわかる。梨音の靴の線は青で、それは確かに一年の色だった。

 視線を戻すと目の前でひらひらと手が揺れた。握手をしろ、ということらしい。無視するのも気が引けて指先を軽く握る。小さな手は、一、二度上下に揺れて離れた。

「おにーさんの名前は?」

「田嶋、朝希……」

「朝希ね。ヨロシク」

 失礼と言いはしたが改める気はないらしい。といっても怒りは湧かなかった。むしろ妙にさっぱりした少女の空気が、先ほどまでの粘ついた混乱を中和してくれるようだった。

 目の前で細い足がすっと伸びる。立ち上がった梨音はスカートの裾を軽く叩いた。いまだ座りこむおれの前に改めてしゃがむと、膝を支えに頬杖をつく。

「立てないの? 起こしてあげよっか」

「いいよ、別に」

 言いながら膝に力を入れたが立ち上がれなかった。あの告白の衝撃は思った以上に大きかったらしい。しかし後輩の前でそれを認めることもできず、中途半端な姿勢のままおれは無言でそっぽを向いた。

「腰ぬかしてんの? やっぱヘタレじゃん」梨音は声をあげて笑う。

「うるさいなあ、どっか行けよ」

 さっきから幼い返しばかりだ。梨音は当然のように言うことを聞かず、笑顔のままおれの腕を掴んだ。

「ほら、行くよ」

「なんだよ」

「ここに座ってたってしょうがないじゃん。送ったげる」

「いらないって」

 女の子に告白されて腰を抜かしてるってだけでも情けないのに、それを別の女の子に送ってもらうなんて。情けなさすぎる。

 そう思い拒絶しても、梨音はまったく意に介さない。ぐいぐいと腕を引っ張る。

「朝希って何組なの?」

 たわむれのようなふるまいだったが、それだけでおれの体はずるずる動いた。ぎょっとして梨音を見る。視線が合うと、彼女は意地悪く目を細めた。

「意外と力あるでしょ。頑張って立たないと、このまま人目のあるとこまで引きずってっちゃうよん」

 それは嫌だ。

「わかっ……わかったから、ちょっと待って……!」

 いつの間にか渡り廊下の端まで引きずられていた。そんなに軽かっただろうか。背は高くなくても、体重は人並みにあると思っていたのだけど。

「立てたら肩貸してあげるから。頑張れー」

 応援のつもりだろうか、梨音は袖をポンポンのように振る。壁伝いになんとか立つと、本当に肩を貸そうともしてくれた。おれは最後まで自分で歩こうと試みたが、そうして踏み出した最初の一歩でふらついて、結局は彼女の肩を借りることになった。

 並んでみると梨音は背が低かった。おれも高いわけじゃないのに、頭ひとつ分は優に違う。こんな小柄な子に体重を預けるなんてと肩を借りてなお抵抗したが、梨音の力が強すぎるのか、おれに力が入ってなさすぎるのか、再び引きずられそうになって泣く泣く諦めた。

 おれを先輩扱いする気こそなかったが、梨音はいい子だった。口ではヘタレだなんだのと言いつつも気遣ってくれ、本調子じゃないなら保健室に行こうかとも言ってくれた。魅力的な提案だったが、おれは教室に戻るつもりだった。

「カノジョちゃん心配するもんね」

「カノジョじゃない……」

 梨音の言うとおりだ。彼女を除けば、おれと最後まで一緒にいたのは未宇だ。あんなことがあったあとで教室に戻らなかったら、余計な心配をするのではないかと思ったのだ。

「朝希ってすっごい気ぃ使うんだね。おもしろ」

「悪いかよ」

「悪くないけど。優しすぎていつか損しそうだなって思って」

「なんだそれ……」

「さっきのだってさ、その気ないなら断ればよかったじゃん。中途半端に気を持たせるのって、結局のところ相手にとっても一番きついんじゃない?」

「そ、それはそうだけど……突き放したらまずいやつなのかなって思ったんだよ……」

「どゆこと?」

「だって、転校初日であんなこと言うなんて絶対おかしいだろ。家庭の事情とか、なんか悩みがあってストレスで……とかだったら、突き放さないほうがいいじゃんか。助けになれるかもしれないし……おれがダメだからまた別のやつに……とかは、未宇にとってもよくないだろ、たぶん……」

 おれは断りの選択しか出なかったが、他の男子もそうとは限らない。未宇はかわいい。誘惑されたら据え膳食わぬと手を出すやつだっているはずだ。そうなるよりはここで留めたほうが安全だと思った。少なくともおれは、まだ女の子に手を出せるような精神状態じゃないわけだし。

「ちゃんと考えてたんだ」

 梨音は目を丸くしておれを見上げる。瞳に初めて尊敬の色が浮かぶのを見て、半分は今考えた理由だというのは黙っておくことにした。

「てかあの子転校生なの!? やーばっ! 『会って三時間』って、知りあってからマジで三時間しか経ってないってこと!?」

「そうだよ……」

 わあわあ騒ぐ梨音に支えられながら小さくため息を吐く。ああは言ったが、どうしたらいいかはわからなかった。教師に預けるべきかもしれないが、ヘタに上から触れるとこじれるケースもある。

 年下の女の子に支えられ、とんでもない告白をしてきた少女の待つ教室が近づく。気が重くならずにはいられなかった。


 二年の教室だというのに、梨音はまったく臆することなく足を踏み入れた。教室中の視線が集まる。あまりにさっさと入っていくので、別れるタイミングを逃したおれも引きずられながらあとに続いた。

 中央では未宇と涼子が携帯を突き合せていた。近くには史也もいる。三人はおれに気づくと近づいてきたが、横にぴったりと立つ梨音を見て目を丸くした。

「朝希、くん?」

「アキちゃん、遅かった、ね……?」

「お前……矢代さんをひとりで帰らせたかと思えば、また別の美少女連れて戻ってくるとか……ちょっと肉食すぎないか? そこまでやれとは言ってないぞ」

「朝希、このひとアタシのこと美少女だって」

「聞こえてるよ……」

 梨音はおれから離れないまま三人に笑顔を向けた。自由になっている左手を差しだす。

「アタシ、日下辺梨音です。ヨロシク!」

 皆は少し逡巡したものの順に握手を交わした。梨音は楽しそうに袖を揺らす。こうして見ると彼女は本当に人なつこかった。うらやましいくらいだ。

「朝希くん。その……どうして日下辺さんと?」

 未宇がおずおずと尋ねる。自分と別れたあとのことを気にしているのだろう。あの告白に腰を抜かして送ってもらっただけなのだが、正直に言うわけにもいかず「足ひねっちゃってさ」と嘘をつく。

「ホント。アタシがいてラッキーだったね、朝希」

 梨音は意味ありげに笑っておれの顔をのぞきこんだ。話を合わせてくれるつもりだ。感謝しつつも距離の近さにどぎまぎする。

 体が密着するのは仕方ない。足をひねったので支えてもらってる設定だ。しかし顔まで寄せられると――距離が近すぎて、抱き合ってるように感じてしまう。

 思わず視線を逸らすと、悲しそうにうつむく未宇が目に入った。

 一気に冷静になる。今のおれは彼女の告白を中途半端にしておいて、目の前で他の女子とベタベタする最低の男だ。

「あ、ありがとう梨音! すごく助かった! もう大丈夫だから」

 やんわり梨音を押し返す。彼女は横目で未宇をちらと見て、またにやーっと笑った。

「わかった。それじゃ行くね。アタシ1-Dだから、会いたくなったらいつでも来ていいよん。じゃーね朝希」

 手を振るのに合わせて袖が揺れる。梨音のかわいらしさは尋常じゃなかった。小柄なシルエットが大きめのパーカーでますます際立つ。愛らしい小動物のようだ。

 男子たちの注目を最後まで集め、彼女の姿は廊下へと消えた。

「かわいい子だったわねえ」

 ため息をつくように涼子が言う。小さく頷くおれの肩に史也が勢いよく腕を回した。

「お前どうしたんだよ急に! あんな子いたか!?」

「一年だってさ。偶然助けてもらったんだよ」

「いや、あんだけかわいかったら噂のひとつくらいなるだろ……新入生はチェックしてたはずなのに……」

「それは知らないけど……」

 史也は涼子のことが好きなんだと思っていた。それなのに、他の女子に目を向けるのはなぜだろう。

 訝しげな視線に気づき、肩の手がぎこちなく離れていく。

 違和感を抱くのはこんなときだ。新入生のかわいい子なんて、おれは知ろうとも思わなかった。こういうことでもなければ一生関わらない存在だ。それがかわいいとかかわいくないとか、そんなことが気になるものだろうか。

 なんだかもやもやする。

「ねー見て見て」

 絶妙のタイミングで涼子が口を開いた。「仲良くなったの」と未宇の体を引き寄せる。恥ずかしそうに身を縮めつつ未宇も薄くはにかんだ。

「そっか。涼子、すごくいいやつだから……仲良くしてくれると嬉しいよ」

 未宇はこくこく頷いて、涼子も嬉しそうにした。

 二人が友だちになるのはいいことだ。おれには言いづらい悩みを聞き出したり、相談に乗ったりすることが、涼子にならできるかもしれない。

「朝希くん」

 未宇が改まって寄ってくる。思わず体を硬くするが、表に出さないよう注意する。人目が多いから突拍子もないことは言わないはずだ。

「なに?」

「さっきの子……日下辺さん。仲、いいんですか?」

 眉尻が限界まで下がり、目は今にも泣きそうだ。不安なのがひと目でわかる。申し訳なく思うが、まさか告白を聞かれて絡まれたとも言えない。「まあ、それなりに……」とおれは曖昧に笑った。

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