【3】未宇・1(2)

 昼休みに入ると、史也が「行くぞ」と言いだした。わけもわからず立たされる。

 おれの昼食は弁当だ。最近は史也も弁当で、図らずも一緒に食べている。涼子はいつも購買なので、授業が終わるや否や「パン買ってくるね」と出ていった。

「どこ行くんだよ」

「いいから」

 行き先は矢代未宇のところだった。朝ならまだ気乗りしたかもしれないが、あんな顔を見たあとでは近づくのが怖い。しかし言うこともできず、連れられるまま席へ向かう。

「矢代さん、こいつ友だち。田嶋朝希っていうんだ。仲良くしてやって」

 矢代未宇はおれを見るとぱっと顔を輝かせた。思いもよらない反応にぎょっとする。あの一瞬のせいで彼女を妙にいびつなものと感じていたが、こうして見れば目の前にいるのは普通の女の子だった。つけ加えるなら、かなりかわいい。

 彼女の様子に気づいたのはおれだけじゃなかった。「あれ、矢代さんこういうのがタイプ?」と史也はおれを小突く。

「せっかくだし、学校案内してやったら?」

 史也の言葉に間髪入れず、彼女は何度も頷いた。

「お、お願いしたいです……! 朝希くんさえよければ……!」

 今度こそおれたちは揃って目を丸くした。おれのことを「朝希くん」なんて呼ぶ女生徒はいない。

 史也は意味深な笑みを浮かべた。「こんだけ言われちゃ断れねえよなあ」

「あのさ史也、こういうのやめてほしいんだけど……」

「心配してんだろ? こんなかわいい転校生がきてるってのに、興味ないふりなんて流行んねーぞ。そういうのが許されるのは中学までだって。もう少し素直に生きなきゃな」

 それは好きにしたらいいが、押しつけるのはやめてほしい。おれだって興味がないわけじゃない。ただこういうのには自分のペースがある。おれが精通したのは今朝なのだ。

 どう返すか迷っていると、矢代未宇が立ち上がった。おれたちの意識はそちらへ移る。

 彼女は両手を強く握り、胸元へと引き寄せた。頬は赤く染まっている。潤んだ目をおれに向け、小さく首を傾ける。

「だめ……ですか?」

 なんだかんだ言っても、間近で見る矢代未宇はかわいかった。女性を性的に見ることこそ難しかったが、かわいい女の子のお願いを断れないほどには、おれは男だった。

「……いい、けど」

 途端、表情が一気に明るくなる。いちいちかわいい。少女漫画のヒロインみたいだ。

「宗田さんには俺から言っとくから」

 史也がにやつきながら背を叩く。そっちが目的かと思ったが、口には出さなかった。

「じゃあ、行こうか」

「はい!」

 彼女は本当に嬉しそうだった。会ったばかりの転校生にそこまで喜んでもらえることを少しだけ得意に思う。

 同時に、わずかな不安も感じた。


 おれたちは特別教室のある三階から歩いた。一階に行けば比較的すぐ使うだろう購買や食堂、体育館などを案内できる。でも涼子と鉢合わせたら嫌だったので、何も言わずあとに回した。空腹だろうに、矢代さんも文句なくついてきた。

 三階、二階を回り、一階へと降りる。向かう順番に少し迷い、彼女に声をかけた。

「矢代さん、お腹すいたよね。お昼どうするの。持ってきてる?」

「そう……ですね。外でお弁当とか、食べたりできますか? 静かな場所があったら、知りたいんですけど……」

 恥ずかしそうに矢代さんは指を組む。それを見ながら、さっきからやけに細かい仕草が目につくことに気がついた。今までにないことだ。例の変化が理由だろうか。それとも、彼女のかわいらしさが原因なのか。

 体育館へと続く渡り廊下にやってきた。壁はスライド式の扉で外へとつながっている。基本的にいつも全開で、閉まっているのは雨の日ぐらいだ。扉の前には土間代わりのシートが敷いてある。

「体育館への廊下はふたつあって、みんながよく使うのは反対のほう。こっちは教室から遠いから、人通りも少ないんだ。職員室からは近いから、通るのは先生くらいじゃないかな」

 言いながら土足で外に出る。本当はだめだが、守っている生徒なんかいないだろう。

 外は様々な種類の生け垣で飾られ庭のようになっていた。といっても、進んでいけばいずれ敷地を囲うフェンスにぶつかる。フェンスの前には木が植えられ、易々と中を覗けないようになっていた。そのうちの特に太い一本を指差す。

「あの木が、一昔前は『告白したら上手くいく木』って言われてたんだ。そのころはここもにぎやかだったらしいけど、だんだんあそこで告白するのは逆にダサいみたいな感じになって……それからは人が来なくなったみたい。まあ、草ばっかだから虫も出るしね」

 いつだったか涼子から聞いた話が役に立つとは思わなかった。目の前の少女も興味深そうに聞いている。

「矢代さんが虫とか気にならないなら、静かでいいと思……」

「あの!」

 突然の大声に驚いて口を噤む。彼女は顔を真っ赤にして、潤んだ目でおれを見つめた。さっきも見た表情だ。

「み、未宇って呼んでくれませんか。朝希くんさえよければ……」

 何か、変だ。

 おれの冷静な部分は明確に疑念を抱く。

 でもおれの冷静じゃない部分は、信じられないくらいどぎまぎしていた。こんな会話をしたのはいつぶりだろう。気づけば隣に涼子がいて、女子との会話も彼女を挟んで行われていた。こんなかわいい子と一対一で話して、こんなことを言われて。これはつまり、少なくとも彼女のほうは、おれと仲良くしたいと思ってくれてるということだ。

 最初から名前呼びというのはちょっと急な気がするけど、不器用なだけかもしれない。おれだって人のことは言えない。彼女がそういうのを好む性格だとしたら、おかしな話じゃないのだ。

 教壇での様子を思えばすぐわかる。どう考えたっておかしな話だ。だが生じた違和感をおれは無視した。

「全然……いいよ。よろしく。未宇、さん」

 彼女は悲しげに眉尻を下げる。「さん……」と小さく聞こえ、慌てて言い直す。

「未宇、未宇だね。その……これからよろしく」

 ぱっと顔を輝かせ、未宇は何度も頷いた。おれも胸を撫で下ろす。とりあえず校舎へ促そうとして、やけに距離が近いことに気づいた。

 名前で呼ばれて嬉しく思う表れだろうか。さっきまで腕一本分ほどの距離はあったはずなのに、今は動けばぶつかりそうだ。

「み……未宇?」

「朝希くん……その。もうひとつ、お願いがあるんですけど」

 未宇はどこか思い詰めた顔をしていた。環境が変われば不安も多いだろう。軽い気持ちで頷く。

「いいよ、おれにできることなら。あ、でも勉強のことだったら他のやつのほうがいいかも。おれそんなに頭いいわけじゃ」

「わたしと、セックスしてください」

 梢の音が聞こえる。遠くでは鳥が鳴いている。すでに昼食を終えた生徒でもいるのだろうか、体育館からはボールをつく音もする。

 胸が段々苦しくなって、呼吸を忘れていたことに気づく。詰まったような気管に無理矢理空気を入れて、吐き出すのと同時に言葉が漏れた。

「……え?」

 聞き間違いだと思った。「なに?」と聞き返すと、未宇はますます顔を赤くして、目をぎゅっと閉じて、勇気を出して言います、みたいな顔をして叫んだ。

「わたしと、セックスしてください!」

「ちょちょちょ、ちょっと!」

 両手で未宇を制しながら周囲を見回す。誰かに聞かれたらおおごとだ。幸いにあたりに人影はなく、体育館のボールの音も続いている。必死な様子の未宇に向き直り、矢継ぎ早に尋ねる。

「なに? どうしたの? いじめ? 罰ゲームとか?」

 未宇はぶんぶんと首を振る。そりゃそうだ。転校初日の昼休みでいじめの罰ゲームなんて、いくらなんでもはやすぎる。

「えっ、じゃあなんで……悩み? あるなら相談……いや、おれじゃなくてちゃんとしたところのほうが……」

「わ、わたしじゃダメですか?」

 未宇はどんどん迫ってくる。もう指一本分も距離がない。

「いや、ダメとかじゃなくてさ――」

「顔も体も悪くないと思います。絶対満足させられます」

 息がかかるほどの距離。未宇の表情なんてもはやわからない。うつむけばおれの胸に押しつけられたたわわな胸が視界に入る。かといって顔をあげれば、艶やかな女の子の唇。

「あっ……ちょっ……その……」

「朝希くんにしか頼めないんです。わたしのこと、好きにしていいですから……」

 死ぬわけじゃないのに、今までのことが走馬燈みたいに駆け巡る。精通がこなくて悩んでいたこと。誰にも相談できなかったこと。下ネタが理解できないこと。男子ノリに馴染めなかったこと。涼子といるほうが楽だったこと。

 今朝、ようやく精通が来て。涼子にも母親にも全部バレてて。だけどようやく息がしやすくなって。涼子に言われたとおり、恋をしたっていいのだ。

 でも、これは違う。よくわからないけど絶対違う。

 いつの間にか尻餅をついていた。支えようとしてくれたのだろうか、右手は未宇に握られている。

 彼女は徐々に腰を下ろし、おれの片足をまたいで膝立ちになる。右手は胸元に引き寄せられ、手のひらに柔らかい感触が落ちた。

 未宇はおれを見下ろす。顔に影がさしていて、それでも頬が赤いのがわかった。目は濡れて光っている。

「朝希くん……」

 理解が追いつかない。

 まるで知らない人間だ。そもそも彼女を知ったのがほんの数時間前だとしても。

 未宇の顔が近づいてきて、止まった。おれたちの顔の間を遮るように手のひらがある。おれの左手だった。まったく自覚なく出していた。

「朝希くん?」

「そっ……そういうことは、その……気軽にしないほうがいいっていうか……もっとその……自分を、大切に……」

「自分を、大切に?」

 未宇が復唱してくれたおかげで少し気持ちが落ち着いた。あまり刺激しないよう、言葉を選びながら続ける。

「そう! 本当に好きな人と、するべきなんじゃないかって……」

「朝希くんのこと好きですよ?」

「そうじゃなくて! リスクもあるし、恋人でもないし……とにかくお互いのことなんにも知らない状態ですべきことじゃないよ!」

 最後はやけくそになって叫ぶ。言葉を選ぶなんてはなから無理だった。なんならずっと混乱しているのだ。

「リスク……」

「そ、そうだよ。避妊したって子どもはできるんだぞ」

 幼児みたいな口調になってしまう。恥ずかしかったが気にしていられない。口を止めたらだめな気がする。

「未宇はかわいいけど、おれは未宇のこと何も知らない。会って三時間くらいだろ。なんでそんなこと言いだしたのかわからないけど、理由があるのかもしれないけど、おれはそういうことは相手を知ってから考えたほうがいいと思うし、未宇にもそうしてほしいって思う……」

 未宇は静かになった。おれも動けなかったが、沈黙が続くにつれ、この体勢もたいがいまずいのではないかと思い始めた。右手は先ほどから彼女の胸に置かれたままで、手のひらにぬくもりがずっとある。指先一つ動かせないのでいい加減につりそうだ。まだ誰にも見とがめられてないのは幸いだった。人通りの少なさに感謝する。

「それが、自分を大切にするってことですか?」

 未宇がぽつりと言った。あどけない、不思議そうな声色が、赤ちゃんみたいな印象を与える。そこに説得の余地を感じて必死に頷く。

「そ、そうだよ。お互いのことをちゃんと知って、納得のうえで――」

「つまり」言葉を遮って未宇は続ける。「朝希くんは、わたしのことをもっと知りたいってことですか?」

「そ、そうなる、かな……?」

 そう言われると違和感があったが、すぐに意識は持っていかれた。未宇がにじり寄ってくる。右手はすっかり胸に沈んでしまったというのに、彼女の顔がどんどん近づくのでそれどころではない。

 おれの目の前までくると、未宇は輝かんばかりの笑顔を見せた。

「仲良くなったら、セックスしてくれるってことですよね?」

 それはちがう。

 でも、今はそういうことにしておいたほうがいい気がする。この体勢を誰かに見られるほうがまずい。

「か、考えておく……」

 消え入りそうな声で言うと、未宇は赤い頬でほほえんだ。そこには何の悪意もない。こんなにかわいいのに。どうしてなんだろう。

 彼女は立ち上がり「戻りましょう」と促した。柔く握られた手を、おれはおそるおそる引き戻す。

「さ、先に行ってて……」

 腰が重くて動けない。体に力が入らなかった。それに、未宇とも距離を置きたい。ひとりになって今のできごとを整理したい。

 彼女は素直に手を離した。「じゃあ先に戻ってますね」と軽い足取りで廊下へ向かう。しかし、途中で「あ」と声をあげ、戻ってきた。

「な、なに……?」

 上手く笑えている気がしない。こんなにかわいい子だっていうのに。悪い子じゃないとも思うのに。予想外のことばかりだから、また何かされるのかと体を硬くする。

 未宇はつつつとおれの側まで来ると、再度体を近づけた。愛らしい顔が大写しになる。つやつやの唇がそっと開かれる。

「セックスのときは、避妊しないでくださいね。朝希くんの、生でほしいので」

 恥じらいながら言う目元は潤んでいた。ごまかすように一度笑みを浮かべ、未宇は今度こそ去っていく。とんでもない台詞を残して。

 茫然と彼女の背中を見つめる。それが校舎のほうへ消えて、見えなくなっても、耳には何も届かなかった。風の音も、鳥の声も、ボールの音も。

「な、なに……?」

 声をこぼしてようやく、世界が戻ってきた。

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