【3】未宇・1(1)

 学校には始業十分前に着いた。下駄箱に靴を収め、涼子と共に二年D組へと向かう。

 いつもと同じ景色なのに、妙にそわそわする。今日の自分が昨日と違うことに、自分だけが気づいている。それを知ってほしいような、すでに知られているような、むずがゆい気分だ。誕生日に登校するときの気持ちと似ている。

 気のせいか普段より学校がざわついていた。自身の異変が頭を掠めたが、そんなわけがないと思い直す。確かにおれにとっては転機となる日だ。でも、同窓生にとってはただの一日だ。

 しかし教室に入ると明らかに空気が違っていた。ざわつきはD組が際立って大きく、誰しもがどことなく落ち着かない態度でいる。

「朝希! 来たか」

「史也」

 笠月史也(かさつき・ふみや)は教室の中央で別の友人と話していたが、おれの姿を見るなり慌ただしく寄ってきた。少し明るく染まった髪が今日もツンツンに立っている。

「宗田さんも、おはよう」

「おはよう、笠月くん」

 涼子はにっこりと笑う。史也は一瞬視線をあさっての方へ向けたが、すぐにおれたちのほうへ向き直った。

「聞いたか? 転校生がくるんだと」

「それでこんなざわついてるのか」

 単純に驚くおれと異なり、涼子はわずかに眉根を寄せる。

「こんな時期に? 変わってるのね」

 言われればもう七月だ。期末テストも終わり、そろそろ夏休みに入ろうとしている。おれは「そんなこともあるんじゃないか?」と言ったが、涼子は納得いかないようだった。

「家の都合とかあるんだろ」

「にしたって、二学期からの方が区切りがいいと思うけど……」

 言いながらそれぞれの席に着く。おれたちはあまり席が離れたことはなく、今はおれの斜めうしろに涼子の席があった。彼女の隣が史也の席で、彼もあわせて席に着く。

「かわいい子だったらいいな。だろ?」

「おれに言ってる?」

「あたりまえだろ。宗田さんに言ったってしょうがないじゃないか」

 口にした史也はハッとして涼子に向かい「もちろん、宗田さんがかわいくないとかそういうことじゃ」などと言いだす。思わず苦笑したのが見とがめられたのだろう。制服の襟を引っ張られ、体が軽くうしろに倒れた。

「なに笑ってんだよ」

「違うよ、そんなんじゃ――」

「お前はノリ悪いよな、ほんとにさ」

 あーあ、とわざとらしく天井を仰ぐ。史也の言葉に胸が軋むのを感じつつ、おれは曖昧に笑った。

 史也は悪い奴じゃない。ノリの合わない相手と付き合える人間はそういない。最終的な目的が涼子と仲良くなることだとしても、ことあるごとにこちらを気遣い構ってくれる彼におれは恩を感じていた。

 控えめに言ってもおれはクラスで浮いていた。隣にいつも涼子がいるからというのもある。しかしもっとも大きな理由は、おれが女子の話をまったくできないことにあった。

 もちろん理由は前述のものが大半だ。しかしそれが派生して、男としての目で女子を見ること自体にいつからか罪悪感を覚えるようになっていた。

「お前だってかわいい子ならいいなって思ってるくせに。素直になれよ、この」

 頭を軽く小突かれる。友人のたわむれのようなやりとり。だが、妙に質量があるように感じるのは気のせいだろうか。

「はい、そこまで。あんまりアキちゃんをいじめないで」

 涼子からストップが入る。史也は不満そうに、だが隙間に嬉しさを滲ませながら、拗ねた調子で返す。

「宗田さんがあんまり構うから、こいつもこんな調子なんじゃないの? 下手に女子のこと話したら、宗田さんに怒られるんじゃないかとか思ってさ」

「あたしはアキちゃんがなに言ったって怒らないよ。ね、アキちゃん」

 にこにこと笑う涼子に史也は不満げだ。誰に何を言えばいいかわからず、おれは黙って頬杖をついた。

 そうしているうちに予鈴が鳴る。クラスメイトはばたばたと席に着き、間を置かないうちに担任が女生徒をつれてやってきた。クラス中の視線が集まる。

 柔らかな雰囲気の少女だった。目はたれ気味でくりくりとしている。不安からか眉尻が下がり、放っておけない印象を与えた。薄茶の髪の毛を肩口で切り揃え、桃色のリボンの髪飾りを左耳の上につけている。ハイネックのインナーでも着ているのだろうか、首元に黒い線が細く入っていた。ブレザーの下にリボンと同じ色のベストを着て、漫画のような色彩なのにそれがよく似合っている。

「でっけ」

 史也が小声で呟いた。おれは始めこそぴんと来なかったが(彼女の身長は低くなかったが、涼子ほどではなかった)、男子が色めきたったことでその意味を理解した。彼女は緊張からか身を縮こめていたが、両腕に押しつぶされたその胸は見たことがないほど大きかった。

 男子の反応が好意的なもので固まっていくにつれ、女子の反応は冷たいものとなる。少女は顔立ちも整っていた。コミック然とした制服の着こなしが許されるのはそのおかげもあるだろう。教室のうしろで、大きな髪飾りを嗤う女生徒の声がした。

 担任は黒板に手早く文字を書く。そうして振り返り、二度ほど手を叩いて注目を己に移した。

「突然だから驚いたと思うけど、うちのクラスに転校生がくることになりました。みんな仲良くしてね」

 はーい、と茶化す声。担任教師の鈴原敏子(すずはら・さとこ)は軽く苦笑すると隣に立つ少女を見やる。彼女はこわばった表情で一歩前に出た。

「矢代未宇(やしろ・みう)といいます。よろしくお願いします」

 かわいらしい声は徐々にしぼむ。彼女が頭を下げると誰かが大きく拍手をして、それは教室中に広がった。

「それじゃあ、矢代さんはうしろの席ね」

 この列のうしろが空席だ。矢代未宇が近づいてくる。

 近くで見るとわかったが、彼女の首元にあるのはチョーカーだった。黒い生地を背景にした金属の飾りが、電灯を浴びてぎらりと光る。

 彼女の視線が動いて、万が一にも目が合わないようおれはうつむいた。

 休み時間になると彼女の周囲には人だかりができた。ほぼ男子で、史也も混ざっている。女子もぽつぽつといたが、そっちは転校生に興味があるというよりも、お目当ての男子が輪の中にいるという感じだった。ぼんやり眺めていると史也の席に涼子が座る。

「いいの? 行かなくて」

「いいよ……」

「興味ないの? 硬派ねアキちゃん」

 茶化してくる涼子をじと目でにらむ。「知ってるだろ」と言うと「ごめんごめん」とほほえみが返った。

「それにしてもびっくりしちゃった。あんなかわいい子がくると思わなかったもの。顔もかわいいし名前もかわいいと思ったら、声までかわいいし。すごいのね」

 涼子の声には嫌みがなく、おれは複雑な気持ちになる。なんだか誇らしいのと、面白くないのとがない交ぜになった気分だ。

「涼子の声のほうが――」

 おれは好きだけど、と言おうとして。さまよった視線は人混みの中で止まった。

 矢代未宇がこちらを見ている。

 口はときおり動いている。それ以外の時は笑顔が浮かぶ。でも目は、不自然なくらいこちらに固定されていた。

 周りのやつらは気づかないのだろうか。こうして外から見ていると、彼女の表情はすごく……奇妙だ。

 一秒、二秒、三秒。おれは明確に意識する。大きな目に絡め取られたみたいだ。

 ――見られている。

 と、何かが視線を遮った。それでおれは解放される。遮蔽物はそのまま近づいてくる。見れば史也だった。

「なにしてんの、ふたりして」

「あ、ごめんね」と立ち上がりかける涼子を制し、史也は彼女の席に座る。

「いいよ、宗田さんならいつでも」

 それからおれを見て、人混みを指す。「お前はいいの?」

「いいかな……」

 涼子に言ったことを繰り返す。でも詳しく説明できないので、歯切れの悪い口調になった。ぎこちない沈黙が落ちる。

「そういえばアキちゃん、さっきなに言いかけてたの?」

 涼子が明るく空気を壊す。それで気が楽になり、おれは考えなしに話に乗る。

「さっきって?」

「あたしの声がどうとか」

 だけどそっちも困る話題だった。二人きりなら言えるが、史也がいると気まずい。

「なんでもない……」

 結局は面白みのない返しになってしまう。史也が「宗田さんの声ってよく通るよな。おれは好き」と言って、涼子が「えー嬉しい!」なんて笑う横で、おれはただ座っていることしかできなかった。

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