【2】涼子・1
「違う世界にいるみたいだ」
その言葉に涼子は小さく笑った。
普段のおれなら非難の視線ひとつでも浴びせるところだが、今はそんなことする気も起きない。一瞥もせずにただ歩く。太陽のぬくもりが心地よかった。
「おばさん喜んでたよね」
「恥ずかしかったよ、十七にもなってさ……」
「心配だったんでしょ。やっぱり孫の顔は見たいだろうし」
今から孫なんて、と言いかけて飲み込んだ。母親の様子を思い出す。
汚れた衣類を持って洗面所へ行くと、母親と鉢合わせた。今思い返しても朝からずっと間が悪い。それでも結果的に気分はいいので複雑だ。
母親はおれたちに気づいて「おはよう」と言い、それからおれの手元を見た。彼女は何も言わず、おれも何も言えなかったので、空気は気まずかった。
本当は部屋に隠しておいて、帰ったら洗おうと思っていた。でも涼子が「シミになる」と言いだし、おれと洗濯物をひきずってきたのだ。この年にもなって粗相の始末を母親にしてもらうことへの恥ずかしさからおれは必死に抵抗したが、家事に関しては涼子のほうが一家言あるのでどうしようもなかった。
母親は涼子にすがるような目を向けた。背後で頷く気配がする。瞬間、彼女はぱっと口元を押さえた。
「そこに置いておいて」言うとすぐに顔を背ける。「ご飯食べて行きなさいよ」
「行こ」涼子がシャツの裾を引いた。
ずっと秘密にしていたことが母親にも筒抜けだったばかりか、それについて涼子と以心伝心する何かがあるということにおれはショックを受けた。問いただしたい気持ちを抑えて食卓につく。手早く朝食をかき込み、遅刻しない程度の時間になんとか家を出る。
太陽がやけにまぶしかった。世界が昨日より光って見える。
「母さん、もしかして泣いてた?」
「かもね」涼子は肩をすくめた。
おれ――田嶋朝希(たじま・あさき)には、今朝まで誰にも言えない秘密があった。
それは『精通がまだである』という、よくも悪くもたったそれだけの、ささやかな秘密だ。けれどそれが健康な青少年にとってどれほど大きな秘密だったか――きっとわかってもらえると思う。
精通のない人間にとってそれが普通かはわからないが、おれには性欲というものがほとんどなかった。中高生にありがちな下ネタは理解できず(意味がわからなかったわけではない、念のため)、ノリが悪いと浮きまくった。女の子の胸の大きさの話も、AVの話も性癖の話も、まったくついていけない。可愛い女の子の話にはまだついていけたけど、それがシモの話と結びつくと、途端にまともに考えられなくなった。
女の子を可愛いと思うのはわかる。だが、その子のために性器を勃起させて射精するというのがまるでつながらないのだ。なぜならおれの性器は何をどうしたって勃ち上がらなかったし、どれだけいじっても何も出さなかったから。自分の神経回路は壊れてるんじゃないかと何度思ったか知れない。
おれがそのことをひた隠しにしてきたのは、気軽に相談できる相手がいなかったことも大きい。中高生男子は下ネタで仲良くなるようなもので(少なくともおれの周りはそうだった)、それについていけないおれにまともな男友だちは少なかった。他人の不幸は蜜の味――同世代にシモの相談などしようものなら瞬く間にクラス中に広まる。そんな恐怖もあり、友だちに相談しようという気も起こらなかった。
じゃあ大人に相談すればよかったのかもしれないが、不幸なことにおれの担任も養護教諭もずっと女性で、彼女たちに性器の相談をするのは難しかった。おれの父親にいたっては幼いころに天国へと行っていた。
思春期が遅れることもある。精通の時期は昔より遅くなっていて、十八歳くらいに経験する人もいるらしい。十七歳は遅いかもしれないけど、異常というほどじゃない。大丈夫……。
そんなのは気休めにもならない。
誰かに相談すべきだ、医者に行くべきだ。ずっとそう思っていたが、それにより周囲に自分の欠陥を知られることのほうが嫌だった。絶対に知られたくなかった――母親はもちろん、涼子にも。
隣を歩く少女――宗田涼子はおれの幼なじみだ。生まれたときからのお隣さんで、小中高と同じ学校、同じクラス。超がつくほどの腐れ縁だ。小さいころはおれが涼子を守らなきゃと気張っていたこともあったけど、彼女の背がどんどん伸び、おれの、男として欠陥品だという自覚が強くなるにつれ、そんな気持ちは消えていった。今となっては男子生徒と並んでも遜色ないほど彼女の背は高く、おれは涼子に守られることに疑問すら抱かなくなっている。
「でも、これでアキちゃんもわかってくれるんじゃない?」
「なにが?」
軽くウェーブのかかった黒髪をなびかせ、涼子はおれをのぞき込む。
「アキちゃんも人並みに恋したっていいってこと」
思わず息をのむ。「別に……」と言いかけたあとの言葉は続かなかった。
「アキちゃん、好きな子の話とか全然したことなかったじゃん。今まで一度も、噂ですら聞いたことなかったし。自分に自信ないのかなーとは思ってたけど」
そこまでわかってるのか。おれは肩を落とす。
「そりゃ、自信なんかつくわけないじゃないか。男ですらなかったんだから」
涼子の手が伸びてきて、頭を優しく撫でる。彼女はおれより背が高いから、こういうことを平気でする。
「アキちゃんは男の子だって、あたしはちゃんと知ってたよ」
「……じゃあ、こういうのやめろよ」
弱々しい力で頭上の手を退かす。まるで子どもの抵抗だ。涼子は目を丸くして「いやだったの」と言った。
涼子に触られるのは嫌じゃない。でも子どものように扱われるのは嫌だった。だけどおれは男じゃないから、主張する資格すらないと思っていた。
「……涼子がしたいなら、いいけど」
なんと言ったらいいかわからずそう返す。すると涼子はにんまり笑って、再び頭に手を伸ばした。
「じゃあ、あたしはしたいから、するね」
少し撫でて、満足したのか離れていく。同じ制服の少女たちがこちらを横目に通り過ぎるのが目に入り、頬にじわりと熱が溜まった。
「涼子こそ、浮いた話のひとつやふたつないのかよ。おれにばっか構ってるの、よくないと思うぞ」
涼子と付き合ってるのかと聞かれたことは数えきれない。家が隣だから多少は仕方ないにしても、否定しても否定してもそんな疑惑が生まれるのは、彼女が人前でも関係なくこういうふるまいをするせいもあるだろう。
「せっかく人気あるのに、もったいない」
「アキちゃんにそんなこと言われたの初めて!」
涼子はますます目を丸くする。
「やっぱり自信を持つと男は変わるわねー……これはアキちゃんが『悪い涼子、今日から彼女と帰るから』なーんて言いだす日もすぐかも……さびしー!」
「あほか」
頬に手をあて身悶える涼子を尻目に、おれは歩くスピードをあげる。
自分のふるまいのかすかな……しかし確かな違い。それをまっすぐ指摘されたことに、恥ずかしさと、わずかな高揚とを感じた。
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