【1】朝希・1

 下半身の強烈な違和感で目が覚めた。

 ぎょっとして飛び起きズボンに手をやる。そこには汗じゃないとわかる湿り気がしっかり残っていて、おれは血の気が引くのを感じた。

 漏らしたのか。この年にもなって――。

 あまりに情けなくて泣きそうになる。ただでさえ半端ものの自分が。お漏らし。十七にもなって。

 下唇が痛いのに気がつく。いつの間にか噛みしめていたらしい。そろそろと顎の力を抜き、おれは力なくうなだれた。

(なにやってんだよ、おれ――)

 男になれないどころか、これでは幼児以下だ。いっそ死んだほうがましかもしれない。

 自分のおかしさに気づいたときから、ずっと鬱々した感情を抱えている。おれ自身のせいではない。ただ自分の体が普通とちょっと違うだけだ。だがその違いは思春期の男子にとって地球の滅亡よりも大切なことで、おれはこのコンプレックスを抱えたまま生きるくらいなら、そろそろ死んでもいいかもしれないとすら思い始めていた。といっても本当に死にたいわけじゃないので、妄想はいつも途中で頓挫していたが。

「アキちゃーん」

 部屋の外から声がした。回りかけたドアノブに慌てて飛びつく。体当たりさながらの勢いだったからか、ドアは大きな音をたて、向こう側で小さく悲鳴が上がった。

「ど、どしたの?」

 続いて困惑した声。混乱しながらおれも時計を見る。時刻は七時半を回っていた。

「ご、ごめん。今起きたばっかで――」

「めずらしいね」

 言葉とは裏腹に、今度の声に驚いた様子はなかった。

「準備終わった? まだならご飯食べてる間にやっとくけど――」

「いい! いいから」

「……アキちゃん? どったの」

 声の主――幼なじみの宗田涼子(そうだ・りょうこ)は、おれの様子から何かを感じ取ったらしい。わずかな興味と多大な心配を孕んだ声で、訝しげにささやいた。

「なんかあった? 具合悪い?」

「違うけど――」

 答えてから、失敗したと思った。

 今までの経験上、おれが何を言おうと涼子はここを動かないだろう。具合が悪いと言おうものなら、つきっきりで看病するなどと言いだしかねない。だが股間を無様に濡らした姿を見られるのに比べれば、そっちのほうがまだましだ。

「だ、大丈夫だけど、今日は一緒に学校行けない」

「は?」一瞬で声が返ってくる。「なんで?」

「な、なんでも……」

「それでりょーこちゃんが納得すると思ってるぅ?」からかうような声。

「思ってない……」

 思ってはないが、こう言うしかなかった。

「アキ、どうしたの? ホントに大丈夫?」

「大丈夫だって――」

「なにかあるなら言いなよ。それともおばさん呼んでこようか――」

「いいから!!」

 扉の外がシンと静まる。ノブを握った己の手が小刻みに震えた。

「う゛~…………」

 体中の力が抜け、ドアの前にしゃがみ込む。それでも最後のプライドが邪魔をし、手だけはノブから離れなかった。

「アキちゃん……」

 涼子の呟きが小さく聞こえる。そのとき、鼻先を妙なにおいがくすぐった。

(……なんだ、これ)

 ぐるりと周囲を見回す。何も変わったところはない。昨日眠りに落ちたときとまったく同じ光景だ。

 ただひとつ違うとすれば。

 パジャマのズボンを引っぱりあげる。いまだ濡れている股間の部分に鼻先を近づけた瞬間、言いようのない恐怖を覚えた。

 においはそこからきていた。十中八九、この液体のにおいだ。

 知らないにおい。

 立ち上がりかけ、ドアノブに頭をぶつける。もんどり打って倒れるのと同時にノブが回り、涼子が飛び込んできた。

「アキ! 大丈夫……」

「りょ、りょうこ」

 濡れた股間を隠すようにうずくまる。涼子のつま先を見つめながら、いつしかシクシクと泣いていた。

「おれ、おれ、病気かも――」

 もうプライドも何もなかった。そもそも男としての自分にひどくコンプレックスを持っているおれには、“男のプライド”なんて端から存在していないのだ。

 うずくまるおれの鼻先にあの妙なにおいが漂う。ツンとするわけじゃないのに、鼻を抜けて頭蓋骨の奥に響く。生っぽいような、青っぽいような。頭が痛くなってくる。

 もうだめだ。きっと病気なのだ。膿み始めたに違いない。いずれ爆発するのかも。

「アキちゃん」

 うつろな声が降ってくる。ただでさえ混乱の極致にいたおれは、彼女の声色だけで十分に打ちのめされた気持ちになった。半ば機械的に顔をあげる。

 涼子は笑っていた――ように見えた。薄くすがめた目は、愛おしいものを見るそれと似ている。

「りょう」

 涼子のにおいがいっぱいに広がり、恐怖を一瞬でかき消した。柔らかな重みが体にかかり、おれは自分が抱きしめられていることを理解する。

「りょうこ」

「よかった――アキちゃん、よかったね――」

 頭を抱きかかえる手に力がこもる。涼子の胸が制服越しに頬に当たった。

「涼子、ちょっと――」

 困惑に体が離れていく。だが彼女は嬉しそうな顔のまま、おれの頬を指先で撫でた。

「アキちゃん、男の子になったんだよ」

「え……?」

 おれはぽかんと口を開けた。涼子はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。

「言ってること、わかる?」

 涼子は、おれの秘密を知っている――。

 だがそれよりも。今まさに彼女が告げた言葉が、感情を激しく揺さぶった。

「お、れ――じゃあ、これ――」

 ズボンに落とした視線をあげると、涼子は小さく頷いた。途端熱いものがこみあげて、目からボロボロと涙がこぼれる。

「おれ、おれ病気かもって思ってて」

「うん」

「ずっと、誰にも言えなくって」

「うん」

「おれ、男じゃないのかって」

「うん、うん」

「おれ――」

 涼子の手がおれの頭を撫でる。子ども扱いするようなその仕草を、おれはあまりよく思っていなかった。でも今は、彼女のひと撫でひと撫でで、驚くほど心が落ち着いた。

「アキちゃんは男の子だよ」涼子は優しくささやく。

「あたしは、ちゃんと知ってたんだから」

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