2
ブリッドはカミラと横に並び、ルビー総括の前で歌っていた。
ナール総括のピアノの伴奏が携帯に録画されてい演奏を頑張って集中しようとするが徐々に魅惑化の能力に侵されて息が上がってしまい、何度も歌えなくなっていた。
「はーい、中断。ねえ、ちゃんとしなさいよん」
「し、してるっつーのっ……!」
体全体が熱くなって息が上がる。そして込み上げる性欲に余裕がないブリッドはルビー総括になんとかそう返事し、下半身が反応するのを感じながら膝を折って前屈みになった。
「もう。カミラ、ほら解除してあげて」
「は、はい!」
耳元でパンっとカミラが手を叩いたのを合図にブリッドの体にあった熱がサーッと冷めていった。しかし、全てがスッキリすることなく、悶々とした気持ちは残っていた。
「だ、大丈夫ですか、ブリッドさん……」
オロオロとしながらこちらを伺うカミラにブリッドは、「んな訳ねえだろ……」と、返事した。
「少しでもいいから弱めてくれねえか?」
必死の形相で訴えるブリッドにカミラは顔を暗くした。
「これが限界なんです」
「それにこれ以上弱めたら意味ないわ。さあ立って。続きするわよん」
なんて屈辱的で地獄な訓練なんだとブリッドは柄になく、目の端に涙を浮かべて必死に歌を歌い続けた。
——もう限界だ……。
あれから二週間、ブリッドは魅惑化の能力に耐える訓練を任務が舞い込んで来た日以外は休みなく行なっていた。能力を解除されたとしても性欲は完璧に消え入ることなく、体には少しずつ積もっており、自宅に戻って一人で処理する日々に精神的に崩壊しそうになっていた。そんなブリッドは休憩と申して、ルビー総括とカミラから逃げるように廊下をふらふらと歩いていた。
「あ、ブリッドリーダー!」
そう聞こえて顔を上げれば、そこにはしゅんりがいた。
未だにしゅんりはブリッドから尾行の訓練の合格をもらっていなかったが、魅惑化の能力に耐える訓練をしてからは隠れずに堂々と姿を現すようにしていた。ふらふらと疲労しているブリッドに隙を見て攻撃をするのはフェアではないと考えていたからだ。
「ああ、お前か……」
「なに、その言い方」
ブリッドのその言い方に機嫌を悪くしたしゅんりはブリッドに嫌味を言った。
「へへーん。あの高スペックのブリッド様の訓練は如何なものですかな? このしゅんりちゃんが見に行ってあげましょうかね?」
「ざけんな、来たらぶっ殺す」
魅惑化の女二人に、監視されながら欲情している様を見られたくないブリッドはドスを効かせてしゅんりを睨んだ。
余裕のないその様子にしゅんりは更に機嫌を良くしたのか意地悪く笑い、下からブリッドを覗き込んだ。
「へー、ブリッドリーダーでも出来ないことあるんだ」
んな事ないと反論しようとした時、ふわっと香る石鹸の匂いにブリッドは顔を歪めた。
「お前、まさか風呂上がり?」
湿っている髪に少し蒸気した顔。いつもと一緒なのにこの近い距離にブリッドはクラッとした。
「え? ああ、さっきまでルルちゃんと訓練してて、汗かいたからシャワー室で浴びてきた所」
少しずつ積もってい性欲にそれは刺激され、ブリッドの中にあった理性という糸が頭の中でプツンっと切れた音がした。
「え、え、なに」
いつもと違う様子で近寄って来るブリッドにしゅんりは困惑しながら後退りしていき、壁際まで追いやられてしまった。
「ちょ、ブリッドリーダー……」
近い、そう言ってしゅんりは背中を壁に預けながらブリッドの胸を押して距離を開けようとした。しかし、ブリッドはそんなしゅんりの両手を掴んで頭上に片手で拘束してそれを阻止した。
こいつ、こんなに可愛かったっけ?
ブリッドはそう思いながらしゅんりの顔を見つめた。
白く透き通る肌に幼さ残る大きな瞳と長いまつ毛。ぷっくらとした柔らかそうな淡く桃色づいた頬。その次に触ったら柔らかそうな唇に目が行った。
少しずつ顔を近づけて来るブリッドにしゅんりは顔を真っ赤に染め、力を込めればすぐ外せれる拘束に関わらず、何故か動けずにいた。
私、き、キスされそうになってる!?
その時、この前行った女子会での会話の内容を思い出した。クリスマスの時から流石のしゅんりでもブリッドとの距離感が近すぎると違和感があったが嫌悪感はなく、むしろドキドキと鼓動が高鳴り、それを期待するようになっていた。
てか私達、もしかして付き合ってるの!?
いや、付き合ってなくてもその前段階!?
いや、落ち着け!
いや、落ち着いてる場合じゃない!
ちょ、ちょ、もう顔が着きそう!
早くなる鼓動に熱くなる体。混乱状態になったしゅんりはあと少しでお互いの唇がつきそうになったその時、反射的にギュッと目を閉じた。
ブリッドは薄目に開いて見ていたしゅんりが目を強く閉じた様子を見て動きを止めた。
俺、今何をしようとした!?
正気に戻ったブリッドは勢いよく頭を後退させてから前に倒してしゅんりの額目掛けて頭突きを食らわした。
「い!? 痛いっ!」
「痛えー!」
同時に痛みに悶えながら二人は距離を空けて頭を抱えた。
あ、危なかったっ……!
ブリッドはそう思いながら恐る恐るしゅんりを見た。
「ありえない、頭突きとか! こんの暴力男!」
「はは。そうだよな、ありえないよな」
しゅんりの言葉を反復してブリッドは少しずつ冷静になっていった。そうだ、俺がしゅんりに欲情するなんてありえない。
「このバカ、バカ! あんなこと……」
「髪はちゃんと乾かせよ。風邪引かないようにな」
何か言いたそうなしゅんりの言葉を遮るようにそう言ってブリッドはしゅんりの元から逃げるように急いで離れていった——。
ブリッドは木の木彫が綺麗なカウンターに顔を伏せて唸っていた。
「なによ、まだ一杯目なのにブリッドちゃんったら、もう酔ったの?」
「もう意識なくなるまで酔いたい……」
ブリッドはトビーに教えてもらった行きつけのバーのマスターにそう言った。
"ブリッドちゃん"と自身を呼ぶ堅いの良い男は、鼻に開けたピアスを弄りながら困った顔でブリッドを見た。
「なに? 私が今夜慰めてあげましょうか? でも私タチだからネコになってね」
「そんな趣味ねえからいい……」
マスターのその言葉に返事してブリッドはグラスに残っていた酒を一気に飲んだ。
「なんかおかわり」
「なにその困るオーダー」
んー、と悩みながらマスターは何を出そうかと悩んだ。
ブリッドは本日、しゅんりにキスしてしまいそうになった事を忘れたくて来てるのに、どうしてもしゅんりのことをぐるぐると考えてしまっていた。そういえばあいつ、ワッフルとチョコが大好物だったよな……。
「チョコ……」
「へ? ああ、カカオのラムとかにする?」
マスターは氷の塊を包丁でシャキシャキッと丸く削りってからグラスにいれ、カランカランとマドラーで混ぜてグラスに馴染ませた。棚から出してきたラム酒をメジャーカップ一杯分入れて、再びマドラーで軽く混ぜてブリッドに渡した。
「はい、どうぞ。ゆっくり飲むのよ」
そう言って水とともに差し出されたお酒はチョコの香りがした。
「チョコと食べるのがおすすめなの。これは私からサービス」
ウインクしながら紙包に包まれた小さなチョコ三粒を皿に乗せて持ってきたマスターにブリッドは「サンキュ」と言い、お酒を一口飲んでからチョコを口に含んだ。
「どう?」
「うめえな、これ」
忘れたくて来たのにしゅんりを思いながら飲む酒に満足したブリッドは、微笑みながら再び酒に口をつけた。ブリッドのその様子にマスターも満足したその時、カランカランと鐘が鳴り、店のドアが開いた。
「あら、いらっしゃい」
「マスター、久しぶりー。今日は空いてるのね」
「まあ、平日のど真ん中だからね」
陽気な声でマスターと話しながら女はブリッドと二席開けてカウンターに座った。
いつものと、頼んだ女の酒を作るマスターの様子をブリッドはぼっーと見ていた。
トマトジュースにウォッカ、そしてタバスコを入れる酒、ブラッディ・メアリーを作ってるのかと、ブリッドはそう思いながら見ていた。タバスコを数滴入れるだけの酒の筈なのにマスターが延々とタバスコを入れ続けるその様子にブリッドはギョッとした。マスターの顔に汗が滲み、こちらまでその香辛料の匂いに蒸せそうになったとき、淵に塩が付いたグラスにそれを注いで酒は完成した。
「ふう、出来たわよ」
「ありがとー」
タバスコ瓶の約半分程入ったその酒を美味しそうに飲む女の姿にブリッドは顔を歪めた。
「なに、失礼ね」
「いや、失敬」
やばい女だな、そう思ってブリッドは素直に謝りって、これ以上関わらないようにと顔を逸らした。
「どうせ、女なのにそんなの飲むんだーとか思ってんでしょ。貴方だって女の子みたいに可愛いくチョコをつまみにしてる癖に」
女のその言葉にブリッドは少しカチンとした。普段からそうしてるならあれだが、今日だけなのに何故そう言われきゃならないのか。
「あら、カカオのラム酒にチョコは合うのよ? シュシュちゃん、次どう?」
「カカオのお酒ー? あらあら可愛いわね。私はいいわ、そんなお子ちゃま向けの酒は合わないの」
グイッと大量のタバスコが入った酒を一気に飲み干す女は勝ち誇った顔をし、ブリッドをニヤッと笑った。ブリッドはその挑発に乗るように手に持っていたラム酒を一気に飲んだ。
「ちょっと、それロックなのよ!」
マスターの止めを聞かずブリッドは手の甲で口を拭いて、女をフンッと睨みつけた。ブリッドのその態度が気に入らなかったのか、女は額に血管を浮かせてバンっと机を叩いて立ち上がった。
「マスター、この店で一番強い酒くれ!」
「マスター、この店で一番強いお酒ちょうだい!」
そう同時に声をあげて、負けず嫌いの二人による飲み比べが始まってしまった。
——ふわふわとする意識の中、ブリッドはただただ気持ちいいなあと思った。
心地よい石鹸の匂い、柔らかくて触り心地の良いすべすべで白い肌。そして腰に来るこの甘ったるい声。
あれ、俺は今何してんだっけ……。ブリッドは靄がかかっていた意識が少しずつ覚めてくる感覚がして、目の前で広がる光景を見て目を見開いた。
「え、どうしたの? もうイキそう?」
「あ、いや……」
自身の下で顔を紅潮させる裸の女の姿にブリッドは止まった。
「あー、これセックス?」
「はあ? なに言ってんの」
最終段階まできて意味の分からないことを言うブリッドに女、シュシュは顔を歪めてから理解した。
「……ここまでしといて、酔っていて覚えてませんとか言わないわよね?」
「いやー、その……すみません」
図星だったのか、素直に謝るブリッドに「なにこの男……」と、シュシュは呆れながら器用に腰を揺らした。
「もう、いいから、ほら、動いてよ……!」
「ちょ、待て、待った!」
ここ二週間で溜まりに溜まった欲のせいですぐに果てそうになったブリッドは焦ってシュシュの動きを止めた。そしてシュシュの顔、胸を見てブリッドの中でとある人物が思い出された。
「しゅ、あ、いや」
「え? 合ってるわよ。シュシュよ」
"しゅんり"と言いそうになって止めたブリッドにシュシュは自身の名前を伝えた。
名前まで似てやがるのかよ。そう思ってブリッドは心の中で舌打ちした。髪と瞳はクリーム色でしゅんりの綺麗な桃色とは違っていたが、大きな瞳に白い肌や、柔らかそうな頬、そして豊満な胸がしゅんりを連想させた。
「ねえ、もう駄目、早く動いてよお……!」
中々動いてくれないブリッドにシュシュは焦らされ続けて辛くなってきていた。
「あ、悪い」
ブリッドはそう謝りってとりあえず腰の動きを再開させた。
「ブリッド、ん、ん、気持ちいいよ……!」
下で自身の名前を呼ぶシュシュにブリッドも律動が早まっていった。でも、なにかが足らない。
「な、なあ、お願いあるだけど」
「んん、なにっ……」
こちらを見つめてくるシュシュにブリッドは言おうかと最後まで迷ったがそのお願いを伝えた。
「り、リーダーって呼んでくんね?」
「え? ああん、な、にそれっ!」
容赦なく腰を打ち続けてくるブリッドにシュシュは更に甘い声を上げた。
「頼む、ブリッドリーダーって呼んでくれ……!」
余裕なく、そう言うブリッドにシュシュは胸がキュウッと締まった。
なにその顔、可愛い!
「ブリッド、リーダー。ああ、早い、早いから!」
「はあ、はあ、もっと!」
「だめ、ブリッドリーダー、イっちゃう、イっちゃう!」
「いいぜ、イケよ!」
ブリッドはそう言ってシュシュの奥をガンガンと突き、共に果てた。
——ブリッドは恥ずかしさや罪悪感やらモーテルのベッドの枕に顔を埋めて唸っていた。
「ねえ、そんな態度やめてくんない? それより感謝して欲しいんだけど」
誰かの身代わり抱かれたと分かっていたシュシュであったが、そこまで悪い気はしてなかった。
確かにそりゃ私自身を抱いて欲しかったけど、別にこんな男は好みじゃないし?
どうせワンナイトだし?
それに可愛くおねだりしてくる顔も見れた訳だし?
「いや、本当、すみません……」
だから、そんな謝らないで欲しい。
「はあ、もういいから寝ましょう。もう三時とか辛いわー」
シュシュはブリッドの横に仰向けで寝転び、横目でブリッドを見た。こちらを伺うように見てくるブリッドにシュシュはふふっと笑い、目を閉じて眠りについた。
すやすやと寝息を立てながら眠り始めたシュシュを見て、ブリッドは音を立てないようにゆっくりとベッドから出た。服を着用し、五万イェンをベッドサイドに置いてホテルから出ていった。
「……本当に失礼な男」
シュシュは目を開き、ブリッドが出て行った後、ドアの方を見てそう呟いた。
昼休憩中。
しゅんりは公園にある噴水の淵に座ってクレープを持ちながらぼーっとしていた。
「……しゅんり! しゅんりったら!」
「え、ごめん、なんて?」
「なんてって……」
マオは溜め息を吐きながらしゅんりの隣に座った。
警察署内でたまたま出会ったしゅんりの様子がいつもと違って変だったため、マオはそんなしゅんりを心配に思い、ランチに誘ったのだった。
どこに行くか、何食べたいかと聞いても「あー、なんでもいい」と、言うしゅんりにマオを頭を悩まして公園へと足を運んだ。警察署近くにある公園は広く、出店がチラホラあるため、ここでなら好きなものを適当に買えばいいかと考えてのことだった。
とりあえずしゅんりの好きなチョコシロップたっぷりのチョコバナナクレープを持たせて、噴水の淵に座らせた。そしてタピオカ入りのミルクティーを二つ買ってマオはしゅんりの元へと戻ったのだった。
クレープを一口も食べずに魂が抜けたように動かないしゅんりにマオは本気で心配した。
精神年齢が低く、なんにでも素直にしゅんりはすぐ態度が出る。確かに今回も出てるけど、喜怒哀楽がないこの様子にどうしようかとマオは悩みながらミルクティーに口をつけた。
「マオ、私どうしちゃったんだろ……」
「僕がそれ聞きたいんだけど」
呆れた顔でこちらを見るマオにしゅんりはぐいっと顔を近付けた。
「え、近いんだけど」
「近付けてる」
「なんで」
変わらず呆れた顔でこちらを見てくるマオを見ながらしゅんりは胸に手を当てた。
「なんにも変わんない」
別に顔も熱くならないし、心拍数も上がらない自分の様子にしゅんりは頭を悩ました。
「なんかさ、失礼なこと言ってない?」
しゅんりの行動に訳が分からず、なにを考えてるんだろうと思ってマオは黙ってしゅんりを観察した。
なんで昨日、ブリッドリーダーはあんなことを私にして来たのだろうか。いつもバカにしてきたり、怒ってばっかのブリッドのあのような顔を初めて見たしゅんりは困惑し、胸が高鳴った。今でも思い出すと、いっーってイジイジするこの胸のキューとする感じはなんなの!
もしかして、もしかしてなくても私、ブリッドリーダーのことっ……!
顔を歪めて考える顔をしたり、顔を赤く染めたりと忙しいしゅんりにマオは少し気味悪く思った。なんて忙しい奴なんだ。
もし、あそこでブリッドリーダーが頭突きしてこなかったら、私達、き、き、キスしてたのか⁉︎
その結論に至った時、ボッと火が出そうなぐらいにしゅんりは顔を赤く染めた。
「もうなにこれ! もうやだー!」
ムキーッと、猿のように叫んだしゅんりは手に持っていたクレープを勢い良く頬張った。
「しゅんり、落ち着いてって! 喉詰まらせるよ!」
マオの言う通りにバナナを喉に詰まらせたしゅんりはマオからミルクティーを受け取り、一気に飲んだ。
「なに? またブリッドリーダー?」
マオはしゅんりがこんなにここまで感情を剥き出しにするのはどうせブリッドリーダーだろと勝手にそう結論を出した。
「な、ちが、違わないけど! 違う、してない! してないから!」
動揺しながら拒否するしゅんりにマオは首を傾げた。してないとは?
「え……、ブリッドリーダーと何をしてないの」
「だから、キスなんてしてない! してないから!」
しゅんりから予想してなかった言葉が出てマオは固まり、しゅんりはしまったと手で口を覆った。でもそれはもう遅く、マオの耳にはしっかりと届いていた。
「き、キス? え、接吻、ちゅー、口付けとかそういう意味のキス?」
「うわああ、言わないで! てか違う、してない! してない!」
「してなくてもしそうになったってこと⁉︎ ちょっとそれはどういうこと!」
あのしゅんりが、しかもあのブリッドリーダーとキスしたのかと驚いてマオはしゅんりの肩に手を置いて揺らした。
「しゅんり、いつブリッドリーダーと付き合ったの!」
「付き合う⁉︎ 付き合うなんてあんなのありえない!」
「なのにキス未遂って何!」
「分かんないから悩んでるのー!」
公園でギャーギャーと騒ぎながらまだ恋愛経験のない幼い二人は答えが見出せないまま頭を悩ますのだった。
カミラは十ヶ月前のザルベーグ国の会議からブリッドを何かと目で追うようになっており、あの時もらったスポーツドリンクの味と頭を撫でられた時の高揚感が忘れられないでいた。
ブリッドを陰ながら見ててカミラが分かった事は、荒々しく乱暴に見える彼だが、本当は面倒見が良くて周りを見ており、そしてとても優しい。部下のことを思いやり心配する姿や、他のチームの応援に率先して向かう姿を何度も見て来てカミラはブリッドに対し好意を持ちつつ尊敬もしていた。
そして、そのブリッドの姿にジェラシーも抱いていた。
いつだっただろうか。いや、いつもだ。彼の横にはいつもあの少女がいた。
「バーカ、バーカ!」
「ああん? 知ってるか、バカっていう奴がバカなんだよ!」
「んだと、暴力男!」
「やんのか、クソガキ!」
廊下で言い合うその人はブリッドの弟子で、実は付き合っているのではないかと噂の一つ上の先輩。異能者として優秀でみんなから期待されているアイドルのように可愛いしゅんり先輩。
私なんて魅惑化しか使えないし、それもまだまともに扱えてない。可愛いくなんかないし、胸なんて断崖絶壁でしゅんり先輩に敵うものなんて一つも持ってなんかいない。
この恋は叶わない物だと諦めて、ブリッドと直接関わる事はなく、カミラはこの十ヶ月を過ごしてきた。
しかし、そんな私にもチャンスがやって来たのではないかと不謹慎だが心が舞い上がった。あのブリッドと一緒に任務ができるチャンスが来たのだ。
乱暴な風貌に似合わず綺麗な声で歌うブリッドにカミラは頬に熱が集まり、ボーっと聞き惚れていた。
「おい、お前のパートだぞ」
「あ……、ごめんなさい」
ピアノの音源を止めて、再度歌い始めたブリッドに自身が出せる最低限の量の魅惑化の能力を使用した。
昨日まで息が上がり、まともに合わせる事ができなかったブリッドだったが、顔を歪めながらだが歌を合わせれるようになったいた。最後まで初めて通して歌えた時、カミラの中で一緒に歌いきれたことに喜びを感じた。
ああ、想い人と一緒に歌うってこんなに幸せなことなのね。
「すごいじゃないん。カミラの魅惑に慣れできたのかしら」
二週間も魅惑され続ければ慣れるもんだな。いや、昨日発散できたからかと心の中でブリッドは納得した。恥ずかしい気持ちでいっぱいで昨晩の事をすぐにでも忘れたいブリッドは頭を振って無理矢理脳内から昨日の記憶を追いやった。
「なによ、やっぱり効いてるのん?」
「いや、なんでもないです」
おかしな行動をするブリッドにルビー総括は首を傾げた。
「まあ、いいわ。ここ毎日訓練してきたし、頻度を減らしましょう。私も仕事あるし、カミラにもそろそろ任務行ってもらわないと困るわん。次は来週にしましょうか」
ルビー総括のその言葉にカミラは絶望した。あのブリッドと会えれる名目がなくなりそうになっているのだ。少しでも長く居たいのにな、とカミラはチラッとブリッドを見た。
「分かりました。スケジュール開けときます」
「ええ、そうしてちょうだい。じゃあ今日は行っていいわよん」
「では、失礼します」
ルビー総括の言葉にブリッドは安心したように部屋を早々に退室した。
「あ、待って!」
「ん?」
首だけ振り向いてこちらを見るブリッドにカミラは少し頬を赤く染めた。なにその角度、かっこ良すぎる!
「なんだよ、何もないなら行くぞ」
「いや、その……」
勢い余って呼び止めたものの、何を言おうか決まってなかったカミラはあたふたとした。
「落ち着けって。な?」
小柄なカミラに合わすようにしゃがんで目線を合わすブリッドにカミラは恥ずかしさで赤く染まった顔を見られないように顔を逸らした。
「いや、その、練習……」
「来週だろ?」
「私、まだまだ歌自信ないんです! 練習もっと付き合って下さい!」
カミラはブリッドと少しでもいる事はできないかと考えた結果、歌の練習を一緒にしたいとブリッドに伝えた。
「え? そうか、お前上手いぞ」
「う、上手いだけじゃ駄目なんです。だって相手はお金持ちの人でしょ? ここで下手来いて疑問を持たせたら魅惑化をかけても意味なくなります」
思い付く限りに言ってなんとかブリッドを納得させようとカミラは嘘を言った。正直、魅惑化が成功していれば見てくれなんてどうにでもなる。
「んー、そうだな」
あまり魅惑化に詳しくないブリッドはそんなカミラの嘘を信じ込んで考えた。
「分かった。歌だけの練習なら二人でもいいな。俺の連絡先伝えておくから任務のない日で出勤している日は教えてくれ。できる限りお前に合わすよ」
「あ、ありがとうございます!」
一緒にいる名目も作れ、連絡先も交換できることに成功したカミラは幸せの絶頂にいた。
そんなカミラと連絡先を交換し終えたブリッドはカミラと別れて喫煙所に向かった。
喫煙所には誰もおらず、ブリッドは一人でもの思いにふけていた。
「おう、ブリッドではないか」
考え事をしていたせいか、ブリッドは喫煙所に入って声をかけて来るまでその人物の存在に気付かなかった。
「あ、ナール様」
「ほれ」
口にタバコを咥えてクイクイっとブリッドに見せるナール総括にブリッドは自身のジッポから火を出してナール総括のタバコに火を付けた。
「なんだ、考え事か?」
「ええ、まあ……」
あの大好きで憧れのナール総括が隣にいるのに何故かブリッドの心は踊らなかった。
「あの、ナール様」
「ん?」
首を傾げてこちらを見上げるナール総括を見てブリッドは相変わらず綺麗だな、と淡白に思った。
「好きです」
「……ああ」
「本当に好きです」
「そうか」
「本当に本当の本当に好きです」
「わ、分かったから近寄るな!」
好きだ好きだと言い、距離を詰めてくるブリッドにナール総括は鳥肌を立てながらブリッドの腹を殴った。
「いってえ……」
「気色悪い奴だな! なんだ、魅惑化の能力浴びすぎて気が狂ったか!」
「はは、そうかもしないっす……」
やっぱり俺はナール様が好きだ。殴られても何故か少し喜びを感じている自分にブリッドは安心し、まだ長かったタバコの火を消した。
「申し訳なかったです。俺はこれで失礼します」
ブリッドはそう言って何か言いたそうなナール総括を置いて喫煙所を退室した。
大丈夫だ、俺はいつも通り。昨日はそう、魅惑化の能力のせいでおかしくなっていただけだと謎に納得したブリッドは軽い足取りで地下二階に向い、自身がリーダーとして努める仕事部屋へと向かって行った。
訓練中は基本、チームのことはタカラに任せていたが流石にそろそろ顔を出さなければと思っていたのだった。
「ブリッドリーダー……」
部屋に着く直前、前方から自身を呼ぶ声にブリッドは顔を上げた。
「あ……」
それはしゅんりとマオだった。ブリッドは気まずさからかクルッと周り、もと来た道を戻って歩き出した。
何逃げてんだ、俺!
もっとこう大人らしくスマートにするつもりだったのにと、逃げる自分に情け無い気持ちになった。
何も言わず逃げるブリッドの背を見てしゅんりの中で沸々と怒りの感情が湧いて来た。
はあ?
私はあんたの昨日のあの行動にこんなに悩んでんのに無責任に逃げる訳?
無かったことにする訳?
額に血管を浮かせ、静かに怒るしゅんりを見てマオはスッと離れた。もうこの先の展開は目に見えていた。
しゅんりは足に力を入れて走り、ブリッドに向かって飛び蹴りを食らわした。
「いってーな! なんにすんだよ!」
見事に攻撃を受けたブリッドは無様に床に倒れた込んだ。
「なにすんだ? それはこっちのセリフだ暴力男!」
しゅんりは倒れ込むブリッドに拳を振り下ろした。右に回転しながら立ち上がり、攻撃を交わしたブリッドはしゅんりを睨んだ。
「暴力をしてるのはお前だろ、この暴力女!」
確かに昨日のことは悪いと自負していたブリッドだったが、いきなりのしゅんりの攻撃に怒りを露わにした。
「大嫌い! 大嫌いだ、バカ!」
「ああ、俺だって暴力でバカでガキのお前なんか大嫌いだっつーの!」
いつも通り喧嘩する二人を見てマオは安心していた。僕としゅんりにはまだ恋だの愛は早い。今はこれで充分なのだ。
「うるせえぞ、この非常識バカップルが!」
トーマスはバンっと勢いよく扉を開けて、部屋の前で騒ぐ二人を注意した。
「こんなバカ、彼女じゃねえ!」
「こんな暴力男、彼氏じゃない!」
二人はそう叫び、トーマスの顔を両側から殴って黙らせるのだった。
アサランド国でエアオールベルングズの会議が行われるまであと一週間と迫り、ウィンドリン国の警察署でしゅんり達は二手に分かれて出発の準備がされていた。
演奏組は出資者の一人である、以前捕まえた社長の紹介の演奏者としてプライベートジェット機でアサランド国に向かう予定となっていた。そして援護組はタレンティポリス所有の飛行機で向かうことになっている。
「じゃあ、演奏組はそろそろ行くわね。リオ、頼んだわよん」
「ええ、総括ご無事で」
魅惑化の補佐、リオはルビー総括にそう言いながら一礼した。
「しゅんり、リオ補佐の言う通りにして大人しくするんだぞ。分かったな?」
「ぷぷ……、う、うん」
「あと……、おい、なんだよ」
口に手を当ててふるふる震えるしゅんりをブリッドは睨んだ。笑ってはいけないと思ってしゅんりは必死になんとか笑うのを耐えながら首を横に振った。
いつもストリート系のワイルドな服装を好むブリッドはピアスを外してスーツをキチンと着こなし、髪を立てるのではなくオールバックに纏めて眼鏡をかけていた。いつもと真反対な格好にしゅんりは面白くてたまらなかったのだ。
「俺だってこんな格好したくねえよ」
はあ、と溜め息吐くブリッドにしゅんりは我慢出来ず、ブリッドを指差して大声で笑った。
「あ、あのブリッドリーダーが、あはははっ、もうダメ!」
ひーひーと笑うその姿にブリッドは拳に力を入れて、しゅんりの頭にゲンコツを入れた。
「忘れ物はないか? 財布は?」
「……あります」
ブリッドに殴られたしゅんりはいつも通り反論しようとしたが、流石に今のはしゅんりが悪いとタカラに言われ、大人しくブリッドの話を聞いていた。
「お前、この前の長期任務で銃のメンテナンス用品忘れて騒いでただろ。それは?」
「うん、持ってる」
「あと、ハンカチとティッシュと……」
「あるってば! あんたはおかんか!」
心配するブリッドにそう言ってしゅんりはブリッドの言葉を遮った。
「あのな、長期任務だけど今回は俺と一緒じゃないんだぞ」
「分かってるよ。私だっていつまで経っても子供じゃないんだから!」
反抗期の子供のように言うしゅんりにブリッドは心配でたまらなかった。今回はいつもの任務とは違ってなにかあった時、しゅんりの元へ容易にいけないのだ。
「ブリッド、過保護過ぎるのもよせ」
「ナール様……」
肩にポンと手を置いてそう言うナール総括にブリッドは一度しゅんりを見てから演奏組と共に出発した。
「しゅんり、あんな態度とったらダメだよ。ブリッドリーダーなりにしゅんりのことを心配してるんだよ?」
「ふんっ、いいの。一年前とは違うってとこ見せてやる」
そう、もう一年前とは違う。それにちゃんと覚悟も決めてきた。しゅんりはそう思い、昨日の事を思い出していた。
——出発前日という事でしゅんりは他のメンバーと共に準備を進めていた。
明日に出発する事を考えて、その日は夕方には帰宅することになった。皆が帰宅する中、しゅんりはナール総括に呼び止められていた。
「しゅんり、少し良いか?」
「ナール総括、なんでしょうか」
「今からわらわの家に来ないか。ご飯を奢ってやろう」
「行きます!」
しゅんりはナール総括の誘いに即答した。噂によれば総括になればそれなりの給料で、ナール総括はタワーマンションの最上階で大理石の廊下がある一室に住んでいると噂だった。そんなナール総括の家に招待してもらえるなんて、絶対美味しいご飯が食べれると思いながらしゅんりはナール総括に着いて行った。
「ここだ、わらわの家は」
「え……」
そこは想像と大きくかけ離れたアパートだった。レンガ調のその建物の三階にナール総括の部屋があり、アンティーク調の家具に少し広めのベランダには簡易的な椅子二つとテーブルがあった。
「ふふ、タワーマンションではなくて残念だったか?」
「いや、そんなこと!」
「嘘は良い。おぬしはすぐに顔に出る」
しゅんりはパンッと軽く両手で頬を叩いた。
「申し訳ございません……」
「良い。それより、紅茶で良いか?」
「はい、ありがとうございます」
しゅんりはベランダに出て、そこに置いてある椅子に座り、ベランダから見える景色を眺めていた。
目の前には市場があり、賑わっていた。親子で仲良く歩く人達をしゅんりは頬杖を付きながら眺めた。
「熱いから気をつけろよ」
ナール総括はベランダに出てカップをソーサーの上に置いて紅茶を注ぎ、しゅんりに渡した。
「ありがとうございます」
しゅんりはナール総括から紅茶を受け取り一口飲んだ。
「なんか分かんないけど美味しいです」
良い香りがし、人に淹れてもらった紅茶を飲んでしゅんりは体も心も温まった。
「ふふ、分からないか。相変わらずおぬしは面白いのう」
子供らしい意見にナール総括は笑って自身も紅茶に口を付けた。
「しゅんり、この光景を見ておぬしはどう思う?」
ナール総括の突然の質問にしゅんりは、んーと声を出しながら悩んだ。
「どう、ですか。羨ましいなーとかですかね」
家族連れが多いこの時間。家族のいないしゅんりはそう答えた。
「おぬしはそうか。わらわはな、この光景を守りたいと思っておる」
思っても見なかった言葉にしゅんりは市場からナール総括へと目線を移した。
「わらわはこの平穏な世界を保つために戦っておる。おぬしは何のために戦う?」
「何のため……」
それは今までしゅんりが考えて来なかったことだった。
ある異能者、おじさんに助けられてタレンティズ学校に入学し、たまたま才能があったしゅんりは時の流れに任してここまで来ていた。そのため、何のために戦うだなんて考えずにしゅんりは今やるべきことを必死にやってきたのだった。
「分かりません……」
素直に取り繕うことなくそう言ったしゅんりの頭をナール総括は撫でた。
「そうか」
何も偉いことを言った訳ではないのに頭を撫でられたしゅんりは何故か泣きそうになった。
「いつか、おぬしが本当に守りたいものが見つかればよいな」
そう言ったナール総括は優しい眼差しをしていた。
「そうだ、しゅんりはナポリタンは好きか?」
「え、好きです」
急にパスタの話をしたナール総括に驚きつつもしゅんりはそう返答した。
「ご馳走様する約束だっただろう。わらわがおぬしのために料理を振る舞ってやるぞ」
「本当ですか! 嬉しい!」
目をキラキラさせてそう言うしゅんりにナール総括は微笑んだ。
エプロンを付けて自身の為に料理を作るナール総括にしゅんりは「お母さんがいたらこんな感じなのかな」と、思いながらその光景を眺めていた。
——しゅんりはマオ、オルビア、リオ補佐、そしてもう一人の魅惑化のベラとともに演奏組が出発してから飛行場を目指した。その最中、しゅんりはナール総括と過ごした昨日の事を思い出していた。
いつか出来るだろう自分の守りたい何かのため、ナール総括が守りたいこの日常の日々を侵されないように戦おうと決意した。
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