第45話 昏れた空にも陽は昇る(後)
「それでいい、難しく考える事はない。俺は既にヘレナに救われていたのだから、合わせる顔がないなどと、寂しい事は言わないでくれ」
「……でも、でも、わたくしは、やっぱり、聖女でないわたくしは、オリヴァさまに優しくされる資格など……」
「聖女かどうかは関係ないんだ。……あの時はついああ言ってしまったが。……助けられた俺だから、見てきた事がある。そして、憶えている事があるんだ」
「憶えている、事……?」
青髪の乙女が己に耳を貸してくれている事を、オリヴァは頷いて確かめる。
彼女自身が自分のことをわからなくなってしまっていても、青年の記憶の中には、確かな思い出が刻まれているのだ。
「ああ。ヘレナは……誰かの為にと頑張れる努力家で、誰かが安らげる様にと気遣える優しさを持っていて、誰かを助ける為にその身を尽くす事ができる尊い精神を持つ人だと……それが君なのだと、俺はそう記憶している」
「それが……わたくし……ヘレナですか?」
「そうだ。自分が聖女じゃないと言うのなら、俺はそれでいいと思う。俺が見てきたのは“聖女の誰か”ではなく……ヘレナ、君自身なんだ」
そこで言葉を一区切りしたオリヴァは、ヘレナのすぐそばへ歩みを寄せると、その前に跪いて、優しく彼女の片手をとって、祈りを捧げる様に己の胸の前で柔らかく握った。
「ヘレナの事を憶えている俺を、信じてくれ。自分が何者かなんて、悲しい事で悩まずに……君が命を救った、そして今日君が格好良いと言ってくれた、俺を信じて欲しい」
目の前の聖なる乙女が自分を否定するというのなら、己が肯定してやろう。
自分が何者かわからなくなってしまっても、己が思い出してやろう。
だからヘレナは俺を信じるだけでいいのだと、オリヴァは彼女に光に照らされた道を示した。
言葉だけでは足りなかった。行動するだけでは届かなかった。
故に今日オリヴァはヘレナによって命を救われた己の背中を見せて、そうして語ってみせたのだ。
そうして……その言葉は、確かに乙女の闇を懐いた心へと至った。
「……わたくし、今日までいっぱい、ご迷惑をかけてしまいました。迎えにきていただいて、戦いまでさせてしまって」
「言ったろ、誰だって間違うし、迷惑をかける事がある。けど、それを笑って呑み込んでみせるのが、ヘレナが助けた“不滅”のオリヴァなんだ」
「……わたくしはもう、聖女ではいられません。ただのヘレナ、なんですよ。それでも、オリヴァさまは受け入れてくれるのですか?」
「勿論だ、決まってる。俺は聖女に会いに行ったじゃない、ヘレナに会いたかったんだからな」
「わたくしは。……わたくし、は……!」
それ以上、青髪の乙女は否定の言葉を紡がなかった。……紡ぐ事は出来なかったのだ。
オリヴァの真心に触れたヘレナは、崩れる様に膝をついて、そうして縋る様に青年へと身体を預けると、ひたすらに泣いて、ひたすらに謝った。
何度も何度も謝って、泣いて……そうして震える乙女を、オリヴァは優しく胸に抱き留めて、好きなだけそうしていると良いと受け入れてみせた。
青髪の乙女は聖女である事を否定した。
しかし、愛する青年を助けたヘレナであるという事は、思い出す事が出来たのだ。
彼女の心の闇に今、光が差し込んでいた。
——泣き疲れたヘレナを、オリヴァが優しく腕で受け止める。
もう彼女は自分が何者かなどと悲しい言葉を吐く事はないだろう。その目には青年から伝えられた光が宿されており、その眼で以て青年を見上げていた。
「……ごめんなさい、ありがとうございます。……いっぱい、伝えたい事があって困ってしまいますね」
「ゆっくりで良い。これから好きなだけ時間はあるだろうから」
「はい。……ふふ、もう本当に、何から伝えたら良いのか……ただのヘレナには、難しいです」
「そうだな。……とりあえず、戦いが終わった後にやる事といったら、一つしかないよな」
「何ですか? ふふふ、わくわくしちゃいますね」
ヘレナの心を救って、それで終わりではないのだ。
聖女ではなくなった彼女にも、また新たな希望を示してやらねば、それは無責任というものだ。甲斐性などと考えたわけではないが、オリヴァはその事をよくよく理解していた為に、ヘレナにもとりあえずの道標を伝える。
「美味いものを食べよう。ハイドラの戦いの後に食べたヘレナのスープも美味かったが……ここはやはり……」
「やはり、なんですか?」
「カレーだ! ……やっぱり俺は、ヘレナが美味そうに食事をする姿が好きなんだ。一緒にどうだろうか」
そもそも、何故オリヴァ達がウィーゼアルムに来たかといえば、カレーを食べにきたからに他ならない。
思わぬ、そして大事な寄り道をする事になりはしたものの、むしろ食事は大勢で食べた方がより美味になるものだとオリヴァは考えていた。
ヘレナがその輪に加わってくれるのならば、それだけで剣闘試合に臨んだ甲斐があったというもの。そのように、オリヴァは考えていた。
青年の思わぬ提案に、ヘレナはきょとんとした表情を浮かべた後、そうして柔らかく微笑んだ。
「カレー……聞いた事がないお料理ですが、きっと美味しいのですね。オリヴァさまがその様な顔をされるんですもの」
「ああ。……はは、実は好物なんだ。出来れば、ヘレナにも味わってもらいたい」
「……是非ご一緒させてくださいませ、オリヴァさま。わたくしの姿を見て喜んでくださるなら、いくらでも」
そうやって笑い合って、さぁ待っている人がいるからと立ちあがろうとした時に。
「ああ、でも、やっぱりこれだけは先に」
そう言ってヘレナは、オリヴァの頬へ手を添えて……それから、柔らかく口付けをした。
なんとはなしに、そうされるのではないかと予想していたオリヴァは慌てる事なく、しかし耳まで真っ赤に染めながら、神妙な面持ちでそれを受け止めた。
「……ふふ、その表情。やっぱりシルヴィアさまとは、既に交わされていましたか」
「え?! あー……その……うぅん……」
「でも、わたくしは気にしません」
何を気にしないというのかとオリヴァが言葉にするより早く、ヘレナは再び唇を寄せる。今度はただ触れさせるだけではなく、相手の唇を食んでみせるような、より熱の篭った仕草だ。
先程より長い触れ合いを経て、漸く離れたヘレナは微かながら熱い吐息を吐く。その表情は、つい先日まで聖職者だった乙女とは思えぬ程に、蠱惑的だ。
「……食べている姿が好きだと喜んでくださったのは、オリヴァさまなのです。ふふ、だから、ずーっと見ていてくださいね?」
「……確かに言ったが、これはまた違うんじゃないか……?」
「ふふ、ふふふ。いっぱい、いーっぱい喜んでもらえる様に、わたくし、頑張ります。……いまはこれくらいしか、差し上げられるものはありませんが」
三度、乙女の唇が青年のものへと降り注ぐ。
その仕草には、相手に喜んで欲しいという、純粋にして狂気的な愛がこもっている。
「わたくしには……ヘレナには、オリヴァさましかいないのです。だからわたくしを……末永く見ていてくださいね?」
青髪の乙女の闇は、少しだけ晴れ間を見せた。
しかし同時に、柔らかく、温かく、甘やかな……狂愛が沸き立っていた。
あえてその名を呼ぶのならば、“依存”。
自己を見失った聖女は、愛する青年の視界に依存する事で自身の存在を確かめられる様になった。
故に今の彼女は、青年が自身を見てくれるならなんだってするのだろう。……彼女が聖女に選ばれる程の善性を有する者でなかったのなら、戦慄してしまいそうな程に。
……そしてその、本来なら遍く人々に注がれていたであろう巨大な愛を前にして英雄と謳われた青年は……黙って、四度目の口付けを受け入れるしかなかった。
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