第36話 絶望の聖女(前編)

 ヘレナを助ける為、オリヴァは百人の闘士を相手取り戦うことになった。


 試合の開催日は五日後となり、正式な契約書を交わした後、そしてオリヴァはヘレナと顔を合わせる事になる。


 オリヴァにとっては、百人を連続で相手する試合よりも、大切な仲間についての謎が頭を埋め尽くしており、商会の中を案内される最中もどこか固い様子で、光を返す大理石の廊下を歩いていた。


 そんな主の姿を見かねて、隣に立つシルヴィアは小さく息を吐いたのち、オリヴァに声をかける。



「主様、必要とあれば、私のみで彼女を見て参ります。故にそう、“そわそわ”とされずともよろしいかと」


「え?! ああ、いや、大丈夫だ。……やはりどうしても気になってしまうんだ。何故彼女が、と」


「私も同じ気持ちではあります。そこは、本人に聞いてみるしかないのでしょう」



 いま気を揉んでいてもしょうがないのだ。そう諭されてオリヴァは深呼吸した後、案内する女性の後に続いて、奴隷達が収められる部屋へと辿り着く。


 そこは牢屋……などではなく、百を超える人が収まりそうなほど、十分な空間的余裕のある大部屋だった。部屋にはずらりと三段組の寝台が用意されており、そこでこれから商材となる奴隷達が就寝する事を示している。


 窓も備えられ、白を基調とした部屋は清潔を保たれているが、しかしあくまで奴隷の収容所であり、窓には無機質な格子が嵌められ、部屋の二つある出入り口は二重に施錠が行えるように細工が施されている。


 彼らは安全を保障されてはいるが、あくまで奴隷であり、完全な自由を求める立場にはないのだという事を、部屋の様子が物語っていた。


 その部屋に足を踏み入れたオリヴァは、可能な限り手早く視線を動かし、空色の髪を探す。希望を失った彼らを無遠慮に眺めるなどという事は、すべきではないだろうと青年は考えたのだ。しかし。



「いない……? そんな筈はない、よな」


「確かに見当たりません。ヘレナ様を見間違える事など有り得るはずが」



 あれだけ目立つ筈の乙女が見当たらず、オリヴァは顔を顰め、シルヴィアも小さく首を傾げたが、案内した女性が“こちらへ”とさらに示すと、そこには別室への扉が用意されていた。


 その女性が言うには、“商材価値”が高いと判断された者は、が起こらないよう別部屋に隔離されているのだという。


 そうして、女性が扉の前に立ちノックをするや否や、扉を開けて中を確認する。部屋の中にいるのはあくまで格別の“商材”であり、その返事を待つ事などはしないのだ。


 促されて、オリヴァはどんな顔をしたら良いものかと面を伏せたまま入室する。


 かつての仲間が心配でここまできた。しかし、その本人が、聖女である事を否定している。その事実を青年は未だ呑み込むことは出来ておらず、この会話が希望になればと思いつつも、胸の内に広がる暗雲を振り払いきる事ができていなかった。

 


「……オリヴァ、さま……?」



 弱々しく、そして何度も聞いた筈の声が聞こえて、オリヴァはようやく顔を上げる。


 そこには、窓から差し込む光に照らされて、身なりを汚してなお美しさを懐く、原石のような乙女が、床に座り込んでいた。



「ヘレナ、だよな」



 空色の髪を持つ乙女は、その桃色の丸い瞳でオリヴァのを見遣ると、何がおかしいのか笑みをこぼし始める。しかし、笑ってはいれども、瞳にはどこまでも空虚が広がる様であり、オリヴァを見ていながらも、オリヴァを見る事ができていないかの様な色を浮かべている。



「……ふ、ふふ。ついに、ついに、ああ、ついに。……あなたさまが、わたくしを責めて下さるのですね」


「何を。……責めたりなんか」


「ふふ、ふふふ。いっぱい、いっぱい、罵ってください。貶してください。呪ってください。あの日、わたくしが殺めてしまったあなたさまの声で、どうかどうか、わたくしのような、愚かな存在を、否定してください。わたくし自身の言葉では足りないのです、女神さまに愛されていなかったという事実では足りないのです、全てから逃げ出しても足りないのです。どうか、どうか」



 ぞわり、とオリヴァの背中を怖気が走る。


 その感覚は遠くない過去……シルヴィアと再会したあの夜にも味わっていたものだ。その感覚が意味するところは、いまヘレナはやはり、オリヴァの事を見る事ができていない。


 闇に閉ざされた彼女という器の中で、ひたすらにその小さな魂を震わせているのだ。


 ……どうするべきなのか、どう声をかけるべきなのか。オリヴァは既に錯乱しているヘレナを前に、ごくりと息を呑んで思案に暮れる。


 しかしこの日は、オリヴァだけが乙女の闇に立ち向かうわけではない。青年に遅れるようにして、銀髪の乙女もまた、部屋の中へと踏み込んだ。



「ヘレナ様、私もおります。……お久しゅうございます」


「……シルヴィア、さま……? どうして、どうしてあなたさまが、こ、ここ、に……」


「ヘレナ様が乗る馬車を追って参りました。……当然、主……オリヴァ様も同じく、こちらに」



 ヘレナにとって、死した筈のオリヴァが自身を呪う為に姿を現したと、そう思い込んでいたところに、同じく仲間であったシルヴィアの登場は弱り果てた思考の範疇外だった。故に、僅かばかりの正気を取り戻したヘレナは、目の前にいるオリヴァは何者なのかと、目を疑い始めた。


 ……対するシルヴィアは、ヘレナの姿を見て、思わず眩んでしまいそうになる。



「うそ、うそです、だって、あの日、わたくしはあんなにも、あんなにも悍ましい言葉を口にして」


「……ヘレナ、様。どうか、落ち着いて、くださいませ」


「血を流すオリヴァさまを、癒すこともせず、ただ、ただ、馬鹿みたいに、狂っているように、視界に収めるだけで」


「……うっ、く……」



 ヘレナの言葉に、シルヴィアもまた胸を抑えて反応する。ヘレナの心に巣食う闇トラウマはすなわち、シルヴィアにとってもまた闇である。


 彼女を助けたいと思いこの場に臨んだシルヴィアであるが、ヘレナの意識をオリヴァに向ける事が出来ただけでも、充分と言えるだろう。


 心の闇の共鳴、とも言うべき二人の反応は、この時点のオリヴァには察することも難しく、一先ず苦しみだしたシルヴィアが倒れない様に抱き留めた。



「シルヴィア! ……配慮が足りなかった。済まない、外に出ていてくれ」


「私、私は、主様のおそばに、いなければ。だって、あの日」


「大丈夫だ。今日までだってシルヴィアには頼りっぱなしだったんだ。これからも、共に旅を続けて欲しい」


「……はい。申し訳、ございません。何かあれば、お呼びください」



 身体を引きずるように、部屋を後にしようとするシルヴィアを案内をした女性に預けて、オリヴァ再びヘレナへと向かい直る。


 ヘレナは何事かをぶつぶつと呟いており、闇と現実の間で揺れ動いているようだ。彼女の意識を掴むには、この機会しかないだろう。そう直感的に理解したオリヴァは、しゃがみ込んで床に座り込むヘレナと視線を合わせる。



「そんな、そんな筈はないです。だって、あんなにも痛ましく、あんなにも苦しげな表情を浮かべてしまったオリヴァさまが、そんな、そんな筈は」


「……俺は不滅だ。あの程度の傷では、猫に引っ掻かれたのと大差ないさ。ほら」



 そういってオリヴァは、ヘレナへと手を差し出す。姿を見ただけで納得できないと言うなら、触って確かめてみたらいい。


そんな単純な思考は、弱ったヘレナには効果があり、差し出された手を呆けるように眺めた後、空色の髪を持つ乙女は恐る恐る手を出して……オリヴァのゴツゴツとして、それでいて暖かい手に触れた。

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