第37話 絶望の聖女(後編)



「あたたかい」


「当然だ、生きてるんだからな」



 恐る恐る、弱々しく、そして縋る様に己の手に触れた空色の髪を持つ乙女の手を、オリヴァは優しく握る。


 その僅かに込められた力が伝わったのか、ヘレナはその時確かにオリヴァを瞳で捉えて、そして、ぽとり、手を床に落とす様についた後、ただ静かに頭を擦り付ける様に硬く冷たい床につけた。



「……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。あのような、恐ろしい言葉を、オリヴァ様に向けて、ごめんなさい。傷付くあなたさまを癒すこともせず、ただ眺めるだけなどと、愚かしい事をしてごめんなさい」


「謝らないでくれ! ……謝って気が済むならそれでもいい。でも、謝る必要なんてないんだ。理由がある上に、俺も恨んだりなんかしてない。頼む、頭を上げてくれ」


「でき、ません。あなたさまに、合わせる顔がないのです。優しくて、力強くて、その背中で励ましてくれた、みなさまが大好きだったあなたさまを、傷つけたわたくしは、謝ることしか、出来ないのです」


「……傷付けたって言われても、俺は元々傷だらけだ。それに人は、誰かを傷つけずに生きるなんて事は、きっとできない筈だろう。それが、例え聖女と呼ばれたヘレナだって」


「わたくしは聖女などではありません!!」



 魂の底から絞り出したかの様な、悲鳴じみた否定の言葉を上げて、ヘレナは顔を振り上げた。


 オリヴァはヘレナの事を誰よりも聖女らしい乙女であると信じている。マーテル教の使いとして旅路を共にし、そして幾度となく救われ、その優しさに心癒されて来たからだ。


 故に彼女を慰めようと口にした言葉を、他でもないヘレナ自身が否定した。……あの馬車に拾われた時も、同様の反応を彼女は返していたのだ。


 その有無を言わさぬ剣幕に、オリヴァは目を見開いて、言葉を失ってしまう。



「あのような言葉を吐く人間が、聖女の筈がない、聖女であっていい筈がないのです」


「そんな事はない。誰だって」


「聖女というのは、マーテルさまに愛され、人々にその愛を示す存在。それが、それが。……よりによって、愛しているあなたさまに、あのような、慈悲のかけらもない言葉をぶつけて、血を流させて、なにが、なにが聖女なのでしょう」


「ヘレナ、違うんだ」


「だから離れたのです。わたくしの様な存在が、みなさまのそばにいる訳にはいかないのです。マーテルさまを愛するみなさまに、申し訳が、立ちません」



 歪んでいてなお、女神マーテルと愛する人々の為。魂の奥底まで染みついてしまったその在り方が、聖女としてあり得る筈のない行動原理に繋がっていた。




 ——自身は聖女などではない。そう、妄執に囚われたヘレナは、大聖堂という女神マーテル教における聖地に自身の存在がある事を許せなかった。


 この食事を求める人がいる筈だ。


 この部屋で身を休めたい人もいる筈だ。


 この土地に足を運びたい多くの人々がいる筈だ。


 この……聖女という肩書きが、相応しい人がいる筈なのだ。


 そう考えてしまったヘレナは、聖女として軟禁され、誰かの世話を受けているなど出来なかった。故に部屋を、絶望してなお失われぬ光魔法の力で以て抜け出し、何処かへと消え去ろうとしたのだ。……そして行く当てのない逃避行の中で、いよいよ力尽きた。


 そこに通りかかるのは、商いといえどもをお題目にした奴隷馬車。


 彼らは生きるアテのない人々に奴隷という一時的な立場を与える事で、その日を生きながらえさせる役割を持っていた。故に行き倒れていたヘレナを馬車に乗せ、生き延びる機会を設けたのだ。


 しかしその乙女の見た目は、かの聖女のものとこれ以上ないほど似通っており、その為に訊ねざるを得なかった。


 そしてヘレナが、叫ぶ様に放った言葉は……。




 ——自身は聖女ではないと、語る乙女を前にして、オリヴァはいよいよ邪竜の呪いについて言葉を紡ぐ。


 聖女ではないとする根拠が、“あの日”の出来事であるならば、それは間違いなく彼女のせいではない。その事を理解してくれたなら、ヘレナはきっと落ち着きを取り戻してくれるだろう。


 そう願って言葉を紡いだオリヴァであったが……その言葉受けたヘレナは、静かに涙をこぼし始めた。



「邪竜の、呪いって……“愛憎反転”だなんて……」


「ああ、だからヘレナは悪くない。誰も悪くないんだよ」


「そんなの、そんなの…………?」



 涙を零し、堪えきれない様に笑うヘレナを、何をいうのかとオリヴァは見つめる。



「大好きなお母さまお父さま、妹たちと離れた時も、まわりの人が、苦しい修行に堪えられなくて、居なくなった時も」



 ヘレナは決して、最初から聖女として完成されていたわけではない。彼女の年齢である17年という年月の殆どを、女神マーテルへの信仰に費やして来た。



「一人で冷たい水に身を浸して、一人で魔物がいる山を登って、一人で教会を巡る旅に出た時も……それがみなさまの為になるならって、そしてマーテルさまが見守っていてくださる筈だからって」



 誰よりも優れた光魔法の才覚を有するが故の孤独は、彼女を蝕むと共に彼女の信仰を更なるものとし、そして自己の確立にも繋がっていた。



「それから、邪竜を討ち倒す旅に出て……その結果が、愛する人を愛せなくなる呪いの影響を、受けてしまう? それが、マーテルさまが見守っていてくださる人間の、マーテルさまに愛されている人間の……、なのですか?」



 邪竜の呪いの影響は、そんなヘレナを酷く痛めつけた。女神が愛してくれていると思えたならば、こんな残酷は信じられないだろう。


 ……しかし、ヘレナは信じる者なのだ。余人ならば女神の存在を疑いそうな境遇においてなお、何処までも、何処までも、愚かな程に。



「優しいマーテルさまが、愛する我が子に、そんな末路は与える筈がないのです。だから、わたくしはきっと、愛されていない。愛されていないのなら、聖女などではない……でも、みなさまは、“ヘレナは聖女だ”と、言うのです」



 そしてオリヴァと目を合わせた桃色の瞳には、その深淵が伺えぬほどの闇が広がっていた。



……?」



 青年への情愛に対する邪竜の呪いという結末。その現実と女神への信仰の乖離に、ヘレナは心に闇を宿した。


 “自己否定”。ヘレナは精神が極限に至り壊れる寸前にて、聖女である自身を否定する事でしか、もうその崩壊を止める事は出来なかったのだ。仮に、否定をしなかったならば、彼女はより悲惨な末路を迎えていただろう。


 ……オリヴァは涙を流し、縋る様に問いかけるヘレナを見て、息を呑む。彼女の瞳から窺える闇は、銀髪の乙女が垣間見せたものと同等の、魂をも凍てつかせる様な寒気を放っていた。


 その瞳を間近で見たならば、オリヴァは……どうにかしなければならないと、覚悟を決める。


 ヘレナが望まないのであれば、聖女という肩書きなどは捨て置けばいい。そうでなくても彼女は、間違いなくなのだから。そう、かつての仲間への敬愛を抱くオリヴァは、黙って片膝をついて、ヘレナの手を取った。


 言葉はきっと届かないだろう。彼女が彼女自身を否定している以上、他者が幾ら言葉を注いだとしても、闇が見える程に底が抜けてしまったヘレナという乙女の器を満たす事は出来ない。


 故に“行動”で示すのだと、オリヴァはヘレナの手を取った己の手を、また己の胸の前で祈る様に重ねた。



。俺はその事をかつての旅路で、この目で見て知っている。……その証明をさせてくれないか」


「……わたくしがヘレナである、証明……?」



 オリヴァの真剣な眼差しに、ヘレナは涙を止める事は出来ずとも、口許を静かに結んで、その視線に応える。



「ああ。……五日後に、剣闘の舞台に上がることになった。そこで戦う俺の姿をヘレナに見て欲しい。……後でツェーザル殿には、話しておく」


「……剣闘。……その姿を見たら、わたくしが何者なのか、わかるのですか?」


「ああ、わかってもらえると思う。だからどうか、少しだけ俺に時間をくれ」


「……わかり、ました……」



 ヘレナが力なく頷いたのを見て、オリヴァはせめて口許だけはと笑みを浮かべると、“またな”と声をかけて部屋を後にする。


 やる事は変わらない。しかしその意義は変わる。


 そう考えた時、胸に久しく感じていなかった、圧倒的強者へ挑む時の様な、燃えたぎる焔が熱を生み出すのをオリヴァは感じていた。















ちょっとしたあとがき。

暗い話はこれにて終了!

あとは駆け上がるのみ……なので、本日も後一、二話投稿したいと思います。お暇なお時間ございましたら、何卒お付き合いくださいませ。

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