第32話 アリエナイものを見た
“——人々に恐怖と苦難を齎す大いなる蛇よ! 女神マーテルの御名において、汝の悪意を討ち払う!”
木製の舞台の上で深い青色の髪を持つ女性が、先端に“魔石”のあしらわれた杖を掲げると、その魔石から眩い白い光が漏れ出し始める。
低級階位魔法“
彼女の視線の先には巨大な蛇の頭のみが、宙空に浮かぶ様に佇んでいる。
こちらは中級階位水魔法“
魔法を用いた寸劇は観ている者を驚かせる程の迫力があり、“ヘレナ”役の女性が杖を振るい、ハイドラが大きく顎門を開いて応えたならば、舞台を囲む人々から歓声が上がる。
「この様な開けた空間で発動するには、“霧幻造影”は難易度の高い魔法です。それだけで、この一座はかなりのものと見受けられます」
「ああ」
「しかし、本物の“ハイドラ”と比べると、やや可愛らしいです。流石にそこまでの再現は叶いませんね」
「ああ」
シルヴィアは相変わらずの涼しい表情で、劇を演じる彼らを褒め称える一方、オリヴァは何故か口許を抑え、渋い表情で劇を眺めていた。
広場の別の場所では、ツィツィとククルカが屋台巡りをしており、今は
……開始から10分ほどが経過した頃には、黒髪の青年は後悔し始めている。
舞台の邪魔にならない様、二人が端の方でかつ小声でやりとりをしていると、舞台上ではヘレナ役の女性が振り撒く光により、ハイドラが弱る演出が始まった。
“さぁ、今です! 愛しのオリヴァ様!”
“愛しの”というセリフに、オリヴァは肩を震わせ、シルヴィアはすうと目を細めた。
そして下手から黒い長髪をたなびかせた
“やあやあ、我なるは魔剣携えし不滅のオリヴァ! 人類に害なす大蛇よ! 我が剣の一振りにてその邪悪を断ち切ってくれようぞ!”
登場に合わせて剣を掲げ、台詞を高らかに放ち、それからその男優は観客の一人に
そしていかにも気取った台詞をまた一つ吐くと、今度は観劇している絶世の美貌を持つメイド姿の銀髪乙女に狙いをつけ、再び同様の目配せをした。
それを受けた乙女——シルヴィアはびきり、とこめかみに青筋を立てる。
「消しますか」
「ああ……いや、待て待て。やめてくれ、頼むから」
恥ずかしそうにするオリヴァに宥められて、シルヴィアはスカートに這わせた手を引いて、再び手を体の前に重ねて観劇を続ける。
正体を知っている者がいたならば、気が気でない筈の一瞬であったが、男優が現れて以降背中を丸めて小さくなった強面の男と、やたらと美しいメイドがかの勇者一行であると気付く者はこの場にはいない。
故に劇は滞りなく進んでいく。
“ああ、私のオリヴァ様! どうかその魔剣にて、かの大蛇から弱き民をお救いください!”
“任せてくれ、我が聖女ヘレナよ! 行くぞ、ハイドラ! 受けてみよ、渾身の剣の閃きを!”
舞台上ではヘレナ役の女優が男優にしなだれかかると、幻影の大蛇との大立ち回りを演じ始める。
それを目にしたオリヴァは、いよいよ耳まで赤くなった顔をその両手で覆い隠した。
「俺、あんな事、言ってない……」
途中で場を離れるのは、劇を披露する彼らに対して失礼にあたるからと、観劇を続けていたオリヴァであったが、その内容は彼から見ると、とても羞恥心を煽る内容であったのだ。
——“聖女ヘレナのハイドラ退治”。その演目名に興味を惹かれたオリヴァ達であるが、内容はやはり演劇に向けて脚色されていた。
かの戦いでは呼気と共に毒を振り撒く“怪物”ハイドラを相手に、ヘレナが光魔法を用い毒と拮抗する事で中核的な役割を果たした。
しかし劇では、開始早々ヘレナとオリヴァの
本人やマーテル教に怒られるのではないかと
そこでオリヴァの名と武勇は知り得ても、その姿を知らぬ大勢の中では、“実は悪しき存在ではなかった英雄オリヴァと、勇者一行の乙女との恋愛模様を描く物語”が流行していたのだ。
故にもはや元の味がわからないほど大袈裟に味付けされた内容は、それを見せられた
それはもう、実際にハイドラの牙を腹に受けた時よりも相当だと言えるほどに。
オリヴァがちらりと指の隙間から舞台上を見遣ると、なにやら男が女の腰に手を回して愛を囁きながら、ハイドラに剣を向けている。それを見てしまったオリヴァはまた静かに顔を手で覆い隠す。
「アンナ、タタカイカタ、アリエナイ……」
「ハイドラとの戦いは地道な消耗戦でした。九つある頭を私達が切り落とし、傷口をリタ様が焼いて、その間ヘレナ様が光魔法で毒を中和し続けて……劇にするには、些か見栄えがしないかもしれませんね」
「……そういう問題、なんだろうか」
「いっその事、他の話にした方が良かったのではないでしょうか。例えば、“ミノタウロスとの戦い”など」
「それは」
“相手がシルヴィアになるだけなんじゃないか”という言葉を、彼女がにこりと口角を上げた姿を見て、オリヴァは呑み込んだ。
そうこうしているうちにハイドラを討ち倒した舞台上の男女が、舌を出して地に伏せる大蛇の頭を背景に、幸せそうな口づけの演技をして、無事に劇は終わりを迎えた。
「——ぱぱ。……あー……げき、おもしろくなかったの?」
広場を離れる様に歩きながら、オリヴァの手を握るツィツィが、浮かない表情をしている青年を眠たげな目で見上げて訊ねる。
子どもに心配させるなんて、らしくないなとオリヴァは顔を整えるも、すぐに眉がへにょりと垂れて、力なくツィツィの問いに答える事になった。
「面白くなかった、訳じゃないんだが……なんというか、色々あってなぁ」
劇を見終わった時には、あらすじを聞かせた茶髪の、一座の座長である男性に感想を尋ねられ、まさか己が舞台の上で演じられていた“オリヴァ”であると名乗り出る事も叶わず、青年はその答えに気を遣う事になった。
「あの役者だけは受け入れ難いものがありました。黒髪でしたが長さも違いますし、顔の傷も頬に小さくつけるのみ。体格も薄いですし、努力が足りていないかと」
「そこは……やはり、あの役者が気に入って見にくる熱心な客も居るだろうし、なんとも言えないさ」
「それに、あの騒々しく酩酊した男……今からでも処理してきてもよろしいでしょうか」
すぐさま“やめてくれ”とオリヴァが止めたのは、座長と話している最中、会場を騒がせた一人の酔っ払いについての事だ。
——“何が英雄だ、女に囲われていい気になってただけじゃねぇか”などと、赤ら顔で喚き散らす男性が現れ、飛びかかろうとするシルヴィアをオリヴァが必死に嗜める一幕があったのだ。
その男性は巷では“
オリヴァの事をよく知る乙女達や良識ある大多数の人々は、かつての自身の行いや振る舞いを後悔した。
しかし一方、邪竜の呪いによって抱いた悪感情から、逃れられなかった者も存在するのだ。
“人類の為に尽くした青年を悪く思ってしまったのは確かにおかしいとは考える。しかし、そう思わされた己は悪くない、きっとやはり、オリヴァなる存在が悪いのだ”。こういった利己的な、“弱さ”を持つ人々も少なくない。
故に、呪いから解き放たれたオリヴァであるが、その実はやはり、彼ほど“彼の事を嫌う人間が居る”存在はいないという現実を生んでいたのだ。
——ややこしく、面倒な事だ。しかし、嘆いていてもしょうがないとオリヴァは首を振って気を取り直し、シルヴィアとツィツィを隣に連れて通りを歩く。
「さあ、なんだか疲れたし宿を探そう。子ども連れで、ククルカが寝られるところを探さなければ」
オリヴァが後ろを見遣れば、ククルカが尻尾を振りながら歩いている様子が目に映る。人の多さに固くなっていた彼女であるが、屋台の料理がお気に召したらしい。
市内への出入りは許可されているが、魔獣を泊められる宿となると、数には限りがある。
「門兵に聞いた所ではこの辺りに推奨される宿があるそうです。大きな通りに程近い為、治安も良好なのだと」
「いつの間にそんな話を……おっ、と」
背後から馬車が来る事を確かめたオリヴァは、シルヴィアの肩を抱き寄せて道を開ける。
彼らの横を通り過ぎるのは、大きな馬車だ。
馬二頭立てにて牽かれる車体は、優に大人十数人は納まるであろう。どこの所属かを記してある幌を被せる事で、雨風を防ぐ以外にも、荷と左右の人目を遮断する効果がある。
それを見たシルヴィアが、ぽつり、と呟いた。
「あれが、奴隷を運ぶ馬車、でございます」
「……そうか」
奴隷を保護し、そして商材として丁重に運ぶ為の馬車。いよいよそれを見たならば、この都がどういう場所であるのかを否応なく認識させられる。
それを前にして、どういう顔を浮かべたらいいものかと迷っていたオリヴァは、その馬車の後方から見えたものに、驚いて目を見開いた。
「な……嘘だろう……?!」
オリヴァがそう言葉を漏らしてしまうほど、あり得るはずのない光景。
馬車の後方は中の“商材”を僅かばかり“お披露目”する為に開かれている。
そしてそこには、例え身に纏う衣服が襤褸になっていようと見紛うはずのない人物。
薄く汚れてしまった空色の長い髪に、光を失っている桃色の瞳。
まるでこの世の全てに絶望した様な表情を浮かべた聖女。
“ヘレナ”が、馬車の中で揺られていた。
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