第30話 “エニス”から“ウィーゼアルム”へ(後編)
これから一月近くかかる事を見込んでいるウィーゼアルムへの旅路。
その歩みにおいてささやかな楽しみを得ようと考え、ふわふわとしたククルカの身体に触れるべく、手を伸ばしたシルヴィアであったが……その手はあっけなくククルカの口許に収まり、軽く甘噛みされた後に吐き出された。
ククルカは同じ事をオリヴァやツィツィに対してする事はなく、そこに込められたのは明確な拒否。
“勝手に触るんじゃない、無礼者”と言わんばかりの態度と視線をシルヴィアに向けるだけ向けて、ククルカは何事もなかったかの様に歩き続ける。
シルヴィアが目を向ければ、そこには涎まみれになった自身の白い手のひらが映る。彼女もまたいつも通りの冷静さを装って、それを手拭いで清めた後、ぐっと拳を握り締めてククルカを見遣った。
「駄犬」
「おわぁ?! 拳を振り上げるな、何をするつもりだ!」
「離してください。こういうのは早いうちに
「許可する訳ないだろう?! ククルカは俺の友なんだ、落ち着いてくれ!」
慌てて羽交締めにするオリヴァに対し、表情にこそ浮かばせないものの、何かに堪えるように身体を震えさせるシルヴィア。
そんな銀髪のメイドをちらりと見て、ククルカは小さく鼻息を漏らした。
本来なら深い森に住まい、その生態系の頂点として君臨する犬の魔獣“クーシー”であるククルカが、人の旅について行くなどは到底あり得ない。
彼女はただ、友の事が心配だったのだ。
——シルヴィアがオリヴァの前に現れたあの夜。
ククルカは青年の血の香りを感じ、風のような速度で森の中を駆け、友の住まう小屋を訪れていた。
心配するククルカであったが、辿り着いた小屋には明かりが灯り、何がしかの話し声も聞こえてくる。彼女の優れた嗅覚は、その話し声の主に危機が迫っているのではないかという気配を感じる事はなかった為、ひとまずは安心した。
しかし、友の目の前にいる銀髪の雌。その存在をひと目見た瞬間に本能で……否、“雌の直感”によって、感じてしまったのだ。
この雌と我が友を二人っきりにするのは、マズい。
何かはわからないが、きっと青年が困る事になるであろう。そう、直感的に考えたククルカは、後にシルヴィアと名乗った女性を監視するつもりで、旅に同行する事を決意したのだ。
——ククルカはシルヴィアの事を、友であるオリヴァの連れだとは認めていても、決して自身の
本能を抑える事のできるククルカであるが、あくまでその本質は魔獣であるクーシーなのだ。故に、彼女の脳内におけるカーストは一にオリヴァ、二にツィツィ、三に自身で、仕方がないから四にシルヴィアを据えて、あとは有象無象と言った認識をしている。
自身よりカーストが下に位置するシルヴィアに、許可なく身体を触れさせるなど誇り高いククルカにはあり得ないのだ。
言葉を交わせぬ友がそんな事を考えているとは知らず、その友であるクーシーと大切な乙女が火花を散らそうとしている事に慌てたオリヴァは、小さく震える乙女を宥めつつ、歩く事を促した。
「ほ、ほら、行こう。まだ先は長いんだ、こんなところで立ち止まってるわけにもいかないし、出来れば仲良くしてもらいたいな!」
「……そうですね。申し訳ございません、取り乱しました。少し、不躾でございました」
「気にしなくていいさ! ……うぅん、そうだな。エニスでは手紙を出してきたって話していたな。何処に送ったかとか、聞いても良いか?」
話を切り替えるべくオリヴァは次の話題を、何処か拗ねているような雰囲気を漂わせる乙女へ向ける。
シルヴィアは服や食料の買い込みだけではなく、何処かしらへ手紙を出してきたとオリヴァに語っていたのだ。
女性の私的な事を訊ねるのは程々にとは青年も理解してはいるが、このままではまたククルカと上下関係を争いかねない。そう考えた為に、オリヴァは唐突に話の切り替えを行った。
そのオリヴァの露骨な舵の切り方に、シルヴィアは少しだけ逡巡した後に答え始める。
「手紙は……皆様に、これから
「皆様……って、もしかしてアルマ達の事か?」
「はい。きっと、心配されているのではないかと。主様は、皆様が何処に居られるかを把握してらっしゃらないと伺った為、私の方で手配をしました」
“差し出がましい真似でしょうか”と、おずおずと視線を己へと向けるシルヴィアに対し、オリヴァは首を横に振った後、笑顔で応える。
「ありがとう、シルヴィア。その手紙を見て皆がどうするかはわからないが……“呪い”の事で少しでも気に病んでいるかもしれないなら、助けにもなるだろう」
自身が影でどれほど四人の乙女達に愛されてきたかを知らないオリヴァは、邪竜の呪い、その影響が気にはなるものの、笑顔でかつての仲間達に再開できる事を望んでいる。
もしこの旅の道中にそれが叶ったなら、それは喜ばしい事なのだろうと、シルヴィアの行いを笑顔で肯定した。
……黒髪の青年は、邪竜討伐の旅路においては、異国の景色に感動したり、その土地の食に感銘を受けたりはすれども、ただひたすらに目的を果たす事だけを考えていた。
同郷の幼馴染を守る事。共に旅路を歩む仲間達を守る事。基本的にはそれだけを頭に、日々を過ごしていたのだ。
故に未だ、知らないのだ。乙女達の胸に秘める、その身を焦がし尽くさんとする焔の大きさを。
「それはきっと、間違いない事かと」
「そうだろうか。……まぁ、その内会えたら、嬉しいな」
「はい。ただ、ウィーゼアルムには御三方ともにいらっしゃらない筈ではありますので、本当に“その内”という事になるでしょう。……出来れば、私は……」
「……?……出来れば、どうしたんだ?」
「……いえ、やはり皆様に逢えたら喜ばしいと、そう思ったのでございます」
珍しく歯切れの悪いシルヴィアの言葉に、オリヴァは少し首を傾ける。しかしやはり、女性には女性の関係が存在すると知っている上、かつての旅路でも四人だけで楽しそうに何かをしていた仲の良い姿を見た事もあるオリヴァは、それ以上話を掘り下げる事をやめた。
乙女の内心に対して不用意に触れようとするのは、寝ている虎の尾を踏む事と変わらない。
過去に成長期のアルマに対し、“重くなったな”と成長を喜んだつもりの発言をして、顔を真っ赤にした勇者に聖剣キャストリオを振り上げて追い回された経験のあるオリヴァは、その事をよくよく理解しているのだ。
故にオリヴァは隣を歩く乙女の、揺れる銀色のポニーテールを視界に収めつつ、次の話題を続ける事に決めた。
「しかし、ウィーゼアルムか……行った事がないから楽しみではあるんだが、エニスでは勇者の旅には相応しくないと言っていたよな」
「はい。そういう都がある事を理解していても、皆様はあまり好まれない性質の場所かと存じ上げております」
「俺達が好まない……一体、どういう場所なんだ?」
訊ねられたシルヴィアは、歩きながらも紫色の瞳をオリヴァに向けて見つめる。自身はただオリヴァの隣に在るのみと定めている彼女が、その瑞々しい唇から聞かせるのは、偽りのない事実なんだろう。
「“ウィーゼアルム”は人々の欲望が渦巻く……奴隷と剣闘の都でございます」
その涼しげな表情から放たれた、何処かおどろおどろしい言葉の羅列に、オリヴァは思わず息を呑む事となった。
——そして彼らは未だ知らない。
ウィーゼアルムの北に位置する、ヒルデガルト聖国のヴァイセフーゲル大聖堂。
この世界で最も信仰を集める女神マーテル教において、聖地となるその場所から。
象徴たる聖女ヘレナが、姿を消した事を。
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