第26話 悩み、その一。そして

 看板料理を堪能し酒場を出たオリヴァとシルヴィアは、エニスの白い岩で出来た家屋の並ぶ通りを歩き始める。


 時分は昼を大きく過ぎた辺りで、ようやく傾き始めた太陽が白い街並みを照らすさまは、よくよく晴れた青空と相まって爽やかな空気を感じさせる。


 二人は、今日のところはこの街で一泊し、明日になってから再びの旅支度をしようかと、看板娘ヴァネッサに教わった曰くエニスいちの宿を目指していた。


 当初の目的こそ叶わなかったが、“カレー”の有力な情報を得られたオリヴァは至って上機嫌であり、ともすれば遠くない未来で再びあの味を受け入れる喜びを得られるのではないかと、大きく傷の入った顔を綻ばせる事を止められないでいた。


 反面、シルヴィアは曲げた人差し指を口元に当てて、何かを考え込んでいる様子が窺える。この仕草は彼女が思考を展開する際の癖であり、その仕草の後の言葉が魔物との戦いにおいて極めて有用なものであったと記憶しているオリヴァは、隣を歩く銀髪の乙女に“どうかしたのか”と声をかけた。


 ややあって、シルヴィアはオリヴァを見上げて、艶やかな唇を有する口を開く。



「先ほどの、めす……酒場の女性が語ったお話についてなのですが、心当たりを思い出しました」


「心当たり?」


「はい。“カレー”の名を何処かで聞き及んだ事があったのですが……このエニスから北に直進した先にある、国境沿いの都市“ウィーゼアルム”に、世界の美食を提供する高級宿ホテルがあると」



 “そこにはカレーなる料理があると聞いたことが”と、シルヴィアは少ない情報から過去の記憶を掘り起こして、オリヴァに聞かせた。


 シルヴィアの実家に勤めるお抱え料理人が、その“高級宿ホテル”の料理長と料理の腕を競い合ってきた間柄であり、かつて彼女の父と世間話を交わしていた際に、耳にした事があったのだ。


 “友人の作る料理は驚かされる物ばかりで新鮮だ。カレーなんていうのは、一体どこで見つけてきたのやら。味は勿論、私の方が優れておりますが”。


 遠い地の友人を誇らしげに語る、頼もしき料理人の姿をシルヴィアは覚えており、それが酒場での話と噛み合う事で、彼女の脳内に一つの可能性を導き出していた。


 それを聞いたならば、オリヴァは表情を明るく破顔させ、シルヴィアの言葉に続けてみせた。



「“ウィーゼアルム”か……! かつての旅では、寄らなかった都市だよな。そこから、すぐ北にあるヒルデガルト聖国に進路をとっていた筈だ」


「そしてヴァイセフーゲル大聖堂でヘレナ様をお迎えし、そこから西に向かったと記憶しております。……ウィーゼアルムは、の為、立ち寄らなかったのはやむない事かと」


「そうなのか? ……まぁしかし、次の目的地は決まった様なものだ! 流石はシルヴィア。その知識、発想、機転はなんとも頼りになるな!」


「恐れ入ります。……手を取ってはくださらないのですか」



 頼りになる旅の連れに対し目一杯の笑顔と称賛を送るオリヴァであったが、対するシルヴィアはオリヴァの手を見つめて、物足りないとでも言うかの様にそう言葉を返す。


 何が不満なんだろうかと疑問に思うオリヴァであったが、少し悩んだ上で、身体をシルヴィアへと向けて、その手を取って握手をしたのち改めて感謝の言葉を伝える。


 “本人からの要望とはいえ、やはり必要以上に女性の身体に触れるという事ははしたないのでは”。そう考えるオリヴァは気恥ずかしさを抱きながらも、覚悟を決めて乙女の手に触れたのだが……シルヴィアは触れられた手を、それからオリヴァの目を見つめる。


 その瞳には、ほんの僅かに“抗議の色”が混ざっているかの様だ。



「……先ほど酒場の時はあんなにも情熱的に、手を取られておりましたね」


「何の事……いや、あれは! その、思わずというかだな……」


「やはり私から、手解きをして差し上げるべきなのでしょう。差し当たり、胸は……」


「待て待て待て! 天下の往来で何をさせようとしているんだ?!」



 握手した手をぐい、ぐいと引っ張り、メイド服越しの自身の胸に押し当てようとするシルヴィア。オリヴァを見つめる紫色の瞳はやはり澄んでいて、自身の言動に一点の曇りも抱いていない事が窺える。


 男の誰もが夢に見る様な身体を持つ乙女を、鋼の精神で以て宥める青年のオリヴァは顔を赤くしつつ慌てながら、手を引き込まれない様に抵抗する。


 ……やはりこれが、オリヴァの悩み、その“一”。


 のだ。




 ——シルヴィアがオリヴァの下を訪れたあの日。

 自身の抱く罪悪感に押し潰され、ひたすらに弱って見えた彼女の心を想い、旅に出ようと誘ったオリヴァ。


 一見カレーの事で頭が一杯……否、カレーの事を考えているのは間違いないが、彼の脳内には同じ程、シルヴィアという女性の事で埋め尽くされていた。


 どうにかシルヴィアを表面上は納得させ、エニスまで辿り着いたオリヴァではあるが、彼は決して忘れたわけではない。


 唐突に現れたシルヴィアが、彼女の意思で以て触れさせたあの柔らかな双丘の温もりを。


 そしてナイフを振り上げる直前に囁かれた、“愛しています”という、無垢な言葉を。


 その後、不意に重ねられた唇の瑞々しい感触を。


 挙句、夜な夜な行われる銀髪の乙女の“夜這いめいた行為”を。


 シルヴィアの事をかけがえのない存在であると認識しているが故に、辛うじて意識を表面化する事を抑えているオリヴァであるが、これらの事を忘れる事など出来ようはずもないのだ。


 彼とて健全な精神と肉体を持つ青年である。決して魅力溢れる女性に迫られた時、是が非でも拒みたいというわけではない。


 しかし、シルヴィアの事を想えば想う程、今の彼女の誘惑に見事誘われるのは、他ならぬ彼女の為にならないだろう。


 ……幼馴染の無遠慮な接触で同年代の女性というものに慣れ、かつての旅路では乙女に囲まれて過ごし、そうしてある程度、“女性”に理解を示せる様になった青年であるが……その本質は、乙女たちよりもを有しているのがオリヴァだったのだ。


 故にオリヴァは、シルヴィアの熱烈な誘惑に対し、どうしていいものかとひたすらに頭を悩ませていた。




 ——そして今日もまた、シルヴィアによる、を蹂躙するかの様な振る舞いに、傷だらけの英雄オリヴァは必死になって抵抗する。


 一度受け入れてしまったなら、もう旅をするどころではなくなり、二度とカレーと出逢う事は叶わないだろう。

 

 そう理解しているオリヴァは、シルヴィアの事を傷付けない様に細心の注意を払い、然りとて一歩も引かぬ姿勢で己の手を涼しげな表情で引っ張る乙女に抗ってみせる。


 ……人通りも少なくない場所でのやりとりだ。周囲の人々は、なにやら微笑ましい男女のやりとりを、生温かい目で見守っている。


 その視線に気付いてしまったオリヴァが、“誰か助けてくれ”などと、思い始めた時……不意に己の羽織る外套マントを、くい、と引っ張る感覚を彼は捉えた。


 まさか本当に誰か助けが、いや、こんな所で乳繰り合うような真似事をしているのだから、街の衛兵がかけつけたのかもしれない。そう、更に慌てたオリヴァが振り返ると……そこには誰もいない。



「……その子は、主様のお知り合いでしょうか」



 オリヴァの後ろから引かれたのだ。その正面にいる筈のシルヴィアには、少し視線をずらせば誰が彼の外套を引いたのかがすぐに見える。


 そうして、乙女の後を追う様に、己の視線をオリヴァの目に映ったのは。


 、小さな人影……少女の姿だった。

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