第25話 その瞳は見つめている。

 銀髪の乙女シルヴィアはその宝石の様な紫眼で見つめていた。


 朗らかに笑う酒場の看板娘が、主を気遣って声をかける健気なその姿を。


 妙に馴れ馴れしくなった少女が、あれこれと無駄話を語りかけ、主の逞しい手で手を取られたかと思うと赤面して驚くその姿を。


 挙句ふしだらなその雌は、異性の視線を釘付けにするであろう胸元を押し付け、何事かを囁いて主を籠絡しようと戯言を吐こうとする有り様を。


 そうヴァネッサの事を捉えていたシルヴィアは、少女がオリヴァに話しかけ、料理を運び、楽しそうに語る中、静かに黙って見つめていた。


 ……悲しいかな、シルヴィアはオリヴァの恋人を気取るつもりはない。彼女は青年が誰と男女の仲になろうと邪魔をするつもりは、


 あくまで自身は贖罪の為に側に居るべき存在であり、オリヴァが真に心を通わせ仲睦まじい関係を築く相手が現れたのであれば、その時もまた黙って側に居るだけのこと。


 それまでの間は、主にも日もあるだろう。それを解消するのは自身の役目であり、その為なら抱き心地には自信のあるこの肢体を好き扱ってもらうべき。


 心に闇と愛を宿す乙女はその歪んだ心算こころづもりを以て、再会してからの日々をオリヴァに尽くしていた。


 故にシルヴィアは“”という、単純な思考のみを脳内に宿して、ヴァネッサの振る舞いを見ていた。


 その為、瞳には妬みも嫉みの色もない。


 例えるなら、熊や狼の有するそれだ。子うさぎを前にした彼らがその命を狩ろうとする時、余計な思考は挟まない。彼らの目にはただ、己の糧となる矮小で脆弱な命が映るだけ。そこには、己が爪を振るうだけで子うさぎの未来が絶たれるであろうという事実だけが存在する。


 シルヴィアがヴァネッサに向けていた瞳も、それらと同類の、ただ“事実”だけを宿したものだった。それを以て、ただただ見つめていたのだ。




 ——そんなシルヴィアの視線に気付いてしまったヴァネッサは、もうダメだった。


 相手はあの邪竜を前に騎士達を引き連れて戦った英雄が一人。未だ得物こそ手には納めてはおらねども、次の瞬間自身の首が胴体と今生の別れを果たしていても不思議ではない。それをうっすらと理解したヴァネッサは、それ以上オリヴァと仲良くなろうとする言葉を紡ぐ事は叶わなかった。


 あくまで酒場の看板娘であるというだけで、ただの少女に過ぎないヴァネッサであったが、この時ばかりは“女の勘”が奇跡的な働きを見せていた。


 そうして、ヴァネッサがとった行動は一つ。



「……こ……これからも、ご贔屓に! そんじゃーねー!!」



 全力での退避行動だった。


 風の様に去りつつも、“林檎果汁はおまけしとくからー!”と言外に料理の支払いはしっかり請求する商魂逞しい少女を見送りつつ、オリヴァは目を丸くする。



「何というか、嵐の様な女の子だな……」


「ああいう方を好まれますか」


「な、なにを?! 何の話をしているんだ?!」



 “なんでもございません”と言葉にしながら、ようやく料理を食し始めたシルヴィアを、オリヴァはため息をひとつ吐いた後、懐かしむ様な、慈しむ様な目で見遣る。


 その視線に気付かないシルヴィアではなく、“どうされましたか”と訊ねると、オリヴァは少しだけ躊躇った後に口を開いた。


 その話は、ともするとシルヴィアにはを想起させかねない。しかし同時に、彼女の心を癒やす可能性を秘めていたからだ。



「ん、そうだな……こういった場に来るのも久々で、隣でシルヴィアが飯を食べているとあの日々を思い出すな……そう思ったんだ」


「……それは……」


「楽しかった。辛いものには違いなかったが、様々な街を訪れて、そこに住まう人と触れ合って。……忘れがたい、いい思い出だよ」


「……私も、そう思います。皆様と歩んだあの旅路は、かけがえのないものであったと、今でもそう自信をもって答えられます」


「そうだろ! ……はは、こういう酒場に立ち寄ったのも数えきれないほどあった。野営の時にはヘレナの拵えた料理も美味かったし、飯に困らなかったのはありがたかったな!」


「主様は料理が不得手であらせられましたから、自然と料理上手なヘレナ様の担当が増えたのでしたね」



 “その分、雑事はこなしていただろう”と柔らかく抗議するオリヴァを見て、シルヴィアは少し目を細めて笑みを浮かべる。


 旅路の終わりに迎えたのは、悲劇には相違ない。しかしその道中も間違いなく、彼らにとって豊かな日々であったのだ。シルヴィアが浮かべる優しげな表情は、その事を物語っている様であり、オリヴァはその顔を見て僅かばかり安心した。


 ……“ヘレナが料理当番の割合を増やしたのは、俺だけではなく、リタやシルヴィアも料理ができなかったからじゃないか”、という言葉はぐっと堪えて。



「あいつらは元気でやっているだろうか。……シルヴィアは、その……何か知らないか?」


「文でのやりとりは行っておりました。ですが誰方どなたも遠方に向かわれて、返事も遅く……私もこうして屋敷を離れてしまいました」


「そうか。元気でいてくれたなら、嬉しいんだが」


「最後にやりとりした時には、皆様元気そうでした。……気になりますか」


「……気には、なってしまう」



 しかし、会いに行く事は、オリヴァにはやや躊躇われた。どうしても邪竜の呪いとその影響の残滓が、彼の頭をよぎってしまうのだ。


 そのオリヴァの表情を見て、何事かを察したシルヴィアは、隣に並ぶ彼の手に自らの手を添える。



「少なくとも、私はここに。……それから、皆様は私などよりも強い方ばかりです。彼女らを傷つけるに能う存在など、もはやいないでしょう」


「……いつかまた、何処かで会えたらとは、思ってしまうんだ。……いや、俺が心配してもしょうがない事、だな」


「その内に、きっと逢えます。……如何ですか、私の胸でも揉むのは」



 シルヴィアは不意に自身の胸を持ち上げて、その魅惑的な質量をオリヴァの目に訴えかける。……あくまで彼女としてはさりげない、青年に仕える者としての振る舞いのつもりであるが、それを向けられた当人は目を見開いて驚いてしまう。



「なんでだ?! そういう話の流れじゃなかっただろ?!」


「落ち込んだ時に、殿方は乳房を求められると……それに、あの方も押しつけておられました」


「どこで学んだんだ、そんな余計な話は! ……あぁ、早く食べて宿を探すぞ!」


「積極的でございます」


「しまった! 違う!!」



 “遅く訪れては泊まる宿に迷惑がかかるだけだ”と、そのつもりで発したオリヴァの言葉は折が悪く、シルヴィアは“お部屋は寝台が一つのものダブルでよろしいでしょうか”と“何か”に前向きな話を広げ始める。


 相変わらず涼やかな表情でありつつも欲望を見せ始めたシルヴィアを見て、オリヴァは困った様に息を吐いた後、皿の上にある海老をぱくり、と頬張った。




 ——そんな和やかな雰囲気を漂わせる男女の姿を、酒場の入り口から小さな影が、隠れる様にひっそりと眺めていた。








「——ひぇえ、おっかねー。……ん、どうしたのおじょーちゃん。誰か探してる?」


「あ……あわわ……」



 ……入口などに潜んでいれば、当然ヴァネッサは見つけてしまう。


 不意に声をかけられたその小柄な可愛らしい影は、慌てた様につんのめりながら、その場を離れていった。

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