第23話 オリヴァの悩み

 エニスの酒場、その看板娘の“ヴァネッサ”は、船乗りや荒くれどもにとって、男社会という砂漠におけるオアシスというべき存在だった。


 色の濃い赤茶の髪を片側で纏め、髪と同じ色のくりくりとした瞳を輝かせて、愛想よく酒場へ男達を迎え入れる。


 コルセット、ブラウス、スカート、エプロンで構成された“ディアンドル”と呼ばれる、この世界における女性の一般的な装いに身を包んでいるが、その下に隠す発達した身体つきは隠しきれそうにない。


 襟刳りの大きく空いたブラウスの上部からは明確な谷間を覗かせているが、それを拝もうとする輩を手にしたトレイでぱこん、と叩いて叱る、そういう快活さを持ち合わせた少女だった。


 ……そんなヴァネッサは、日頃見かけない様な偉丈夫と美女が来店したかと思うと、青年が酒の注文をするなり、“カレーは、ないか……?”と切羽詰まった声で聞いたものだから、彼等に興味を抱いていた。


 “カレーってなに?”と、ヴァネッサがそのまま返すと、青年はがくり、と項垂れ始め、酒場の熱気とは程遠い様な面持ちでちびちびと酒をやり始めた姿を見て、彼女は何か心をくすぐられた。


 なにやら訳ありの男女。年頃のヴァネッサは、もう少し彼らのことを知りたいと、給仕に務めながら二人の様子を窺っていた。


 ……その彼女は今、そうとは未だ知らず、紫色の瞳に見つめられている。




「——せっかくの酒場なんだから、楽しんでかなきゃ損じゃん。ばんばん注文してよねー」



 杯に並々と注がれた葡萄酒をテーブルにおいて、これ幸いとヴァネッサは二人に声をかける。この街で生まれ育ち、そして外の世界を他者の言葉を通してしか知らぬ少女は、常に新しい話に飢えていた。


 そんな少女につつかれたオリヴァは、確かに酒場という誰かにとっての憩いの空間で沈んでいては、店の空気を悪くするなと、そう考えて彼女の言葉を素直に受け取った。



「あ、ああ。……カレー……は、ないんだよな」


「ないってば。まー、なに頼んでも美味しいからさ。贔屓じゃないけど、うちの親父の腕がいいんだ。


「うっ」



 “安心して、なんでも頼んでよ”などとヴァネッサがよくよく実った胸を張ってそう語るのを聞いて、オリヴァがくっと顔を顰める。


 ……これこそ、オリヴァの悩み、その“二”。


 




 ——エニスに辿り着くまでに、オリヴァは料理について考えていた。


 青年も自炊をして二年という歳月を経てはいるが、その内容は男の料理とでもいうべき無骨なものが多く、繊細さとはかけ離れていたのだ。


 しかし老婆が残したレシピは、香辛料の調合から煮込む工程まで幅広く、料理の“感覚センス”を求められるものであると、彼はそう認識している。


 食材や今後手にするであろう香辛料は有限であると、わずかな失敗をも彼は恐れていた。


 ……ではシルヴィアはどうなのか。


 “自称”メイドで、立ち振る舞いは流麗。茶を入れさせても、秘書として頼っても、一流と遜色ない働きをするであろう。


 彼女は“その紫色の瞳で見たものを、知識と合わせる事により高精度で再現する”という規格外の才覚を有していた。


 戦いの場においてはその才覚を遺憾なく発揮して、得意の細剣から魔物が落とした斧まで幅広い武技で敵を退ける。


 単純な“力”こそアルマやオリヴァには劣れども、技量だけで語るのであれば、彼女は一行の中で最も優れていると言っても過言ではない。


 ……しかし、料理はダメだった。


 元々は高位貴族であり、彼女のその舌は様々な味を知っている。しかし令嬢が調理場に入るなどは許される事ではない。貴族が料理に嗜む様では、民の仕事を奪ってしまうからだ。


 騎士団に所属し、戦地に赴いた際には料理の経験はある。しかし、彼らが主に口にするのは、訓練や戦いで失った塩分を補いつつ、身体を作る為にタンパク質や炭水化物を摂取する事を目的としたものが殆どだった。


 結果として、一見静々と完成されたメイドであるシルヴィアは“料理”だけは不得手としていた。


 ……つまり、オリヴァの視点に立てば、先程ヴァネッサが口にした言葉は、彼の痛い所を突くもの以外の何ものでもなかったのだ。




 ——そうとは知らずヴァネッサは、青年が話を聞いてくれている事に上機嫌となり、陽気な調子でそれを続ける。



「あとはやっぱり食材の鮮度が違うからねー。! その点ウチはこの辺りで獲れたものを使ってるんだよ!」


「うっぐっ」



 地元への愛を謳いあげるヴァネッサと裏腹に胸を押さえて苦しむオリヴァ。


 ……オリヴァの悩み、その“三”。


 




 ——オリヴァは市場で殊更に理解させられたことではあるが、老婆の遺したレシピには、明確にこう記されている。


 “香辛料にも風味の限り消費期限がある。美味いカレーを食いたいなら、古いものは使うんじゃないよ”。


 老婆らしい智慧と経験に富んだその文は青年も脳裏に刻み込み、故にこうして住まう森から最も近く、尚且つ入手できる可能性の高いエニスへと足を運んだのだ。


 しかし市場では敢えなく撃沈。いよいよを持って香辛料を手に入れる為にはさらに遠い街に足を運ぶ必要性が出てきた。


 そうなると問題は、それを手にした帰りの旅程。手に入れて終わりではなく、それを使ってカレーを作る事こそオリヴァの本懐だ。


 消費期限の事を考えると、入手したは良いものの、持ち帰る事ができなければ全ては水泡に帰すのだ。


 内地に拠点を構える規模の大きい商会などは専任の“魔法使い”を雇うことで解決を図るが、食物の腐敗を緩和というのは氷ないし“時”に類する魔法である。特に後者は扱える者も多い訳ではなく、その雇用における費用は莫大なものとなる。


 英雄であり、その報奨金を幾許か有しているオリヴァであるが、そういった者雇い入れるつもりは今のところ彼にはなかった。




 ——腕を組んでうんうんと“エニスは海鮮が美味いんだよー”などと語るヴァネッサの隣で、胸を押さえて苦しむオリヴァの姿は異様であるが、しかしヴァネッサはまた調子良く話を続ける。



「あとあと、勇者様が邪竜を倒してくれたって言っても、まだまだ魔物や魔獣、盗賊なんかの危険はあるからね。まー、


「お……おぉ……!」



 “食材を買ってきても、帰り道に襲われちゃったら堪らないよね”、と身体を抱きしめながら少女らしく愛らしい振る舞いをするヴァネッサ。


 他の男が見たならば、その振る舞いに胸を打たれるのであろうが、オリヴァはそれを見る事なくまた項垂れてしまった。


 ……オリヴァの悩み、その“四”。


 カレーには関係ない事であるが……彼はを抱いていた。




 ——トーレントとの戦いで発覚した、オリヴァの異様な力。


 “怪物”と同水準の存在へと変化しつつあったかの樹木の魔物を、一撃で屠るという事は、英雄オリヴァにおいても想定の範疇外であった。


 力は必ずしも発揮されている訳ではない。こうして酒場で杯を手にしても、それが砕けるなどという事はない。


 オリヴァはふとした瞬間に大切なもの……例えば、彼の隣に居る銀髪の乙女を傷つけてしまう。そういった不慮の事故を恐れていた。


 故に彼は自身の身体に宿る秘密を明らかにする必要を感じていたのだが……未だその手がかりすら掴めていないという事が、彼を悩ませていた。


 これらが悩みの二から四。では、悩みのその一は……。




 ——青年が項垂れ始めたのを見て、そこでようやく上機嫌だったヴァネッサもそのおかしな様子を感じ取った。


 なんだなんだと心配する彼女は、しょうがないという様に息を一つ吐く。



「まーたしょぼくれて。……いいよ、ちょっと待ってなー」



 そういって離れた彼女は、数分経って如何にも食欲を誘う料理を皿に乗せ、再びオリヴァ達の下へと戻ってきた。

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