第19話 曇天の旅立ち
シルヴィアがオリヴァの住まいを訪れてから、二日を経た朝。彼らは既に旅立ちを迎え、オルドー村を背にする様に西南西へ向けて森の中を歩いていた。
目的地は海運貿易の拠点となっている港町“エニス”。積荷として運ばれてきた輸入品の一部を売買する市場通りがあることで知られ、そこで香辛料を買い付ける予定だった。
彼らが歩くのは、村を訪れる商人なども魔物を恐れて滅多に使うことの無い道ではあるが、オリヴァの顔には、旅路への決意で明るい色が浮かんでいる。
シルヴィアの心の為になればと決めた旅ではあるが……その実、かつての仲間とこうして旅が出来ることなど、想像する事も許されなかったのだ。
加えてカレーにありつけるかもしれないという話になれば、青年は意欲に満ち満ちていた。
しかし彼は、ちらりと空を見上げると。
「こういう時は、晴れていて欲しかったもんだが……しょうがないか」
“邪竜討伐に旅立った日には晴れていたな”、などと考えて、オリヴァは残念そうに息を吐いた。
天気は生憎の曇天であり、今のところ女神マーテルは彼らの旅路を祝福してくれている様子は見られない。
……本来なら急ぐ旅路ではない為、晴れの日を待つ事も選択肢としてはあり得た。では何故オリヴァは今日という日に旅立ちを選んだのか。それは。
「……やはり今日のところは一旦引き上げて、休まれますか、
そう、彼の隣に並んで歩く銀髪紫眼の元女騎士にして現メイド、シルヴィアにこのたったの二日間で、オリヴァは好き放題に振り回されたからだ。
——“あの夜”から早速、
“主様は私を好きにする権利があります”と迫るシルヴィアに対し、“落ち着いてから考えよう”と彼女のことを気遣うオリヴァ。
形勢的には馬乗りになったシルヴィアが優勢だったが、最終的には旅をする上で“もしも”があればと、表面上は控える事にはなった。
しかしシルヴィアとしては、“自身はオリヴァの傍でこの身を尽くすべき”と、思考の全ては定められている。その為に彼女は隙あらば青年を、当人としてはさりげないつもりで“誘惑”してみせた。
この旅立ちも、“このままではカレーを作る前に、既成事実を作る事になる”と危惧したオリヴァが、想定よりも早くこの森を離れる事を決意したのだ。
——シルヴィアはオリヴァを傷つけた事への罪悪感を抱いてはいても、現在の自身の行いに一切の疑問はない。
故にこの朝も彼女の表情は涼しいもので、淡々と自身の荷物を手に、艶やかな銀色のポニーテールを揺らしながら青年の隣を歩いていた。
「引き上げないぞ。まだ旅立ったばかりで、幸い雨は降る気配もないんだ。晴れを待ってたらいつになるかわからない」
「私としてはもう少し、あのお住まいで主様に尽くしていたかったのですが、残念です」
「あの狭っこい小屋でそんなに時間は潰せないだろ。何するつもりだったんだよ」
「お聞きになられますか」
「聞かないぞ。……しかし本当に、その格好で行くのか?」
シルヴィアの格好は、やはりメイド服だった。
一応と言った形で、
それはシルヴィアによく似合っているとはいえ、しかしオリヴァの常識とはややズレた装いには違いない。
“此方に至る迄もこの格好でしたので、問題ありません”などと、彼女はさらりとした調子で語ってみせたが、流石にオリヴァは心配する気持ちで尋ねざるを得なかった。
「仕えるものとしてはこの装いが相応しいかと。……それに殿方は、好きなのでしょう」
「どこで聞いたんだ、そんな話……」
「騎士団は男所帯でしたので、不意に耳にする事もあります」
“野郎ども、余計な事を言いやがって”と内心思うオリヴァが身に纏うのは、日頃より厚手のシャツとズボン。胴には黒い革鎧を纏い、彼の大きな身体を丸ごと覆い隠せるマント、丈夫な革のブーツなどを身に付けた旅装だ。背中には荷物を収めた
そして腰には、かつての戦いにて命を預けた愛剣を携えていた。
「……やはり、主様にはその剣を提げている姿がよく似合います。“魔剣ヴォルクスガング”を」
「そうだな。こうして歩くのは久しぶりの筈だが、自分でも驚く程しっくりくるよ」
オリヴァの腰には、黒き
かつて数々の魔物や怪物を屠ってきたその魔剣を鞘越しにさすると、“今回も頼むぞ”とオリヴァは呟いた。
それから、オリヴァは歩きながらも、ふと村のある方角の空へ視線を向ける。
この旅を選ぶ理由をくれた敬愛する友人の老婆へ、今一度“行ってくる”と胸の内で祈りを捧げる為だ。
この二日のうちにオリヴァはオルドー村の人々へ暫く家を離れる旨を話し、それから老婆の家を訪れ墓前に花を添えて来ていた。そこで“老婆を彼の想い人だと勘違いをしていた”シルヴィアとまた一悶着があったのだが……そうこうあって、今の彼は気兼ねなく森を歩んでいる。
この旅は始まったばかりだが、オリヴァには早速、喜ばしい事があった。
彼が空に向けていた視線を下ろせば、そこにはもう一人の友人。気高き森の女王にして、白く優美なクーシー。ククルカの姿があった。
旅を空想していた段階では、ククルカを算段に含めていたオリヴァであったが、やはり彼女は魔獣であり、己の都合に付き合わせるわけには行くまいと彼は考え直していた。
そして、ククルカが遊びに来た折に、“暫く離れる事になる”という話をしようとすると、女王はオリヴァを鼻で突っつき回し、“私も旅に着いていく”と言わんばかりの態度を取った。その為、旅の道連れが二人と一頭へと増えたのだ。
その彼女は、今。
「……ククルカ、何かあったのか」
オリヴァから見て不自然な程、時折何かを警戒しているかの様に、辺りへ鼻先をむけていた。
人間であるオリヴァやシルヴィアにはわからないが、犬の魔獣であるクーシーのククルカは彼らの一万倍を優に超える嗅覚を持つ。
その優れた感覚器官を用いて、彼女は探っていたのだ。そう遠くない未来に控えている、脅威の存在を。
森の女王、ククルカは知っている。
オルドー村から離れたこの地点の森、その一帯は、自身と対をなす“森の王たる魔物”の縄張りである事を。
その事に、ククルカに次いで気付いたのはシルヴィアだった。
「……主様、何か……そう遠くないところに、気配があります」
「……そうみたいだな」
そしてほぼ同時にオリヴァが剣を鞘から抜き放ち、自身の正面下段に剣を構えて、森の中の一点へ視線を向ける。
オリヴァもシルヴィアも、魔物討伐に関して世界に十人といない水準の手練れだ。
その二人の経験とククルカの嗅覚が、魔物特有の気配を感じ取り、彼らの耳が、ずるり、という地面を這う様な微かな音を捉え——
「……来るぞ!!」
——次の刹那、彼らに向かって、四方から害意の籠る“鞭”が振るわれた。
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