第17話 零れ落ちるのは

 ぬるく、赤いモノが滴り、地面へと零れ落ちる。


 緑溢れる色彩の中に突如として生まれた赤は、この場が異様な空気に包まれていた事を表しているかのよう。


 ……オリヴァの否定に、絶望に染まるシルヴィアは隠し持っていたナイフを手にした。


 それを自身の喉へと突き立てんと大きく振りかぶった後に、その白き肌へと迷う事なくそのきっさきを向け、そして——



「……あ、ああ」


「……こんなこと、しないでくれ。頼む」



——次の瞬間凶器は、



「あ、ああ、ああああ。また、私はまた、貴方様を」


「気にもしないでくれ。魔物に負わされた傷痕の方が多いんだ。今更一つや二つ、増えたところで変わりはない。……俺のせい、みたいだしな」



 シルヴィアはあがないとして命を差し出すべく、一息に己の喉へとナイフを突き立てようと、その刃を振るった。


 その一瞬、その猶予があれば、歴戦の戦士オリヴァには充分だった。


 彼はナイフの鋒を予測し、その向きが彼女の喉へと向けられている事を確認。


 振るわれる腕から彼女を傷付けずにナイフを落とす事は難しいと判断した彼は、咄嗟にその軌道上に自身の腕を差し込み防いで見せたのだ。


 彼がシルヴィアの様子に違和感を感じ、予め駆け出していた事が功を奏している。


 シルヴィアが錯乱していた事も、彼にとっては幸運だった。彼女が冷静な女騎士のままであったなら、その刃は変幻自在に向きを変えてみせるからだ。


 そして彼は、シルヴィアが再び驚いた様に目を見開いて、ナイフから力が抜けた事を確認すると、筋肉を締め上げてナイフを固定。そして腕を振り上げて彼女から凶器を奪い去った。

 


「そんな、そんな、ああ、血がこんなに」


「すぐに止まるさ。昔から“治り”は早い方なんだ。……覚えてるだろ?」



 “不滅”のオリヴァは、傷如きには怯まない。


 痛みがないというわけではない。


 決して彼はその口から言葉にする事はないが、故郷を追われた時に負ったそれは、暫くの間酷く痛み、昼夜を問わず彼を悩ませた。


 ただ自身が傷つく事よりも、もっと大事な事があると理解しているのだ。


 大柄な戦士であり、“不滅”の二つ名を冠された己が、“痛がり”である事が、どれほど周囲に影響を及ぼすのかを、知っているのだ。


 故に今回も、躊躇ためらう事なく自らの肉体を乙女を守る為の盾とする事が出来た。


 ……“悪かった”と口にしながら、オリヴァは背中の後ろでナイフを抜いて、またシルヴィアの視界の外へとそれを放る。


 出血は増せども、凶器が突き立ったままの腕では、目の前の乙女を怯えさせるだけだろう。そう判断したのだ。


 それから、困った様にはにかむ青年の顔を見上げて、シルヴィアは崩れる様にその場にへたり込んだ。



「……ごめん、なさい。……ごめんなさい。ごめんなさい。ずっと、ずっと、謝りたかった。今日、貴方様の顔を見た瞬間から、いいえ、その前から、謝りたかったのです。……ごめんなさい、ごめんなさい……!」



 紫の瞳を宿す涼やかな両目から、美しい雫が溢れ、流れる。


 シルヴィアは緊張していた。


 あの小屋を訪れた瞬間から。


 彼はきっと、自身を恨んでいる事だろう。


 殺してやりたいとすら思っているかもしれない。


 そうして、近寄る事すら許されぬ拒絶を示されるかもしれない。


 あの日、あの時の事を贖罪……ただ、彼女は、その事をいつの間にか脳裏に描き、その度に絶望していた。


 壊れて、狂って、歪み果ててなお、オリヴァという青年の事を愛していたシルヴィアは、それが無意識の内の恐怖となり、纏う空気に緊張を露わにする事を抑えきれなかった。


 そしていよいよ、彼女という器から涙と共に言葉が滾れ落ちたのだ。


 ……己の足に縋り、見上げ、涙を流しながら謝罪を繰り返す彼女を見て、オリヴァは静かにしゃがみ込む。



「少し、いいか」



 そうして断りを入れてから、涙を流す乙女の頭を、優しく抱く様に自身の胸に預けさせた。


 気取ってその行為を選んだわけではない。


 彼には何故かはわからないが、昔から幼馴染が不安に陥ったり、魔法使いが短気に駆られたとき、その厚みのある胸を貸す事が多かった。


 きっとこの固いばかりの胸にはそういう、気を晴らす効果があるのだろうと、そう思ってオリヴァは今日もまた、涙を流すシルヴィアにどうか泣かないで欲しいと想いを込めて胸に抱いた。


 ……どれほどそうしていたかわからぬほどの時が経ち、少しずつ、シルヴィアの声色が元の静かなものに近づいていく。


 オリヴァを傷つける事は彼女の心の傷トラウマに相違ない。しかしそれを刺激した事よりも、オリヴァの少し不器用な心遣いが、彼女を僅かばかり落ち着かせた。



「話を聞いてくれるか。落ち着いたのなら、で構わない」


「……はい。何でも、聞きます。何でも、仰ってください」


「ありがとう。……まずはやはり、呪いの事を語らなければ、いけないよな」

 


 そうしてオリヴァは、かつて老婆から聞かされた邪竜の呪い、その“愛憎反転”という悍ましき悪意についての詳細を。それから、あの日別れた後の日々について、この村に辿り着いてからの事を、ゆっくりと語る。


 ……余計な不安を抱かせぬ様に、ここに至るまでにあった自身の“凄惨な逃避行”については控えた上で。


 “呪いの影響を受けてしまったんだ、シルヴィアは悪くない。気を利かせてやれず、済まなかった”。そう、心に響いてくれと願いながらオリヴァは語り終えて、胸に抱く視線をシルヴィアへ合わせる。


 彼女はその話を反芻するかの様に幾つかの言葉を呟いた後、顔を上げて赤く腫れた目をオリヴァへと向けた。



「……それでも、貴方様を傷付けてしまった事は、間違いありません。私は、贖罪すべきです」


「それも気にしないでくれよ、って言っても、ダメか」


「はい。どうか私をお傍に置いてください。恋人などとは申しません。どうか、どうか」



 やはり縋る様にその言葉を吐くシルヴィアを見て、頑なだなとオリヴァは悩む。


 ……既に彼女にとっての常識では、彼女の世界では、自身はそうすべきものなのだと歪められてしまっているのだ。


 そうとは察せぬものの、青年はどうしたものかと考える。


 シルヴィアの事を拒みたいわけではない。


 しかし、いかにも精神に負担を抱えている彼女を傍に置いて、挙句の果てに。……それは違うだろうと、健全である事を好しとする彼は思う。


 だがそれを否定してみせたなら、先程と同じようにまた自身を害してしまいかねない。それこそオリヴァにとっては最悪の結末に他ならない。


 人の精神というものについてオリヴァは詳しいわけでもなく、ただどうするべきかと考えて……一つ、答えらしきものを彼は得る。


 シルヴィアには、夢や希望が必要なのだと。


 精神の均衡を持ち直し、再び麗しい銀髪の女騎士へと立ち戻る、何かが必要なのだと。



「シルヴィア……もちろん拒絶するわけではないんだが、他にやりたい事とかはないのか」


「はい。私はただ、貴方様の傍に在りたいのです。どうか、お願いします」



 とりつく島のない返答に、オリヴァはまた思い悩まされる。


 シルヴィアは胸を貸したおかげか落ち着いてはいるものの、突き放すなどは言語道断であるに違いない。


 希望とは何か。己にとっての希望とは何であったかをオリヴァは考える。


 幼馴染の勇者、へそ曲がりな魔法使い、優しい眼差しの聖女、気品に溢れる優美な女騎士、背中を預けた騎士団の戦友達。

 この森に来てからはククルカと、眠りについた老婆。


 それから、それから——



「……なぁシルヴィア。一緒に旅に出ないか?」



 ——やはり、“あれ”しかないだろうと、青年は思い至ったのだ。

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