第16話 シルヴィアの歪み

 月明かりが降り注ぐ森の中、オリヴァの目の前には、彼の事を“主様あるじさま”などと呼ぶ、銀髪紫眼しがんの乙女の姿がある。


 シルヴィアは、彼の方こそ何を言っているのかと言わんばかりにを向けるが、オリヴァの立場から見るのであれば如何にもおかしな話である。


 なぜ己が主様などと呼ばれ、麗しい彼女に身を捧げるなどと言われるのか。


 脳みそをカレーに支配されつつあるが、オリヴァとてまだ若い男である。


 シルヴィアのような女性に迫られたのなら、胸の内が熱くなる事がないわけではない。


 しかし、魅力的な容姿を持ちつつも、憚る事なく接してくる幼馴染アルマの影響もあって、彼は幾分女性というものに慣れてはいる。オリヴァの脳は花より団子……花よりカレーといった具合に仕上がっているのだ。


 その経験が彼を冷静にさせ、“愛の言葉を交わしたわけでもない相手に、身を捧げるなどというのは健全なものではない”と、むしろ警戒心に近い思考を働かせた。

 


「わかった。……どういうつもりかは、わかった。それで、何が望みなんだ?」


「望み、など。私はただ主様の傍に居て、誠心誠意奉仕の事」



 オリヴァの問いかけに対して、シルヴィアは壊れた返答を返し、それから“えい”などと呟きながら青年に身体を押し付け始める。


 その柔らかさに興奮するより先に、青年の脳内を満たしていくのは、かつてと変わらない様に思えた彼女の異常に対する困惑だ。


 それほどまでに、シルヴィアは見た目の上では変わりなく思えたのだ。



「どうですか、この弾力は。手で掴めば程良い感触を返す筈です。肌も、抱けば吸い付く様になっているかと。……今、脱ぎます」


「待て、待て待て待て! 色々な意味で待ってくれ!」


「初めてが野外というのは些かはしたない気が致しますが……殿方はこういう状況に興奮する事もあるのでしょう」


はそういうことか?! そんなつもりはないんだよ!」


「そう恥ずかしがらずに。私も初めてですが……机上の教育は受けています。……あぁの方が好ましいですか」


「何を好むって?! 話を聞いてくれ!」



 襟のボタンを外し始めるシルヴィアを、オリヴァはその細い肩を両手で掴んで引き剥がす。


 オリヴァは彼女の、もはや痴態とも言うべき姿に驚かされるばかりだ。



「シルヴィア! ……俺を、殺しにきたんじゃない、のか?」



 オリヴァは彼女がそのつもりであると捉え、この森へと誘ったのだ。


 その事を尋ねると、途端にシルヴィアは目を見開き、そして徐々に身体を震わせ、呼吸を荒げ始めた。澄んでいたはずの紫の瞳も濁り、オリヴァをその目に映している筈であるが、同時に見えていないかの様だ。


 それまで彼女が晒していた姿とは、また異なる異様な姿に、オリヴァは心配そうに見遣る。



「殺しに、殺し、ころし……あ、ああ、私は、違うのです。貴方様を害するつもりなど、死んでほしくなどなかった筈なのです」


「……シルヴィア、大丈夫か」


「違う、違う、違う……あのような、事を……お願い、です。どうか、どうか私を、傍においてください。そうしなければいけないのです。どうか私に、身を捧げる機会を、慈悲をくださいませ」


「身を捧げるって……何を、言ってるんだよ」



 その様子に不安を覚えるオリヴァではあるが、会話はまだ成り立つと信じて声をかける。そうしなければ、目の前のシルヴィアが崩れてしまいそうに見えたからだ。


 そして、身を捧げるとは。度々彼女が口にしていたその言葉に、オリヴァは違和感を抱く。



「傍にだとか、捧げるだとか……その、なんだ……“恋仲”になりたいって事だろうか」



 性的な言動を発し、さらには身体を寄せられては、オリヴァと言えども情愛を抱いてくれているのではないかと、そういう考えが頭をよぎる。


 しかしシルヴィアは、その“恋仲に”という言葉を耳にして、それを否定する様に首を振った。



「そんな、そんなことは許される筈はないのです。そんな“幸せ”、貴方様から奪ってしまった私には、到底有り得てはならない」


「そんなことないだろう。……もう一度聞く、シルヴィアは、俺に何を求めているんだ?」


「どうか……私をとでも、扱ってください」


「欲望を……? ……ふざけてくれるなよ」



 その言葉が指す意味はそう多くはない。故にオリヴァは怒りを抱いた。


 彼は人一倍仲間想いだった。彼が邪竜討伐に臨んだのは、正義感よるものでも、人類守護という大義の為でも、ましてや功名心に駆られてでもない。


 ただひたすらに幼馴染の事を心配し、そして仲間たちの安寧を願って、彼は恐るべき邪竜の黒焔の前に身を晒してみせたのだ。


 そして守り抜いた筈のシルヴィアが、今度は自身を都合の良い存在として扱えという。そんな事は、他ならぬ彼女の為にオリヴァは許せなかった。


 その為に、彼が告げる言葉は決まっている様なものだ。



「そんな事を俺は。そんな道具なんて、いらないんだよ」



 彼なりの、仲間への想いと真心を込めた言葉。


 ……それが、壊れてしまったシルヴィアにとってのだった。

 


「そん、な……望まれていない。いらない、だなんて」



 それからシルヴィアは、ふらふらと後ずさる様にオリヴァから離れ、その両手を自身の頬に添え、その言葉が受け入れ難いものである事を示すかの様に振る舞う。


 尋常ではないその様子に、オリヴァもさらに狼狽させられる。



「シルヴィア……本当に、どうしたんだ?」


「そんな、そんな、それでは私は、貴方様への贖罪を果たす事が出来ない」


「贖罪って……“あの時”の事か……あれは、邪竜の呪いの影響だ」


「ああ、ああ、私は貴方様に贖罪をしなければいけないのに、なんてこと」


「聞いてくれ、シルヴィア。あれは誰が悪いってわけじゃないんだ」


「望まれていないのなら、いらないと言うのなら、求められていないのなら……せめて、せめて」



 二人の会話は、使う言語こそ同じであれど、既に成り立っていない。


 オリヴァの言葉は、今のシルヴィアにとってまさしく“禁句”だったのだ。




 ——シルヴィアは、当人の意識下では冷静を装ってはいるものの、結局のところオリヴァを愛する乙女だった。


 その感情を取り戻した彼女を待ち受けたのは、戦いに散った騎士達という死者を盾とし、彼らを守り戦った筈の戦士への侮辱と手傷を負わせたという残酷な記憶。


 恋心と残酷。混じることのない二つの狭間で、彼女もまた静かに発狂したのだ。 


 自暴自棄、現実逃避、自己否定。


 乙女達が発狂の果てに各々の在り様を変えてしまう中で、シルヴィアは“認知歪曲”をその精神に宿してしまった。


 シルヴィアは人々の為に生きると決意した騎士である。


 その彼女が、“自身はオリヴァへの償いに全てを捧げるべき”と、それまで認知していた自身の在り方を歪曲させたのだ。


 そうして罪を贖わなければ、。根底にはその想いを、無意識に残したままで。


 これこそが彼女の狂愛の正体。


 静かに行われた性的な言動の発露は、いつかの“幸せな二人の家庭”という夢が漏れ出した結果だった。


 そしてその歪められた在り方が叶うものでないと、他でもないオリヴァに否定されたなら。




 ——ふらふらとした足取りでオリヴァから離れたシルヴィアは、徐にスカートを捲り上げ、太ももに帯皮ベルトで括り付けられていたナイフを鞘から抜き放つ。


 唐突に現れた凶器を前に一層注意深くオリヴァは身構えるものの、シルヴィアは彼への害意など抱く事はない。



「せめて……



 シルヴィアは右の手におさめたナイフを、器用に回転させると、その刃を自分の手首の側……つまり、自身へと向けた。


 何をするつもりかと驚くオリヴァを、シルヴィアは目を柔らかく細め、ただひたすらに慈しむかの様に見つめた。


 それが、今生の別れだと覚悟しているが故に。


 それからゆっくりと、勢いをつける為に右手を身体から遠く離す。


 その矛先は、掻き切りやすい様にと、首を傾いで開いた自身の白い首筋。


 いよいよオリヴァも駆け出す。


 彼女はそれより早く口許に小さく笑みを浮かべ、そして——



「さようなら。愛しています」



 ——夜の闇を裂く様に、その白刃を自身の喉へ向けて奔らせた。

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