第8話 友であるなら

 オリヴァの身体を押さえつけるククルカを前に、彼が想い浮かべたのは、死の忘却への恐怖でも、自身の半生に対しての呪詛でもなかった。


 老婆に早すぎると叱られるだろうか。仲間達はこの先も健やかで居てくれるだろうか。ククルカは……ここで別れたとて、幸せに生きていってくれるだろうか。オリヴァはそう、閉じた瞼の裏にそれぞれの顔を思い描き、静かにその時を待つ。


 そして……オリヴァの頬を、雫が濡らした。


 彼の流したものではない。その暖かさと、いつまで経っても来ない終わりの時に、覚悟した筈のオリヴァが再び目を開く。


 そこでは、ククルカが静かに、涙を流していた。くぅ、と嗚咽にも似た鳴き声を喉から漏らし、涙を流していた。


 言葉は交わせなくとも、他者の心を解し、人類の言葉を理解する。その様な高い知性を有する存在が、“クーシー”という魔獣だった。


 ククルカもまた、この戦いの最中で葛藤していたのだ。

 



 ——ククルカはその夜、オリヴァの悲しみをで察知し、その姿を見守りに彼の住処を訪れた。


 そして、小屋の中で一人泣く彼の姿を見て、ククルカを襲ったのは矛盾する二つの感情と思考。


 目の前の生き物は、警戒し排斥すべきニンゲンの雄だ。


 しかしこの優しい青年は、幸福の日々を自身に齎してくれた、愛すべきともがらである筈だ。


 心、記憶、感情、知識がそれぞれに乖離し、二律背反に懊悩したククルカはオリヴァを試してしまった。


 追ってこなかったなら、もう二度と会わなければ良い。


 追ってきたなら……追ってきたなら、どうすればいいのだろう。そう悩んだ彼女は、オリヴァを傷つける選択肢を選んでしまった。


この森の女王たる自身を、その胸を、こんなにも締めつけ、苦しめるこの青年を、許すべきではない筈なのだ。……そう思ってしまった。


 そして牙をオリヴァへと向ける中、矛盾の生み出す違和感は増していく。オリヴァが類い稀なる戦士である事を加味しても、ククルカは何度も何度も、彼を仕留め損なっていた。


 それもその筈、使


 いかな英雄オリヴァといえども、クーシーの身体能力に魔法を組み合わせられては、五体満足でいるなど到底不可能であっただろう。


 後は彼を殺めるだけという瞬間、その事に気付いてしまったククルカには、もうオリヴァに牙を向ける事など、出来る筈もなかった。

 



 ——そして、ゆっくりとククルカはオリヴァの身体の上から身を避けた。そして、青年の……手にする斧の傍らに体を伏せ、瞼を閉じた。


 その仕草だけで、オリヴァには理解できてしまった。何故なら、自身もそうしようと思ったからだ。


 分かち難い友を手にかけるくらいなら、自身の首を刎ねられる痛みの方が余程。この場においては二者に共通する、悲壮な覚悟だった。


 痛み分けという考え方は、この期に及んでククルカの中には存在しなかった。


 彼女は気高き森の女王。既にここまで友である筈のオリヴァに手傷を負わせてしまった自身を、彼女は許す事が出来なかった。


 それ故に、首を差し出して、他でもない友の手による断罪を求めたのだ。


 それを受けたオリヴァは立ち上がり、手にした斧をぐっと握りしめて、ククルカへと向き直り——



「……馬鹿やろう」



——斧を無造作に放り投げた。


 ククルカの首元とは全くの別方向に消えた斧を見送る事なく、オリヴァは伏せる白き森の女王の側に身を寄せ、その身体を抱きしめた。



「そんなこと、するわけない。……出来るわけ、ない……! 俺たちは、友だろう……!!」



 心から、否、さらに深い場所に眠る魂からの言葉だった。


 お互いがお互いを、かけがえのない友であると定めている。


 そう分かり合えたが為に、オリヴァはククルカを抱き上げて、首元に手を回して、いつもそうするようにと、しかし慈しむ様にその身体を撫でた。


 そうされたククルカは薄い感情表現ではあるが、確かに顔を柔らかく綻ばせ、ぺろりと舌を出して、穏やかに尻尾を振った。


 それから、わふ、と小さく吠えて、青年のごつごつとして、それでいて優しい手のひらを受け入れた。






「——本当に、“愛憎反転”……邪竜ゼジリアの呪いは無くなったんだな」



 自身の傍でころんとお腹を見せて、穏やかな表情を浮かべるククルカの事を優しく撫でつつ、オリヴァはそう呟く。


 ククルカの命を奪わずに済んだのは、二人が二年という月日で思い出を築き上げた結果による、奇跡に過ぎない。


 実際、その思い出がなければククルカですら、オリヴァを殺傷する寸前まで至っていたのだ。



「これからは魔物や魔獣には、気をつけないといけないって事だが……きっと、あいつらにも影響はあるんだよな」



 オリヴァが示すあいつらとは、かつての仲間達、ひいてはオリヴァが英雄であると知る人類の事を指す。


 つまりオリヴァは、もう呪いの影響に怯える必要はなくなったのだ。


 その事を想い夜空を見上げ、遠い所にいる筈の大恩人へ再びの感謝を彼は捧げる。今は亡き老婆の、青年へ向ける友愛が、彼に未来への確かな希望の火を灯していた。


 涙はもう流すまい。そう決めていたオリヴァは、小さく笑うと立ち上がる。



「そろそろ帰ろう。……っと、ぶん投げた斧は持ってかないとな」



 本来薪割りに用いている斧なのだ、すぐに困らないとは言え、なければないで困ってしまう。オリヴァがそう考えて、斧が飛んでいった筈の方向を見て……彼は首を傾げた。



「こんな森の深い場所でがあったのか……それにしても、……んん?」



 その斧が飛んでいった方向の一直線、そこで緑の葉を生い茂らせていた筈の木々が、悉く切り倒されている。切り口は鮮やかで、木こりの仕業とは思い難い程に綺麗だ。オリヴァが見る限り、森のさらに奥深くまでその違和感しかない光景は続いており、そして投げた筈の斧は見当たらない。


 まさか“魔物”の仕業か、と考えて、オリヴァは辺りを見渡すも、独特の纏わりつくような魔力や殺意を彼も感じる事はできず、一層その状況に疑問を浮かべる。


 しかし時分は夜であり、魔物にしろ村人の仕業にしろ、オリヴァが対処するにはやや難儀な時間であった。



「気にはなるが……一度引き上げるか。ククルカ、明日は斧を探すの手伝ってくれるか?」



 引き上げようかと、オリヴァがククルカに声をかけたなら、彼女は小さく吠えて応え、そうして二人は来た道を寄り添いながら歩いていく。


 切り倒された木々の遥か向こうに、青年が放った斧を残したままで。




 ——そして、この日を境に、世界は歪んだ。

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