第7話 潔さとは諦めにも似たり

 次の刹那、オリヴァの目の前には、大きく顎門あぎとを開くククルカの姿があった。


 彼女は数十歩はあろうかという二人の距離を、まるで初めから存在しなかったかのように、爆発的な跳躍力で以って瞬間的に詰めたのだ。


 今となっては無二の親友の凶行に、オリヴァは僅かにたじろぐも、かつて邪竜と向き合う中で築き上げられ、骨身に染み込んだ“戦闘の記憶”が彼の身体を反射的に動かした。


 オリヴァは寸前のところで自身に迫る、白く鋭い牙を身体を大きく逸らし、躱そうとして……肩から血を流した。になったクーシーの牙を、しかも先手を与えた状態で避けられる者などいないのだ。


 むしろ、この一瞬が致命のものにならなかった事こそ、戦士オリヴァの驚くべき戦いへの嗅覚における証左になる。


 ククルカは己が最も信を置く一撃を、血を流しながらとはいえ躱された事に焦る様子もなく、オリヴァの背後へ着地すると、ただじっと睨みつけた。


 対峙するオリヴァは冷や汗を流し驚きながらも、仮にククルカが再度の跳躍に打って出たとて躱し切れるように、動き易い姿勢として彼女に向い軽く脚を開いて構える。



「遊んで欲しいにしては、随分物騒じゃないか。……それに、もう夜中だ。明日ならまた、木の枝を投げてでも遊んでやれるぞ」



 オリヴァは変わらず、友にはそうするものとして努めて平然を装って話しかける。彼はわかっているのだ。ククルカは魔獣とされており言葉を交わす事こそ出来ぬが、のだと。


 二人の間に培った筈の思い出を、オリヴァはただ信じていた。故に、手にした斧は放りこそしないものの、武器として扱う為の構えはとらなかった。


 そのオリヴァを見て、白い毛を逆立て苛立った様子を見せたククルカが、低く唸った後にオリヴァに向かって地を駆けた。


 先程見せた直線的かつ刹那的なそれとは違う、地を舐める様に這い、大きく蛇行する動きで黒髪の青年へ迫る。


 相対するものにとって、なんと厭らしい動きだろうか。


 クーシーの速度を持って行われるそれは、左に白い影が流れたかと注視すれば、次の瞬間右から牙が飛んでくる。そういう相手を惑わす事を目的とした、狩りではなく戦いに用いる為の動きだった。


 再び飛び込んでくる自身へ向けられた牙を、大きく前に転がる事でオリヴァは躱して見せようとするも、牙の後に続いた爪がオリヴァの背中を引き裂いた。


 三条奔った朱い筋から血が滴り、青年のシャツを赤黒く染め上げていく。


 しかしオリヴァは痛みでは怯まない。“不滅”と称された彼がこの世で恐怖を覚えるのは、“邪竜”と“友の存在”についてだけだ。邪竜亡き今、友から向けられる害意、そして友を失う事のみが彼にとってはの恐怖に相違ない。


 鈍い熱さを背中に感じつつも、オリヴァここで不敵に笑い、改めて彼を睨むククルカに向き直る。



「……いいぞ。そっちがその気なら……!」



 本来、魔獣と人とは相容れる存在ではない。


 邪竜の呪い、“愛憎反転”が自身の身体から失せた今、その反動とも言うべき作用が


……もうそこには、殺し合う選択肢しか残されてはいない。オリヴァは覚悟を決めて、再び構えをとった。変わらず、手には斧を携えて。


 ククルカの蹂躙が始まる。右へ左へ、時には辺りの木々すらも足場にするようにして跳ねて、駆けて、そして黒髪の青年へとその牙を、その爪を、喰らわせんとし躍動した。


 オリヴァはそれを、ひたすらに避けた。身を捩って、伏せて、跳ねて、転がって、ただただ避けて……その合間に、目の前の美しいクーシーに言葉を投げた。

 



 ——初めて会った時、その姿に思わず見惚れた事。


 森で狩ったうさぎを、横から攫われて思わず憤った事。


 その内に顔見知りになり、触れ合う様になって、一人森に住むオリヴァにはそれが嬉しかった事。


 共に食べた果実が、瑞々しく美味であった事。


 木の枝で遊ぶ時のククルカの顔が、愛らしかった事。


 その柔らかな白い毛に包まれてする昼寝が、この上ないほどの安らぎを彼に与えた事。


 それら全てが素晴らしい思い出として、オリヴァの孤独を癒してくれた事。


 暴力的な獣の跳躍を前にして、オリヴァは訥々とつとつとそれらの、“思い出”を語って……そして。




 ——いよいよ疲弊と失血による影響がオリヴァを捉え、ほんの一瞬、足元をフラつかせてしまった。その一瞬は、この森において強者である雌のクーシーにとっては充分な隙であった。


 敢えて、咬むでも爪を掛けるでもなく、純粋な速力を以って放たれたククルカの“体当たり”を、オリヴァは避け切る事が出来なかった。


 大柄な青年を宙に浮かす程の威力のそれを受けて、堪らずオリヴァが地面へ背中を打ち付けると、すぐさまククルカは彼の身体の上に身を乗り上げた。


 大きな身体に見合う程には重量のあるクーシーの身体だ。負傷し、疲弊し、なおかつ衝撃を加えられた直後では、さしものオリヴァもすぐさま抜け出す事は難しい。


 詰みである。他の生命を狩りとり喰らう、そういう生き方に慣れたクーシーにとって、これから先行われるのは一方的な殺害行為に他ならない。


 オリヴァはそこで、斧を握る手に力を込めて……ぱた、と地面に力無くその手を預けた。そして——



「……楽しかったか?」



 ——困ったような笑顔を浮かべ、その一言だけをククルカに伝えた。


 最初からオリヴァにククルカを傷つける意図はなかった。彼は最後に友と心ゆく迄語り合う事が出来たなら、それで終わらせてしまっても構わない。そのつもりでこの場に臨んでいた。


 友に己を殺めさせる事はしてはならない。その罪を友に負わせる事だけはあってはならないと、理解しているのがオリヴァという青年ではある。 


 しかし、否応なく殺し合いをしなければならなくなったとしたならば、喜んでこの首などくれてやろう。絶望に身を浸した者のみが有する、諦めにも似た潔さをも、彼は持ち合わせていた。


 それからオリヴァは、いよいよ最後のつもりで、胸の内で呟く。



(……ごめん、ばあさん。折角俺の為に祈ってくれたって言うのに、俺はここまでみたいだ。……でも、でもな)



 己は決して、友を傷つける事だけはしなかった。そう、誇りを胸に抱いて、青年は瞼を伏せた。

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