第6話 老婆の遺したもの

 老婆を看取ったその日、夕日が水平線の向こうに沈んだ時間にオリヴァは一人、老婆から渡され後手帳を眺め、久しく口にしていなかった酒を呷っていた。


 老婆の手帳には彼が求めたカレーのレシピ。それだけではなく、その付け合わせや相性の良いドリンクなども記載されており、それを読む筈の相手……オリヴァが喜んでくれるようにと、真心を込めてしたためられたものだった。



「本当、細かい所まで気を利かせてくれるんだよな」



 既に遠くへ去っていった老婆が、未だオルドー村の外れに住まって、“小僧、来たのかい”などと自身を呼ぶ様を、脳裏に描いてオリヴァは、ふ、と小さく微笑んだ。


 手帳には、それだけが記載されているわけではなかった。




 ——呪術師という特異な生業を、そうであるものと受け入れてくれた最愛の夫との事。


 そして、その夫に先立たれ、後は自身も彼の元に往くだけだと、愛する人と遠い故郷への想いを馳せるだけの、無為な日々を老婆が送っていた事。


 そんな日々の中で、家先に血塗れで倒れるオリヴァを見て、心底驚かされた事。


 オリヴァが邪竜の呪いに侵されていると、すぐさま理解し心配した事。


 呪術師であるというのに、目の前の青年の呪い一つ祓うことが出来ず、申し訳なく思ったという事。


 その中で、気まぐれに助けただけの自分に恩義を感じ、回復してからも会いに来てくれて嬉しかったという事。


 その日々が、まるで“第二の人生“かのように楽しかった事。


 最後に、贈った皮と銀の腕輪には、彼のこの先の人生が幸福である事を祈る……“まじない”を込めてある事。


 オリヴァの未来が晴れやかなものになる事を、ただただ、祈っているという事。


 それらが、老婆の少しくせのある筆致で、手帳の終わり数頁に渡って、記されていた。




 ——老婆の遺した文字を見て、ぱた、とオリヴァの手元を雫が濡らす。

 雫は幾つも溢れて、彼の視界を霞ませる。



「ロロ……ばあさん……!」



 幾つもの戦いを経ても、まだ青さを残していた青年は、老婆の遺していった温もりに、しとどなく手元を濡らし、その大きな身体が小さく見えるほど丸めて、言葉にならない声をあげた。


 それは、仲間に命を狙われた時ですら絶望故に零すことの出来なかった、数年ぶりの涙と嗚咽だった。


 この時ばかりは、邪竜の呪いはオリヴァに優しかった。孤独なお陰で、彼は人目を憚る事なく、涙を零すことが出来たのだ。


 ……そうして、ひとしきり悲しみに暮れた後、オリヴァは慌てるように顔をシャツの袖で拭う。彼は老婆の墓前で誓ったのだ。


 己はもう、泣かないと。


 そう思い直した彼は、手帳を宝物のように、労わるように閉じて、また酒を一口呷った。



「安心、させてやらないとな。……向こうに行った時に、何言われるかわからん……?」



 決意を新たに呟いたオリヴァが、不意の視線に気付く。


 まさかこの森に、自身に視線を向ける存在が居る筈もない。この時間に限らず、オルドー村の人間がオリヴァの小屋を訪ねる事はない。熊などの獣であれば、小屋などといういかにもな人工物を目にしたなら、興味を示しながらもそれを避けるように動く。


 魔獣の類は森の主である彼女が……と考え、オリヴァは思い至る。


 自身が悲しみに身を震わせていたせいか、老婆と等しく自身の友とする、雌のクーシーを呼び寄せてしまったのだろうか。そうオリヴァは考えて、もう大丈夫だという意を込めて、彼の住まいである小屋を出た。


 夜の空気はどこまでも澄んでいて、深呼吸をすれば沈むオリヴァの心を僅かばかりでも癒していく。その空気に身を浸し、友が目の前に現れるのを彼は待つも……白く柔らかな体毛を有する彼女は、彼の前に姿を現さない。


 その違和感に、オリヴァは小さく首を傾げて訝しむ。


 ククルカは魔獣ではあるが、オリヴァに対してはひたすらに愛嬌を振り撒いてくれる、なんとも人懐っこい犬であった筈だ。そう思い、彼が辺りを見回して……そうして、目があった。


 森の木々の中に紛れるように、オリヴァ自身を、まるで初めて見るかのように観察する、気高い姿の森の主と。


 その目は、愛嬌などというものとはかけ離れた、圧倒的な捕食者のみが有する威圧感に満ち満ちていた。


 それこそ、初めて見る友の姿にオリヴァが驚いていると、ふいにククルカは彼に背を向けて、何処かへ去って行こうとする。



「ククルカ? ……待て、待ってくれ!」



 その姿に、友を亡くしたばかりのオリヴァは嫌な予感を再び感じる。そのまま見送ってしまえば、もう二度と会う事は出来ない。そんな予感が彼の身体を突き動かした。


 森には害意はなくとも、獲物とみれば飛びかかる獣はいるからと、小屋の傍に立てかけてあった斧だけを手に、去り行くククルカの背中を負った。

 



 ——クーシーの脚は早い。故に追いかけるオリヴァは必死になって脚を動かして、白い毛の流れが月の光を照らし返す姿を追いかける。


 しかし、本来であれば、クーシーの全速力には、いくら鍛えていようとも人間の脚でついて行くことは叶わない。オリヴァは敏捷性を武器にする戦法というわけではない為、その速力もタカが知れている筈である。


 その姿を見ているうちに、オリヴァはこう思う。



(追って欲しくない様で……追いかけて欲しいような、そんなどっちつかずの態度だな)



 そんな友のかつてない立ち振舞いに、オリヴァは不思議に思っていると、ククルカがちらりと追いかけるオリヴァの姿を見て、それからようやく脚を止めた。


 森の中にある、月の光が差し込む開けた空間に立ち、広がる泉を前にして、ククルカは今日初めてオリヴァと面と向かって相対し……そして、


 まるで魔獣の多くが見せるその気配に、彼女はそうではなかった筈だとオリヴァは驚きつつ、その真意を探る為に慣れた調子で声をかける。



「ここに、連れてきたかった……って、訳じゃなさそうだな。なぁ、何があったんだよ。俺たち……友だち、だろ?」



 敵意はない筈である、何故なら己は邪竜に呪われているのだから。オリヴァがそう、日頃ククルカに接する様に歩み寄り。


 白く気高い森の主は、オリヴァに牙を剥いた。


 ……その姿を見て、黒髪の青年は思い出す。老婆を失った悲しみのあまり、去り際の彼女が自身に何を齎してくれたのかを忘却の彼方にしまい込んでしまっていた。


 秘蔵のレシピに、幾つかの言葉、呪いの籠る腕輪。それに。


 オリヴァはどうしようもなく気付かされた。


 己にはもう、“愛憎反転”の呪いは存在しないと。

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