第5話 別れはいずれ

 オリヴァがカレーとの出逢いを果たしてから二ヶ月を経たこの日、オリヴァは村を訪れていた。


 スパイス不足による禁断症状を乗り越えた彼は、普段と変わらぬ調子の無愛想さで村人とのやりとりを介した後、老婆の様子を見るつもりでいた。


 彼自身、老婆が元気であるという事を疑っているつもりはない。しかし、高齢である事には変わりはなく、そんな女性が一人で暮らしているとあらば、気にするのが若輩者の務めだと彼は思っていた。


 少し会話して、買い込んだ食糧の幾つかと彼が丹精込めて作ったカブを渡して、それから元気であるようにと促して、家を離れる。


 老婆との間にあるいつもの流れを想像していたオリヴァだが、この日は、違った。


 戸を叩いても、反応がない。


 老婆があまり家を留守にするタチではない事を知っていたオリヴァは、その事を訝しんだ。再び、どん、どん、と戸を叩き、併せて呼びかけてみるも、やはり返答はない。



「……扉は、開いているか……邪魔するぞ!」



 その空気の異様さに何か嫌な予感を感じ取り、オリヴァは痺れを切らして老婆の家へと踏み入れることを決める。


 そうして入り込んだ屋内は静かだった。外で鳴く鳥の鳴き声すら聞こえそうな静寂が家を包み込んでおり、オリヴァの不安を掻き立てる。


 玄関先からの廊下、ダイニング、キッチン、少しの本棚が収められた部屋と、探っていっても老婆の姿は見当たらない。それがさらにオリヴァに焦燥感を齎した。


 残すは彼女の寝室のみとなり、いよいよオリヴァは息を呑んだ。



「……悪いが、入らせてもらうよ」



 く、と扉の取手に手をかけて、祈るような気持ちでオリヴァはそれを開く。


 そしてオリヴァの目には——



「ばあさん!!」



 ——ベッドのすぐそばに、胸を押さえて蹲るように崩れ落ちた老婆の姿が映った。


 すぐさま駆け寄ったオリヴァは老婆を少しでも楽な姿勢にさせるべく、向こうの肩に腕を回して自らの身体に体重を預けさせ、そして彼女の左手を取る。


 脈拍が弱く、呼吸も浅く、顔色も悪い。老婆が見るからに弱っている事が窺えた。仲間達に追放されて以降、ついぞなかった焦燥感に駆られつつも、オリヴァは老婆を抱き上げて、努めて優しく寝台へと彼女を横たえる。


 そこでようやく意識を取り戻したのか、老婆がオリヴァへ虚な目を向けた。



「……あぁ、なんだい。……女性の部屋に押し入るとは……マナーってもんが……なってないんじゃないかい、キッシッシ」


「言ってる場合じゃないだろ! あぁ、くそっ! 医者を……!」



 二人がいるオルドー村には医者なる役割の者はいない。医者がいる街まで、たとえオリヴァが必死に駆けたとして、往復で一日はかかる。その間に老婆の容体がどう変化しているかがわからない。


そう考え、ひたすらに焦るオリヴァの脳内に、一つの光明が差し込む。彼の数少ない友人、ククルカの存在だ。


 広い森に住まうククルカを探しに行くのは並々ならぬ至難の業だが、彼女はオリヴァに異変があった時には音もなく傍に来てくれる。そうオリヴァが信じて立ち上がり、駆け出そうとした瞬間に、弱々しく彼のシャツが引かれた。


 老婆が彼の服を、その枯れ木のような手で掴んでいた。



「……あぁ、行かないでおくれ。……自分のことさ、自分がよーく……わかってる」


「何を……言ってるんだよ……! すぐにでも!」


「時が、来たのさ」



 その言葉に、オリヴァは同じ問いを返す事ができなかった。



「ばあさん、どうにかならないか。薬とか、なんでもいいから……!」


「ならないさ。……こればっかりは……呪術だろうが、魔法だろうが……どんな神秘でも、敵うまいよ」


「何か、何かないのかよ……!」


「……そうだ……その、一番上の引き出しを……開けておくれ」



 老婆が指し示した寝台横の引き出しを、オリヴァは何でもいいから解決策があってくれと、縋るような思いを抱きつつ開く。


 そしてそこにあったのは、一冊の手帳、そして皮紐と銀で作られた腕輪だった。それを手に取り、オリヴァは再び老婆の片手を握る。



「なんだよ、これ」


「おまえさん、言っていただろう? ……カレーの作り方を、教えてくれって」


「そんなの! ……ばあさんが作ってくれよ。約束しただろう!!」


「……あぁ、その約束は果たせそうに……ないからね。……腕輪は、その詫びさ」

 

「詫びなんかいらない! 俺は! ……ばあさんに、長生きしてほしいんだよ……!」


「長生きなんて……充分したさ……あぁ、そう、そう」



 そう叫ぶオリヴァが握る、老婆の手が握り返す力は、これまで元気そうに見えた老婆からは想像もできないほど、弱く、儚いものだった。


 その手を、まかり間違えても握り潰してしまわないよう、しかし決して離すことのないよう、オリヴァは確かに自らの手で包む。


 その手の温もりに、ほんの少しだけ目の光を取り戻した老婆は、ゆっくりとオリヴァに顔を向けて、そして彼の胸に片方の手を添えた。



「これだけは、貰っていくよ」



 そして老婆が何事かを呟いた時、自身の身体がふと軽くなった感覚をオリヴァが捉え、それだけで何が起きたのかを察した。


 邪竜の呪いが、老婆へと移ったのだ。



「何してるんだよ……! そんなことしたら、ばあさんが!!」


「どっちにしろ……同じ事さ。アタシの中なら……呪いも……悪さを出来なかろうよ」


「言ってただろ! ……対価が、いるって……」


「あぁ、だからこれは……アタシが連れて行く。心配しなくていいよ」



 心配なんてしていない、ただ老婆が健やかである事だけが望みなんだ。そうオリヴァは嘆くも、彼女は最後の気力を振り絞るように、笑ってみせる。



「大の男が泣くんじゃないよ……安心して、いけやしないじゃないか」


「言ってろ……そうやって、皮肉でもなんでも、ずっと言っててくれよ……!」


「きっしっし……あぁでも……こんないい男に、見送ってもらえるなんて……あの人に、怒られちまいそうだ」



 力無く笑う老婆に、オリヴァの視界が歪む。


 剣を振るい、数多の魔物を退け、邪竜すら討ち果たした彼が、ここで初めて、自分の非力さを呪った。


 呪って、願って、縋るように祈った。



「どうか……幸せになっておくれ……ぼうや……」


「頼む……頼むから、いかないでくれよ……ロロさん!!」



 ロロと呼ばれた彼女は満足そうに笑うと、ゆっくりと眠るように瞼を閉じて、そうしてオリヴァが握る手のひらから、灯火のような力が、抜けていった。




 ——老婆の家のすぐ傍にある、二つ並ぶ墓を前にして、オリヴァはただ黙って祈りを捧げる。


 並ぶ墓の一つは、老婆の愛した男性のもの。


 もう一つは……オリヴァが看取った、彼女のものだ。


 黙祷を捧げ、顔をあげたオリヴァの手には、老婆の遺髪と預けられた手帳、それから、彼女から彼への最期の贈り物となったブレスレットがある。それらを、ぐっと胸に抱いて、彼はぽつりと呟いた。



「……もう、泣かないからさ。安心して眠ってくれよ、ばあさん」



 言葉を零した後、オリヴァは墓に背中を向けて。


 その時、ふとあの不思議な香りがしたような気がして、彼は最後にと老婆が住まい、彼自身も幾許かの時を過ごした彼女の家を見遣る。


 老婆を埋葬してからも、そのままにしてあるその家を見るだけで、オリヴァはまだ彼女がそこにいるのではないかと錯覚して……すぐに首を振って歩き出す。


 彼の呪われてしまった人生の、その細やかな思い出に後ろ髪を惹かれつつも、オリヴァは必死の思いでそれを振り切り、その場を後にした。

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