第4話 ククルカは可愛いわんこ

 雲一つない快晴の中、家の隣に広がる庭に立つオリヴァは、手にした斧を振るい調理などに際し火を起こす為に薪を割っていた。料理の腕前はそこそこの彼は、薪を割る方がよほど得意と見受けられる。


 やや驚かされるのは、手にした斧の大きさだ。薪割りに使う手斧に比べ大きく重たいそれは、武器にも用いるような斧である。オリヴァはそれを振るう事で薪を割っていた。


 そうする事で斧を振る膂力を鍛えつつ、薪のみを砕きその下にある切株は残したままにする繊細さを養う、彼なりの鍛錬の一つだった。


 そんな一心不乱に斧を振るオリヴァの脳内は、あるもので染め上がっている。



(カレー、カレー、カレー、カレー……)



 もはや、オリヴァの脳内はカレー一色だった。このままではなりふり構わずカレーを求めてしまうと危惧した彼は、それまで以上に鍛錬や薪割り、作物の育成に精を出す事で、その妄念を振り払っていた。


 そうして振り上げた斧を、オリヴァは目の前の薪に向かって振り下ろすが、



「カレェェェェェ!!」



……この有り様である。


 そうして、振り払えぬ妄念と共に汗を拭おうと手拭いを手にした彼に、ふと影がかかる。


 晴天である筈が、とオリヴァが頭上を見上げれば、そこにある毛むくじゃらの友人の顔に、オリヴァは顔を綻ばせた。



「“ククルカ”! 遊びに来てくれたのか?」



 わふ、と、ククルカと呼ばれた獣は小さく吠えて応える。




 ——ククルカは、“クーシー”と呼ばれる種類の犬の“魔獣”だ。


 まず目につくのはその大きさ。大柄であるオリヴァがやや見上げる程、成獣の牛を超える大きさを有しており、ただの犬というには無理がある。


 長さのある白い毛並みは、光に照らされる事で淡い緑色の反射光を返す。毛繕いが好きな彼女の身体は、オリヴァがいつ触れても柔らかな手触りを返してくれる。その暖かさと毛並みに包まれながらの昼寝は、彼の多くはない楽しみの一つだった。


 オリヴァが何より綺麗だと感じたのは、毛色によく似合う深い緑色の瞳。魔獣であるが故に魔法も扱う彼女は、この森の女王として君臨する脅威的な存在である。その威風堂々たる様によく似合っている瞳の色だと、オリヴァは常日頃から好んでいた。


 本来、人類を見れば警戒心と敵対心を抱く“魔獣”である筈のククルカが、何故オリヴァの下を訪れているのか。それは、邪竜の遺した“愛憎反転”の呪いによる副作用だった。


 “愛憎反転”は正と負の感情を反転させる呪いである。


 オリヴァに友愛、親愛、敬愛、情愛などの正の感情を人々が抱けば、それが一定の閾値を超えた瞬間、彼に憎悪と悪意を向ける事になる。


 では逆に、本来彼に警戒、敵意、害意などの負の感情を向ける筈の“魔物”や“魔獣”はどうなるのか。それは、ククルカのように、そうする事が当然かのように、オリヴァに対して愛情を向ける事になるのだ。


 邪竜ゼジリアですら思いもよらなかった作用が、人と獣の友誼を結ぶ役に立っていた。

 



 ——ククルカに気付いたオリヴァは、彼女の喉元へ身体を埋めると、腕を精一杯に伸ばして彼女の豊かな白い毛並みを撫で回す。これにはククルカもご満悦なようで、舌をぺろりと出しながら、ひたすらに尻尾を振り回す。


 そしてククルカは、傍に控えていた果実の実ったままの木の枝を、オリヴァへと差し出した。



「採ってきてくれたのか、ありがとうな、ククルカ。……だが、わかってるぞ?」



 オリヴァは少し悪戯そうな笑みを浮かべながら、差し出された木の枝を受けとり、手際よく果実を果実と纏う葉を外す。


 そうして裸になった枝を、慣れた手つきでナイフの刃でなぞる。これからする事を思えば、僅かなささくれや棘をなくしたい。言葉を交わせぬ友人への、思いやりが彼の手を動かした。


 仕上げた“棒”を手に、オリヴァはまたククルカへと向き直る。



「これをとってくるんだぞ? いいな?……そら!!」



 そうして、オリヴァはその棒を森に向かって、空高く放り投げた。


 全力だ。人並外れた膂力を持つオリヴァが、全身の筋肉を躍動させて放つ投擲だ。棒はあっという間に空の青色に混ざったように消える。


 それを見たククルカはきらり、と目を輝かせ、それから音もなく駆け出した。オリヴァの視線には、棒が空に消えるのと同じ速度で、彼女は森の緑に消えていく。



「……ククルカに頼めば、街まであっという間で、何かあってもすぐに帰って来れるな……いや、だめだダメだ」



 カレーに脳みそを侵食されつつあるオリヴァは、すぐさまその邪念を振り払った。


 ククルカとは主従の関係ではなく、友として親愛を向けている。その彼女を利用するなど許される事ではないと、すぐさま彼は省みる。



「ダメだな……カレーが食べた過ぎて、おかしくなってしまったか……ばあさんのとこに行けば、また作ってたりしないだろうか」



 邪念を振り切ったつもりのオリヴァが、再びカレーに思考を巡らせていると、森の遠くで突然に鳥の群れが飛び立った。


 そのざわめきに彼が意識を引き戻すと、やはり音もなく近づいてくる影がある。


 木々の合間を抜け、風のように駆けてきたククルカは、オリヴァの前にとってきた棒を差し出して、さぁ褒めてと言わんばかりに眼差しを向ける。


 その眼差しを受けたオリヴァはまたもや抱きつき、ククルカの大きな身体を余す所なく撫で回す。……オリヴァが顔に見合わぬ動物好きである事を踏まえても、ククルカを相手には、そうする事でしか彼女が満足する程の賞賛を送れないのだ。


 美麗な白い友が尻尾を振り回し満足した事を確かめると、オリヴァは再び棒を手に取り、グッと力を溜める。


 そうして放たれた投擲は、先程を大きく上回る渾身の一投だ。なにしろ、大柄なオリヴァが勢い余って浮き上がる程の力を込められている。


 再び消えた棒を、耳をピンと伸ばしたククルカは追いかけていく。その無邪気な友の姿に、ふ、とオリヴァは頬を緩ませた。



「……俺にはククルカが居て、育てている作物がある。それに、ばあさんだっている事だしな。この平穏な暮らしがあれば、それでいいさ」



 それ以上を望むのは、贅沢だろう。そう言わんばかりの言葉を一つ吐いた後、オリヴァはククルカとの穏やかな一日を過ごした。




 ——その平穏が、時の残酷を前に、容易に崩れ去るものであるという事を、戦場での死に慣れ過ぎたオリヴァにはまだ気付く事ができなかった。

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