第二幕 悪には悪党
第7話 奇病、再び
「ご無事でなによりです」
清漣のような優しい声、春の陽射のような暖かい微笑み。天使のようなお姫様を目の前にしたら、文句を言える人は誰もいないでしょう。
「ご迷惑をかけて、本当に申し訳ありません。本当にありがとうございました」
さっきから謝りと感謝以外の言葉はなにも言えなかった。
隣のウィルフリードは変人を見るような目で私を見つめている。
その目つきの意味は分かっている。
でも、こんな姫様にどうやって切り出すの?
「犯人はあなたの部屋にいるのが分かっています。彼を庇わないで、警備隊に渡してください!」
物事の運びは思ったよりも早かった。
姫様の部屋に入ったらすぐ、いろいろな異常に気づいた。
絨毯にいつくかの汚れが付いている。机の上に、お菓子の屑が落ちたまま。バラの香りが漂う空気の中に、相応しくない汗臭いが混じっている。
一番怪しいのは、ベルを鳴らした途端に、部屋から物騒な音がした。しばらくしてから東方人の青年が扉を開けてく、姫様はひと眠りをしたとお詫びをしたが、ベッドの上に皺がほとんどない。
それに加えて、部屋の片隅に立っている大きいな物入れ……よほど神経の太い人じゃなければ、この状況の意味が分かるはず。
犯人を庇う理由は何であろうと、姫様の部屋を強制的に捜査できない。何か理由を作って彼女を外に連れ出して説得するか、 犯人の形跡をもう少しはっきりさせるか……
ウィルフリードはただ私に視線を送っている。嘘つきの技を披露するつもりはないようだ。
仕方がない、私から一芝居を売りましょう。
「姫様、その……」
「言ったでしょう、サラでいいです」
「でも……」
その美しいお姫様が親切すれば親切するほどに、私は窮屈を感じる。
「お嬢様は旅の途中です。姫様という呼称は不便なところがあります。名前で呼ぶのが難しいであれば、『お嬢様』でもいいです。ですよね、お嬢様」
姫様の意思を確認するように、「ラン」は主人に微笑みをかけた。
「ええ、そうです」
姫様も笑顔で頷いた。
主従関係はかなり良好のようだ。
しかし、公爵家のお姫様は男の下僕一人しか連れていないことはやはり気になるものだ。とはいえ、駆け落ちにも見えないし……
「それではーーお嬢様。その……ブリストン様から頼まれたことがあります」
無礼をしたのはそっちのほうだ。名前を借りられても、文句を言えないでしょう。
「ホールでのことにお詫びをしたいとおっしゃいました。もしよろしいければ……」
!!
話はまだ終わっていないのに、痛みが再び襲いかかってきた。
今度は、全身を凍らせるほどの激しい痛みがお腹に刺さった。
唇を噛み締め、掌に爪を立て、必死に耐えようとした。
「どうなさいましたか?! 顔色が真っ白です!」
姫様は驚きの声をあげた。
「だ、大丈夫です。胃が少し痛いだけで、よくあることです」
楽な口調に装っていても、体の状況がごまかせない。額に冷汗が垂れているのを感じた。
「いけません。とても苦しそうに見えます」
姫様は綺麗な眉の先を寄せて、悲しそうな眼差しを私を見つめる。
だから、こんな姿を人に見られたくない。
けど、どうしようもできない……
物心がついた頃から、「これ」が私と共にいた。
「今すぐ部屋に帰って休んだほうがいいと思います」
入ってからずっと密かに部屋を観察していたウィルフリードはやっと話す気になった。
「実は、扉の前についた時から、モンドお嬢様の具合が優れませんでした。でも、どうしてもお嬢様に礼を言いたいとおっしゃって、僕の忠告に耳を傾けてくれませんでした」
忠告? どこの話?
「そんな……気にしなくいいのに」
お人好しの姫様はその嘘を信じたみたい。
私に何か悪いことでもしたように、申し訳なさそう表情になった。
「もしよろしいければ、
「藍」? あの東方人青年の名前なの。
「大丈夫です、お嬢様」
痛みを我慢しながらソファから立ち上がった。
「薬なら持っています。帰って飲んだらすぐ治ります」
「でも……」
「ご心配をかけて、申し訳ありません」
この痛みは病気でも傷でもない。今までどんな医者も薬もなすすべはなかった。
だから、こうして「奇跡」を探し続けている……
わざと私の意志に反するように、足を踏み出した瞬間、激しい痛みは再度襲ってきた。その激痛に、目の前は真白になった。
倒れてはいけない!
心の中でそう叫んだら、後ろから肩を持ってくれた。
「お嬢様、うちのお嬢様の言った通り、もう少しここで休んだほうがいいと思います。わたしは医術に心得がありますから、お力になれるかもしれません」
優しい声が耳に入った。まるで春の暖かさに溶かれた雪のような、魔力さえも感じられる声。
気のせいか、その声を聴くと、痛みが消えていった。
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながら、吸い込まれたように「藍」の黒い瞳を見つめていた。
不思議な東方人……
「長年の不規則な生活と飲食が招いた胃病でしょう。それに、冷たい海風をあてたのようです。体を暖かくしてよく休んでください」
藍は長細い指を私の腕から取り戻し、そう説明した。
遠い東方に「見脈」という医術を聞いたことがある。藍がやってくれたのはそれらしい。
「ひどい病気ではなくて、よかったです」
姫様はほっとしたよに心配そうな表情を解けた。
「ご心配をかけるばかりで、本当に申し訳ありません」
いろんな意味で、姫様に謝らなければならない。
彼女の優しさは偽りのものではない。
他人の苦しみを我がことのように受け入れ、純粋な心を持つ人だ。
おそらく、あの犯人を庇うのも似たような理由がある。
これから、私はその優しさを踏みにじるでしょう。
「お世話になりました」
姫様にお休みの挨拶をしてから、藍は私たちを廊下まで送った。
別れの際に、もう一度礼を言った。
「お嬢様こそ、ゆっくり休んでください」
藍は顔に淡い微笑みを浮かべたまま、少し私に近づいて、低い声で囁いた。
「その『病気』がある限り、よいお眠りはなかなかできないでしょう。どうかお大事に」
「!」
その言葉に目が見開いた。
まさか、あの「病気」のことを知っているの?!
「もうそろそろ行きましょう。病人さんはお休みの時間です」
後ろからウィルフリードが催促した。
「では、お二人とも、おやすみなさい」
藍の意味ありそうな笑顔は、閉まっていく扉に遮られた。
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