第42話 天命
起きると目の前にはヤコフがいた。
「…奴らが…来たの……?」
「ああ。秘書さんが水蒸気の壁辺りで見張ってたんだが、さっき奴らの装甲車が見えたと連絡があった」
「あぁ……」
まだ体は半分ほど寝ているし、あまり状況も読み込めていない。それでも、ヤコフは私の前に火炎瓶を一本置いた。
「しっかりやれよ。ただ、これだけは約束しろ」
「…なに?」
私は体を起こし、ヤコフを見つめた。
「絶対に死ぬんじゃない。たとえどんなことがあってもだ。死にそうになったらためらわずに全力で逃げろ」
力強くも、どこか切ない声だった。
「ヤコフも、生きて帰れよ」
「当り前だ。誰も死なせない。そもそも、追い返すことが目的だ」
そう言うと、ヤコフは火炎瓶の詰まった箱をもって塹壕の中を早歩きしていった。
……
塹壕の中、ここには私と火炎瓶しかない。座って火炎瓶を見つめ、ため息をつく。
「よう」
上から聞きなれた声がした。
「君は…サーク…?」
「おう。久しぶりだな」
塹壕の外にサークが一人立っている。右手にはナイフ、左手には火炎瓶があった。今日は自信に満ち溢れた恐れ知らずの顔に、少し霧がかかっているようだった。
「あらよっと」
塹壕に入り、私の隣に座った。
「おい…こんなところで何してんだよ」
「え?なんて?」
「お前人の話を…」
そうだった。彼は翻訳機をつけていない。私はヤコフからもらった予備の翻訳機をサークに渡した。
「フフッ…ありがとよ」
子供相手に笑われてしまった。
「…ラックもレックも、そのほかの奴らもみんな怖がってどっか行っちまったよ」
「…君も逃げた方がいい。ここは危険だ」
「何言ってるんだよ。四角いなんかにこの壺ぶつければいいんだろ?簡単なゲームだ。ドッチボールとおんなじだよ」
「……違う。これはゲームなんかじゃない。この世で一番ゲームから離れたものなんだぞ」
「でも、投げるだけなんだろ?」
「そんなわけないだろ……君は…戦争を何も知らないんだろう?」
「知らないよ。加藤さんこそ、知ってるの?」
「……」
「…え?知らないの?」
私にとって戦争なんて、映像の中だけのものだった。
「……知っててたまるか……だから怖いんだろ……?」
「俺はそんなに怖くないぜ」
時を増すごとに膨らむ恐怖。知らないからこそ怖い。
「……とにかく、今すぐここから…」
「あ!」
塹壕に何かが飛んできた。銀色で、筒のような形をしている。
「あ…あれ……なに……?」
「あれは…」
「わあああ!」
筒から大量の白い煙が噴出された。これは明らかに人間の兵器だ。
「と、とりあえず離れるぞ!」
「待って!」
逃げようとしたのもつかの間。目の前にもう一発筒が投げ込まれた。
「ど、どういう…?」
筒から煙が出る。二手を煙にふさがれた。
「はぁ…はぁ…落ち着け…」
その時、遠くでガチャンという音がした。そして…
「また降ってきた!」
筒が再び投げ込まれる。遠くに目をやると、向こうの方でも筒が投げ込まれているようで、塹壕全体が煙に包まれようとしている。
もはや考えている時間はなかった。
「目が…なんか痛い……」
「サーク!ここから出るぞ!」
訳が分からず仁王立ちするサークの手首をつかみ、塹壕の外へと運び出す。塹壕の外にも何発か筒が転がっている。
「サーク!なにぼーっとしてるんだ!あの岩陰まで走れ!」
「なに…?なに…?あの煙は……?」
「知るか!走れ!」
結局、サークを岩陰まで引きずることになった。サークが恐怖に震えるのを横目に、恐る恐る顔を出して周りを見た。
「…はっ…」
塹壕の外には、地底人の体が転がっている。動いていない。
「………」
吐き気がして、口を押えた。なんとか耐えようとしたが、無駄だった。
その時、塹壕の中の地底人の一人がこちらに気づいて塹壕を勢いよく飛び出した。
…これは罠だ。
「伏せろ!」
「え?」
何か小さい針のようなものが彼に命中した。間もなく彼はその場に倒れた。
煙で塹壕の外におびき出して、出てきたところを狙撃。せっかく作った塹壕も、その場に人がいなければただの溝だ。
……完敗だ。
唯一何かできるとしたら、敵が近くを通るまで二人でこの岩陰に隠れて、至近距離で奇襲を仕掛けるだけである。
「うぅっ…」
今更目が痛くなっていることに気づいた。この感じからして、敵が投げ込んだのは催涙弾のようだ。殺傷能力のない、相手を追い出すために使う兵器だ。
二人で目をこすり、顔を見合わせた。
「……」
「……」
特に言うこともない。ここにあるのはサークが持ったままにしていた火炎瓶一本だけだ。
深呼吸をしていると、また塹壕の方から誰かが倒れる音がした。
過呼吸になり、私は耳を手でふさぎ、縮こまって子供のようにすすり泣いた。
「おい……大丈夫か……?」
「……いいや。大丈夫じゃない」
「……俺も同じかもしれないんだ……何だか、こう、よくわかんない気持ちになってる。何もないというか、心がパンクしているというか」
サークはただ足元の地面を見つめている。涙一つ出ていないが、顔は既に無を彷彿とさせる恐ろしい顔になっていた。いわゆる無表情などではない。真の「無」なのである。
「俺……どうなってるんだろう……」
「考えない方が……いいよ……」
涙でにじむ服。このためにと買った運動服は既にボロボロだ。
「知らない方がいい……なにも、考えない方がいい……そっちの方がましだよ……」
戦闘…いや、一方的と呼べる攻撃はものの三十分で終わった。塹壕の中にはもう誰もいない。
辺りから物音がしなくなった後も気は落ち着かなかった。“自分が殺されることはない”、“自分たちは勝つ”と知っていながらも次は自分なんじゃないか、サークじゃないかと恐怖におびえる。
ここ三十分、岩陰で縮こまってすすり泣くだけの私を、誰も助けようとも𠮟ろうともしなかった。
こみ上げてくる悲しみと怒り。矛先は決まっていた。
……お前の…せいで…
自分の胸ぐらをつかんだ。
……脚本に…好奇心に全てをゆだねて……奇跡は起こる、それは必然だ、勝手に最高の解にたどり着くなんて迷信じみたことを信じて……結局それは、自分の中だけのものじゃないか。
自分が地底に来ていなければ……毎日国会で居眠りなんてせずにちゃんと働いていたら……
……お前のせいだ……何もかもっ!
「…っう……」
「…大丈夫?」
サークが小声で言った。
「無理…」
「…そう…か……」
「……」
「…なあ、俺たちってどうなるの……?」
「…もう終わりだよ。もうすぐ敵が装甲車に乗ってこっちに来る。ここにあるのは火炎瓶一本だけ。ロクな抵抗もできずに捕まって、君も私も牢屋行きだ」
……
「……なんでそんなこと言うんだよ」
「奇跡はあっても、完璧はないからさ」
「どういう意味?」
「待っていたのは最悪の解だったってことだよ」
「……まだそんなことないんじゃない?」
「なんで」
「だってさ、ほら、ヤコフおじさんが教えてくれた“童話”ってやつの主人公はいつでもあきらめないぜ?シンデレラ……だったっけな。最初は虐げられて悲しい生活を送っていた少女が、最後にはお姫様になるんだぜ?あきらめなかったらいけるかもよ?」
「……主人公…」
「そう、主人公。物語で一番かっこよくて、大切な役さ」
「……」
「主人公はいつでも諦めないんだ。だから最高の終わり方になる。俺、そういうやつになりたいんだ」
「…主人公になりたいのか……?」
「ああ!主人公になりたい!」
……
私は高ぶる心を抑えた。もしかしたら、感極まって自分の服をびりびりに破いていたかもしれない。
「……はぁ…はぁ…叶うといいな」
「おうよ」
「It's a troublesome hole」
塹壕の方から声がした。私は翻訳機を英語に設定した。
「よーしそうだ。ここに板を置け」
私は岩陰から塹壕のある方を覗いた。
「ったく、面倒なことをしやがる」
アメリカ軍と思わしき部隊が、装甲車が塹壕を通過できるようにと板を置いている。板を置き終えると、早速装甲車の一両がその上をゆっくり渡り始めた。
「ゆっくりだ。ゆっくりやれ。慎重にな」
周りにいる兵士は五人。全員が板を見ている。今しかなかった。私は火炎瓶に火をつけた。
「サーク、ここで待ってろ。私が投げたら…」
「じゃあな」
「え?」
「へへへ…俺、主人公になってくるわ」
…まさか。
「おいバカやめろ!」
「おりゃあああ!」
サークは火炎瓶片手に橋に向かって全速力で走った。見たこともない早さだった。兵士たちも突然の叫び声に混乱している。
「おらああ!これでもくらええ!」
彼の投げた火炎瓶は、あの時と同じく正確で、速球だった。
火炎瓶は見事装甲車の後ろの方に命中し、辺りにガラス片とガソリンが飛び散った。
「畜生ガキが残ってたか」
サークは塹壕に入り、全速力で逃げた。しかし、一秒足りなかった。
「やれ!」
…サークは倒れた。でも、装甲車を一両中破させた。橋も使えなくした。
私の前にはもうナイフ一本しか残っていない。サークが持ってきていた、魚を切るときに使うナイフだ。
「くそっ…消火器を持って来い。こんな火とっとと消せ」
はぁ…はぁ…はぁ…
ナイフで奇襲…ははは……これは流石に死ぬな……
「まだターゲットは捕獲していない。さっきみたいに襲ってくるかもしれん。総員警戒を怠るな」
ターゲット…ヤコフのことだろうか。四人の中で最も戦闘力が高く、この場所を知り尽くした男。捕獲作戦の上で最も障壁になる人間だ。
「さすがは奇跡を必然に変える男だ。そう簡単には捕まらないな」
……?
奇跡を必然に変える男だって……?
「おやおや、こんなところにいたのか」
「はっ…!」
……ありえない。そんなわけない。なんでお前がここに……
「ふーん。君はこう思ってるだろう。“敵はみんな東から攻めてくる”って。でもねぇ、残念ながらそうとは限らないんだよ」
目の前には、バッカード中佐と兵士三人が立っている。
「おとなしくしろ」
「……いやだね」
「…そうか……」
中佐が拳銃を抜こうとするその瞬間。この一瞬。これしかないと思った。
「じゃあ、こうするしかないな」
「うおおお!」
……
「はぁ…全く、国会議員とは思えないな。まるでさっきのガキみたいだ」
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