第29話 FLY

暗闇に包まれた、謎の空間。前にもここに来たような。

「あれは……」

もがき苦しむ一頭の牛。

「おい……」

やがて子牛が産まれる。

「なに……これ……」

子牛が母親を見、そして自分を見る。母牛もこちらを見つめる。

「は……?」

産まれたばかりの子牛は母親にもたれかかり、親子で見つめ合う。

「どうなってんだよ…本当に一体こ

ーーーーーー。






「はっ…」

目を覚ますと、私は飛行機に乗っていた。隣には“ニューヨーク観光”と書かれたガイドブックを持って寝ている秘書さんがいる。私が窓側の席だ。

間違いない。これは私が乗る予定だった飛行機だ。

……ありえない。

「はっ…はは……」

服もちゃんとスーツになっている。スマホを見ると、今の時刻は午後11時20分。最後にカフェで見た時刻が午後11時15分なので…

…私は、脚本の力によってワープしたことになる。

「ううっ」

ワープのせいか、吐き気がする。人生初のワープ…というか、人類初のワープは、お世辞にも最悪の使い心地だった。

席を立ち、洗面所に行って顔を洗った。鏡に私の少し青ざめた顔が映っている。

「はっ…」

……飛行機に秘書さんと一緒に乗った記憶がある。途中道に迷って係員さんに連れて行ってもらって…知らない人から写真を撮られて…最後に苦笑いされた…

…存在しないはずの記憶だ…事実が記憶の中で改変されたのか…?

少なくとも、私がここにいる証拠となりうる記憶がある……

「…ううぅっ」

思わず吐いた。こんなのめちゃくちゃすぎる。そこまでして脚本に従わなければいけないのか?

気持ちが落ち着くまで深呼吸をして待ち、席に戻った。

「ううぅ…加藤さん……」

秘書さんが細目でこっちを見ている。

「もう着きました……?」

…ん?

秘書さんが私がここにいることに違和感を持っていない。その様子もない。普通に話しかけている。秘書さんにも記憶が二つあるはずなのに。

まさか…記憶が上書きされている……?

「加藤さーん…今どこにいるんです……?」

寝起きの柔らかい声で聞いてくる。

「……さあ。わからないよ」

「まだですよね…?」

「うん。まだあと十二時間ぐらい乗るよ」

「ふぁーい」

秘書さんは狭い座席で寝返りを打った。秘書さんのもう一つ奥の席ではボディーガードが携帯型ゲーム機で遊んでいる。物音ひとつしない機内。暗く静かで平穏な空の旅だ。


……これは決まったことではないが…おそらく私がいなくなった時の記憶を持っているのは私だけだ。それ以外の人は、私が飛行機に普通に乗った時の記憶しかないのだろう。

私だけなぜ両方……?

私が主人公だから……?

私がこの矛盾を作り出したから……?

どちらにせよ、もうこういうことはやめよう。世界に矛盾を生むことになる。

私は飛行機の窓にもたれかかって寝た。






…まるで夢の中で夢を見ている気分だ……

ふと起きると、もうそこはアメリカだった。とっくに日付変更線を超え、私たちは出発日の夜に戻っている。夜の、9時ごろだ。あと三十分もすれば到着だ。時差によるものだが、出発した時よりも前の時間に目的地に着くとはなんとも不思議な気分である。太陽と反対方向に進むため、昼間が少なく、気づくころにはもう夜なのだ。

窓から下を見ると、黄色い照明の絨毯がそこら中に広がっている。しかしまだニューヨークの摩天楼は見えない。

秘書さんは起きてスマホゲームをしている。

見つめていると、秘書さんも気づいてゲームを中断した。

「加藤さんっ。もうすぐ着きますよっ」

秘書さんの目が輝いている。よっぽどうれしいのだろう。

「写真撮った?」

私は窓を指さして言った。

「撮りましたとも。昼、夕方、夜。全部撮りました」

そう言うと、私に撮った写真を見せてくれた。

…太陽光で反射する真っ青な太平洋。

…夕日を彩るカリフォルニア。

…そして二十分前に撮った空からの夜景。

どれもこれも強引に身を乗り出してスマホで撮ったものだった。

「……いい写真だね。席、代わろうか?」

「…はいっお願いします」

席を交換し、私が廊下側の席になった。


…うーん…退屈だ…あと二十五分…

どうやって潰そうか迷った後、記憶のことも兼ねて隣のボディーガードと軽い会話をすることにした。


……特に異常はなく、普通な様子だ。ワープしてきたことには気づいていない。

オススメのうなぎ丼屋の話をしていると、秘書さんが突然私の腕をつかんだ。

「加藤さんっニューヨークですよっ摩天楼ですよっ」

子供のようなはしゃぎっぷりである。しかしまあ、ニューヨークの夜景など人生でもあまり見る機会はないだろう。

私は身を乗り出して窓の外を見た。

「…ワオ…」

無数に立ち並ぶ高層ビルと輝く光。まるで映画のワンシーンのようだ。

「綺麗だな…」

つい声が漏れてしまった。

「はいっ綺麗ですっ」

秘書さんの声は感極まって通常の二オクターブ高い声になっていた。

「……あの光一つ一つに人間のドラマがあるんだな…」

映画か何かのワンシーンでこんなことを言っていた気がする。

「…美しいですね…地球って……」

二人の瞳には億千万の光が写っている。

「…まだこの世界も捨てたもんじゃないな……」

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