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 ベッドから起き上がろうとする気力が湧かない。

 別に身体に不調は無い。何だったら数日間ずっと休んだおかげで体調は万全だ。

 和輝が気の抜けた顔で天井ばかり見ているのは、一世一代の大仕事を終えた後の無気力感と、これで本当に良かったのかという疑念が葛藤しているせいだ。

「和輝さーん! お粥が出来ました!」

 そうだ、もう一つ有った。

 ベッド近くのローテーブルに湯気の立ち昇る陶器の入れ物が置かれて、和輝は無理矢理に身体を起こす。

「これはな……」

 白いご飯に沸騰したての透明な液体。和輝は容器の中に入ったそれを添えられたスプーンで一混ぜして、口に運ぶ。

「お粥じゃない。熱湯ご飯だ、森崎」

 和輝にだけ、まだ解決できていない問題が一つ残っている。

 いや、熱湯ご飯の事ではない。

 これは和輝が大学を休む事になったその日に、本棚に入っていたレシピ本と炊飯器の存在を見つけた夏樹によって生み出された料理のような何かだ。

 これに関しては、和輝も調味料が如何に大切かを教えてきれていないのを悪いと思っているし、ついでに言うと和輝は胃も腸も痛めていないのでお粥である必要は無い。作ってくれるのは勿論有難いのだが。

 問題とはそれを作っている張本人の事だ。

「っていうか、お前何でまだ俺の家に居るんだ」

 森崎夏樹。

 元を正せばこの少女が全ての始まりと言っても過言ではない。

 思い出してもみて欲しい。この純真無垢な笑顔でスプーンに掬った熱々の液状飯を頬に押し付けてくる少女は……熱い。一週間と少し前に、自分で撮った呪いのビデオ風の映像でまひろを誘き寄せ、結果和輝も巻き込まれて肝試しという形で出会う事になった。もしかしてだとは思うが、ベタな恋愛物では恒例の「あーん」をして欲しそうな期待の目で見てくるこの少女の行動さえなければ、こうやって家にまで憑いて来られる発端も無かった筈なのだ。あと凄く熱い。それをするならまず口で吹いて冷ましてくれ。

「だって私、和輝さんからあんまり離れられませんし」

 そう言ってスプーンを引っ込めた夏樹は、上に乗っていたものを自分の口の中へ入れた。食べられれば何でも良いのか?

「そりゃそうだけど! 離れられないっつってもこんな至近距離じゃなくても良いだろ!?」

 半径、約五百メートル。

 それが和輝と夏樹を繋ぐ範囲だ。

 これに気付いたのは最初に籠飼のマンションへ行く直前の事だった。元々、大学で別行動をしていたからある程度は離れて行動出来るとは思っていたのだが、試した結果がこの距離である。

「寝泊りだけなら男じゃなくて他の家でだって……」

 そこまで言って和輝は気付いた。

 例えば。夏樹が言う事を聞いて隣の住人の部屋で生活したとしよう。

 バレない可能性は無い。

 そうした時に夏樹は何と言う。

『すみません! 私、幽霊なのですが……ちょっとお邪魔してます!』

 有り得る。若しくは。

『あ、隣の方ですか!? 今日からこちらで寝させて頂きます! 朝になったら戻りますので!』

 これも言うかもしれない。

『あの! 幽霊の森崎夏樹と申します! 和輝さんに追い出されたのでこっちに来ました!』

 駄目だ。これが一番駄目だ。

 隣の住人は問う。『和輝とは?』

 夏樹は答える。『この部屋の隣の人です!』

 そうなったら、いよいよこのアパートにも別れを告げなければならない。

 何が悲しくてこの歳で宿無しを経験しなければならない。しかもアパートを出て行った先でもきっと夏樹は憑いて来るのだろう。

「……いや、やっぱいいや」

 得てもいない先の苦労で頭痛がして、和輝は頭を振った。

 家の呼び鈴が鳴ったのは、その不安を一つも解決できない最中だった。

「……ヤバい、隠れろ森崎!」

「えっ、何でです?」

「知り合いだったら気まずいだろ!」

 一応、周囲には従妹という事で押し通すつもりではあるが、それでも一人暮らしの男部屋に幼い容姿の少女が居たとなれば変な噂も立ちかねない。

 それを警戒して、和輝は夏樹の居住区となった押し入れの襖を開けた。

 最初はお前は一体どこの近未来型ロボットだよ、と呆れていたが、元居た場所があの墓地だったからか、狭くて暗い場所はお気に入りとなった様だ。

 それとも、和輝の部屋の一区分を占拠出来た事が嬉しいのだろうか。

「……和輝さん!」

 四つん這いになって押し入れの中に潜り込む夏樹が、真剣な顔で和輝に振り向いた。

「何だよ、虫でも居たか?」

「何かこれ……」

 玄関に手を掛けて和輝も振り向くと、押し入れの隙間から顔を覗かせる夏樹が見えた。

「浮気現場みたいです!」

「いいから早よ入れ!!」

 自分でも大きな声だと気付いた和輝は、扉の向こうの相手にも聞こえたかもな、と開ける直前になって後悔した。

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