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「先生?」

 電話の向こうで行われた質問と全く同じものが、籠飼の口から出た。

「あ、うん。今日中に資料を届けるように言われたんだけど……」

 通話終了のボタンを押したまひろが、携帯をバッグの中に入れる。

 それと同時だった。

『きゃああぁぁぁああ!?』

 微睡まどろみも緊張も全て吹き飛ばすような、耳をつんざく悲鳴が二人の耳に響いた。

『あぁッ!? ご、ごめんなさい、あの……私、幽霊なもんで!!』

 続けて、訊き馴染んだ声も聞こえる。隣の部屋からだ。

「びっくりした……隣だね」

「……何か遭ったのかしら。私、ちょっと見て来る!」

「え、ちょ、ちょっと神谷さん!」

 籠飼の制止を振り切り、まひろは玄関へと飛び出した。

 隣の部屋から聞こえた夏樹の声。

 きっと壁を通り抜けて真横の住人の部屋まで行ったのだ。

 籠飼には悪いが、もうこの部屋で出来る事は無さそうだし、する意味も無い。

 まひろは勢い良く玄関扉を開けると、その場で左右の確認をした。

 階段側に白いワンピースの影。

 続けて、籠飼の隣の玄関が開かれ、中からスーツ姿の女性が飛び出して来た。

「何か遭ったんですか!」

 まひろが駆け寄り、前屈みで扉の取っ手にもたれかかる女性に訊ねる。

「へ、部屋に……いきなり女の幽霊が……!」

 夏樹だ。良かった。

「私、ちょっと追い掛けてみますね!」

「神谷さん、大丈夫かい!?」

 部屋の奥から、籠飼が慌てた様子で走って来る。

「籠飼君……」

 まひろは、夏樹が去った後の通路と籠飼の顔を交互に見ると、籠飼に顔を向けて申し訳無さそうにして、半端に履いていた靴を履き直した。

「コーヒー……折角出してくれたのに、ごめんね! 今度、ゆっくりお話ししましょう!」

 言い終わる前にまひろの足は駆け出している。

 背中に呆然とした二人の視線を感じながら、まひろは階段を急ぎ足で降りた。

 肝試しの時にも感じていたが、夏樹はあれでいて誰よりも体力が有りそうだ。

(意外と足速いのよね、あの子……!)

 階段を飛ばし飛ばしに降りても、彼女の背中はまだ見えない。

 やがて見えたマンションのエントランス。自動ドアの口が開くのをじれったく感じながら、まひろはマンションの入り口で彼女の姿を探した。

 居ない。小走りに皆の居るレストランの方向へ向かってみる。

 夏樹のワンピースが見えたのは、既にマンションから遠く離れた路地裏の先だった。

「夏樹ちゃん!」

 大きな声で彼女の名を呼ぶ。

 あの部屋で出せなかった分が、ここで一気に出た気がした。

 ようやく立ち止まってくれた夏樹に駆け寄ってみれば、彼女は息一つ乱していない。やっぱり体力もお化けだ、この子は。

「ギっ……!」

 まひろが声を掛ける前に、夏樹の口から何か漏れ出した。

「ギリギリでした……!」

「何か遭ったの?」

 呼吸を整えて、まひろは問う。

 また走ったせいで汗が止まらない。こんなことなら、あの部屋でコーヒーを飲んでおけば良かったと、まひろは少し後悔した。

「いえ、実は……隣の人の所まで逃げたのは良かったんですが……」

 夏樹は、何か言い難そうに視線を下げると、肩も落として続けた。

「逃げた先に、丁度テレビが在りまして……」

 あぁ、とまひろは心の中で頷いた。

 夏樹は籠飼の部屋の壁を貫通して、隣り合った住人の部屋に逃げ込む事にした。

 ただ、逃げ込んだ先の壁際には逃げた夏樹の体勢とマッチする形でテレビが設置されていたのだろう。

 あの部屋の住人から見れば、壁際のテレビの画面からいきなり彼女が現れたように見えてしまった。

 夏樹の見た目も相まって、何かを想起させてしまってもおかしくはない。

「ま……とにかく」

 まひろは片手を握って夏樹へ差し出した。

 それに対して夏樹も自分の片手を握ると、まひろの手に軽くぶつけて笑顔で応える。

「無事で何よりよ。お互いね」

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