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「本当に、どうしたの? 神谷さん、さっきから何かちょっと……」

 幸か不幸か、籠飼の視線は先程からまひろに向かいっぱなしだ。狙い通りではある。

「変だけど……」

 さて、どうやってこの足元の鍵を回収したものか。

「うん、実はね……」

 そう言って、まひろは自分のジーンズのポケットに手を突っ込むと、中から小型の鍵を取り出して籠飼に見せた。

 黒い柄の小さな鍵。アクセサリーも何も付いていない。

「これ、マンションの前で拾ったのを思い出したんだけど。籠飼君のじゃない?」

 籠飼がまひろの手の中を覗き込む。

 そして当然眉根を寄せると、彼は首を小さく横に振った。

「違う、かな……? 何の鍵だろうね」

「そう? 私、てっきりそこの鍵だと思っちゃった。ほら、そこの閉め切ってる部屋」

 まひろは視線を目の前のスライド式の壁に移した。

 籠飼が苦笑している。まひろだってそれくらいは理解していたが、苦し紛れにはこれが精一杯だった。

「あれはただのスライドドアだよ。鍵なんて付いてない」

 籠飼が一瞬洋室側に目を移した隙に、まひろは足下の鍵を床と挟んだまま、真後ろのベッド側へ一歩引き摺る。

 そうして徐にベッドの上に座ると、彼女もまた苦笑した。

「そうだったのね。中、どうなってるの?」

「ダメダメ! そこ、ホントに片付いてないから!」

 本当にそうです。とベッド下で夏樹が頷くと、頭の上でマットが軋む音がして、ベッドが少し揺れた。

 何かが乗っかったのだろう。タオルを捲って何かを確認しようとした夏樹の目の端に、携帯電話を持った手が見えた。

 ただ持って垂れ下がっているだけではない。画面が夏樹側へ向いていて、それが全部見えるように手が携帯の縁だけを掴んでいる。

 小さい手と細い指。まひろだと解ると、夏樹はその手に持った携帯に顔を近付けた。

『夏樹ちゃんへ。ちょっと派手に暴れて来て欲しい』

 メモアプリに綴られた短い文章。

(りょーかい、です!)

 夏樹は人知れず頷くと、タオルケット越しにまひろの足を突いて応える。

 感触に気付いたまひろは足の裏に在る鍵をそっとベッドの内側、タオルケットの中に足で戻してベッドから立ち上がると、洋室に向かって直進した。

「ホント? そう言われると、気になっちゃうわね」

 スライドの取っ手に手を掛ける。この中……別の部屋に籠飼を入れさせる事が出来れば、恐らくあのベッドの下で小さくなっている夏樹も動き易いだろう。

 手先に力を込めたまひろの腕を、籠飼が慌てて掴んだ。

「ホントにダメだって! 大した物も無いしさ!」

 まぁ、そうなるわよね。

 と、まひろは取っ手から指を離す。

 夏樹は、それをベッドの下からタオルを目の幅だけ持ち上げて覗き、タイミングを計っている。

 他の所へ行く気配は無い。籠飼が後ろを向いている今だろうか。

 夏樹はベッドの下側から、抜き足で身体を出してみる。

 急いでしまったせいか、手を離したタオルケットが僅かに床と擦り合う音がした。

「……ん?」

 マズイ、籠飼が振り返る。

「……あ! 籠飼君……」

「え?」

「……蚊!」

 振り向こうとした籠飼の顔の側面を、まひろが優しく平手で叩いて制止させた。

 向こう側へ抜けていく夏樹の背中を見て、まひろはホッと安堵する。

 何とかなってはいる。かなり、その場凌ぎだが。

「……捕まえた?」

 まひろの手を握り返して、籠飼が訊ねた。

 腕ではなく手を取られた事に若干鳥肌が立ったが、まひろは落ち着いて彼から手を離し、自分の手の平を見た。

「んー……逃がしたみたい」

 壁を挟んで洗面所。

 隣の洋室で騒げばすぐに見られてしまう。キッチンはリビング側から覗けるし、トイレで出来る事も少ない。

 何かをしでかすなら、ここだ。

 夏樹は何かないかと洗面所を改めて見回した。

 水を出しただけでは止められて終わり。

 お風呂のボタンを押しても止められて終わり。

 やるなら、なるべくこの場に留められるような面倒臭い悪戯。

 キョロキョロと動く眼が、棚の上に置かれた物に定まった。

 キャップ付きの、液体ボトル洗剤。これだ。

 夏樹はそのボトルのキャップを取って。

(そいっ!)

 思いっきり床に向かって放り投げた。

 ついでに、横に置かれていたボトルの柔軟剤も同じように床にぶちまける。

 とどめに、浴室に入るとシャワーを全開にして、そこかしこを水浸しにしてみた。

 何だか凄く解放感が有るなと、夏樹は満足そうに頷いた。

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