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間近での思わぬ大声に、皆一律に身体が大きく跳ね上がる。
唯一離れていた瞬にしてもそうだ。
失神に至らなかったのは、離れていたおかげで優弥の声が拡散されて圧力が落ちていたからだ。
「行けっつったり待てっつったりどっちだよお前!」
優弥に負けず劣らずの声量で瞬が憤慨し、思わず振り返った。
当然だ。和輝が瞬の立場でも、なけなしの勇気が報われる寸前で腰を折られたなら怒るに違いない。
だが、この時ばかりは優弥を怒る気持ちにはなれなかった。
「瞬……そ、それ……」
和輝は見た。
「瞬君、後ろ!」
いや、見てしまった。
振り返った瞬の真後ろ。
雨風に曝され、土埃で煤けた井戸の中。
それが現れたのは突然の事だった。
暗闇でも見間違う事無く判別出来る、青白くか細い両の手。
およそ生者には有るまじき血の気の引いた二つの手は、長年放置された人工物の中から出て来たとは思えない、奇麗な見目を保ったまま、外を渇望するように漠然と宙へ伸ばされていた。
四人と向き合っていた瞬が、歯車の噛み合わない人形のように背後の気配に向き直っていく。
青白い手は、ゆっくり、非常にゆっくりとだが、誰もが息を呑む中で同じ色の細腕まで井戸の外に伸ばしている。
瞬が完全に向き直るのと、青白い手が下りて腕ごと井戸の縁に引っ掛かったのは、ほぼ同時だった。
「やっ……と、来たぁ」
細い女の声がした。
恐らく井戸の中から発せられた筈なのに、まるで耳元で囁かれたかのようにハッキリと聞こえた。
「ほ……ほんも、の……」
目標を捉えていないビデオカメラを片手に、瞬が臀部からへたり込む。
あの腕は、これからどうするつもりだろうか。
和輝は自問し、そしてすぐに答えを出した。
決まっている。和輝がもしあの井戸の底に居たならば、井戸の外に手を出す理由は一つしかない。
出て、来る。
「逃げるぞ!!」
皆が眼前の事態に硬直している中、優弥の一声が全員の金縛りを解いた。
「まひろっ、行くよ!」
状況が呑み込めていない様子のまひろの腕を、舞が強い力で引っ張る。
「えっ……あれも、誰かの……知り合い?」
何て事だ。彼女はまだこれがドッキリ企画か何かだと思っているのか。
「誰も知らないよ、あんなの!!」
和輝はつい、強い口調で応えてしまった。
だがそんな事を気にしている時間は無い。
反省している暇が有るなら一刻も早くこの場を走り去るべきだ。
優弥に続いて舞とまひろも離脱する。和輝も地面を蹴り、そして気付いた。
一人、付いて来ていない。
「瞬! 何やってんだよ、逃げるぞ!」
真っ先に逃げるべき人間が、一番危険な場所で立ち上がっていない。
正確に言えば、立ち上がろうとはしていたがその度に地面に尻餅をついていた。
持っていたビデオカメラは彼の隣で転がっている。
電源が点いている事を示す小さな赤い光が闇に浮かんで、無機質な不安を煽っていた。
「ハ、ハ……わりぃ。腰、抜けた……」
手と同じくらいの青ざめた顔で、弱々しい声が聞こえる。
井戸から今にも全身を乗り出しそうなアレを前にして、既に和輝達とも距離を開けてしまっている。
自分の命が惜しいなら見捨てなければいけない。
瞬が動けないのは明白だ。助けたければ、誰かが行かなくては。
走り出した優弥、舞、まひろは和輝を挟んで更に反対側。
一番近いのは……。
(……あぁ、畜生ッ……!)
いや、いい。反省も後悔も今はとにかく後回しだ。
和輝は走り出す。皆と真逆の、井戸の方へ。
「バカやろ! ほら、走るぞ!」
瞬の元へ辿り着いた和輝は、すぐさま彼の肩を脇から抱え上げる。
こうなったら、引きずってでも逃げてやる。
目の前の脅威に怒りすら芽生えてしまった和輝は、それを確かに見た。
見事に井戸から這い出てしまった青白い腕。そして人間として考えるのなら当然だが、それに連なって現れる頭部。
黒く長い髪が貼りつくように下の衣服にも垂れ下がり、その長い黒髪で顔が全て隠れてしまっている。
こちらを見ているのか、見えていないのか、それすら判らない。
ただ、その髪の下からは只ならぬ執念を漂わせ、井戸からまさに顔を覗かせていた。
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