第3話

 冬休みに入るまでを部誌に載せる短編の執筆期間として書き続け、彼女新たに書き上げた作品は、やはりどれも青色をしていた。海が青く、空が青く、そして人物が青い。その青の濃淡が、陰影の強弱が、毎度違うのに舌を巻いた。

 私はといえば、元来筆が早い方でもなかったため、部誌に載せるためのものをと書き始めて、彼女の半分の作品数も書けていなかった。一人三作品、という掲載予定の作品数に、ぎりぎり間に合うくらいで、過去に書いていたものを加味しないならば、どれを載せるか悩む余地すらなかった。

「冬休みも学校来ていいって言われたから、また火曜日と木曜日に集まろうと思うの」

 彼女が書いた作品の中でどれを載せるか、原稿の文字の大きさや組み方はどうするか、表紙はどうするか、その辺りのことを決めたいのだと彼女は言った。印刷に関しては、私の家にプリンターあるから、という彼女の言葉に、それでいいのかと思いつつ同意した。

 顧問はなにも私たちの活動に対して言及してこなかった。新入生が来なかったら私たちの代で廃部になると言いに来たあの日以来、教室に顔を出すことすらなかったし、そもそも、それ以前ですらなにも言いには来なかった。先輩の卒部式と称した、卒業式の翌日のささやかな集まりにすら、おめでとうと一言だけ添えてどこかへ行ってしまったのだ。その関心の薄さはありがたく、その不干渉は心地よかった。

「でも今日は、短編ちゃーんと書き終えられたし、学校も終わったし、明日から冬休みなので、かたーいお話はなしです」

 弾んだ声音はいつもに輪をかけて明るいものだった。

 ぱちん、と手を打ち鳴らす仕草と、挙動に合わせて揺れるスカートの裾。日が落ちるのが早くなったため、夕日に赤く染まる空。空の色が溶け込んだように赤みを帯びる教室の景色。

「楽しいお話をしましょう。私たちはお互いのことを知らなすぎるもの」


***


 針葉樹林を抜ける。アスファルトの道路は、見る限りでも諸所に亀裂が走り、その隙間から雑草が生えていた。白線はタイヤの跡が黒く走り、端がぼろぼろになり、薄くなっているところもある。白いガードレールは錆を身にはびこらせながら、くたびれたように立ち尽くしている。人に蹴られればそれだけで折れてしまいそうに見えた。

 信号を待つ。横断歩道を渡る。

「あ」

 景気の良くなさそうな喫茶店の横を通り過ぎた時、換気のためか店員が窓を開けた。そうして聞こえた呟きが、まるで私が通り過ぎたから漏れたもののように聞こえた。

「ハヤシさんじゃん」

 淀みなく苗字を呼ばれて、足が止まる代わりに喫茶店を振り返った。

 見覚えのある顔が、にこにこと愛想のいい笑顔を浮かべてこちらを見ていた。

「って覚えてない? 高三の時クラス一緒だったよね」

 出席番号前後ろだったじゃーん、と言われてようやく、彼女のことを思い出した。原田という苗字の彼女は、確かに出席番号が前後で並んでいた。何度か、消しゴムだの油性ペンだの、そういったものを貸したことを思い出した。

 同じ教室に沙織もいたはずだったが、彼女がどの席に座っていたのか、何をして誰とつるんでいたのか、教室での彼女に関する記憶はさっぱり残っていない。部室としてあてられた教室で放課後に会う彼女ばかりを見ていたような気がする。

「なんでこんなとこいるの? もしかしてあれ? せーちじゅんれーってやつ?」

 先ほどのミニスカートの女より更に馴れ馴れしく、立石に水とばかりに浴びせかけられる言葉の中で、聖地巡礼という単語に、どきりとした。

 しかしそれも、彼女からすれば気に留まるほどのことではなかったのだろう。こちらの動揺をまるで知らぬ顔で、彼女はけらけらと機嫌よさそうに笑っていた。窓枠に肘をつき、立てられた指先がくるくると弧を描いている。

「なんか映画化されるらしいじゃん。それで人来るようになったんだよね。売り上げ増えるし助かってるわけよ。作者神様だね」

 ――神様。

 何気ないその言葉が、脳内で反響した。

 その反響の消えないうちに、彼女は、この喫茶店が実家から継いだものであること、客があまりにも訪れないため経営が傾いていたこと、最近になってまばらにだが客が増え始め、理由を聞いてみると、映画化される彼女の小説は舞台がこの辺りだとされているので、訪れてみたのだという人が大半だったこと、おそらくは彼女が思いつくままの、様々なことを喋り続けていた。

 神様という言葉を飲み込めていない私を置いてけぼりに、女は続ける。

「んね、連絡先交換しよ。今度同窓会でもしよっかーって話しててさ。ハヤシさんの連絡先わかったら、あたしクラスの人ほとんどコンプなんだよね」

「小鳥遊沙織の連絡先、ある?」

 なんとか、それだけを話の隙間に挟み込んだ。それは反射に近かった。

「え、そんな人いたっけ」

 そしてその言葉が、背中に氷柱を差し込まれたように、私の体温を奪っていった。


***


「卒業したらね、東京の大学に行くの」

 彼女の言葉は相も変わらず軽やかに弾んでいた。そこに僅かな寂寥が含まれていたように聞こえたのは、その視線が大人しく机の木目の上を滑っていたからだろうか。それとも、そうであってほしいと私が思ったからだろうか。

 どこに行くのかと吐き出しかけた問いは、聞いたところで意味はないだろうという至極真っ当な考えが過って、喉を通ることなく飲み込まれた。もう進路は決まっていた。実家からそれほど遠くない、身の丈に合った学力の大学に進むのだ。今更それを変更できるはずがない。

「東京でも、書き続けんの」

「その予定」

 木目をなぞる指先。それを追った目が、すい、と持ち上がって私を見た。

「君は?」

 私が頷くことを、わかっているかのような笑みだった。緩やかに弧を描いて閉じる唇の向こう、舌の上に、やっぱりねという言葉が用意されているかのようだった。そして彼女の想像の通りに、私は頷いた。入学することを決めた後、その大学の文芸サークルで担当してる教員が知り合いなんだけど、と顧問に声をかけられた。なぜいきなりそんなことをと訝るのもほどほどに、私は顧問に勧められるままサークルの見学に行き、そしてすぐに加入を決めた。半年に一冊を目安に作品集を刊行する、比較的活動的なサークルだった。

 本当は、三年生になった直後辺りは、そんなつもりは毛頭無かった。文芸部に所属していたのも、ただ担任に部活動加入を勧められたからでしかなかった。大学に進学した後も、わざわざものを書くサークルに加入して書き続けるなどとは、思いもしなかったのだ。

 彼女は予想通りに、やっぱりね、と得意気に言った。

「小説書くの、楽しいものね」

 屈託のない言葉に、今度の首肯は曖昧になった。

 彼女の作品を、青色の雰囲気を、私は私の言葉で綴ろうとしていた。海を、空を、空気を青いと見るあの感性に焦がれていた。書けばそれに近付けると思っていた、だから何度だって書いた。

 私は、彼女と同じ青色を見たかったのだ。

 それを、単に小説を書くことが楽しいのだと、迷いなく頷くことはできなかった。私の半端な首肯を、彼女がどう捉えたのかは定かではない。

「大人になったら、今度はちゃんと、本の形をした短編集を作りましょう」

 私の手をとった時と寸分違わぬ笑顔で、彼女はそう言った。


***


 高校のホームページを開くのははじめてだった。対外的に知らせるための情報を主に載せる役割を持っているのだから、在学中にそれを開く必要性はまったくなかったし、卒業後にまで気に掛けるほど思い入れのある高校ではなかったからだ。

 元バスケ部の細井選手がプロチーム加入、という見出しがついた記事が最新のニュースとして表示され、その日付は一週間前だった。ニキサオリ、深海魚の恋、小鳥遊沙織、映画化、元文芸部。そこにあるのではないかと淡い期待を抱いた言葉のどれもが見当たらなかった。

部活動一覧というページに文芸部の名前はない。

私たちがそこで生きていた記録も、彼女がこの町で息をしていた記録も、そこにはない。


***


 卒業式の後、二人だけでも開こうと言っていた卒部式が、開かれることはなかった。

 場酔いに近い感傷に呑まれたクラスメイトが、みんなであれをしよう、これをしよう、最後なのだから、と散々周囲を巻き込んだのだ。私と彼女は目を合わせる機会すらなく、校門の閉まる時間になるまで無数の卒業生と同化していた。

「ごめんね。もうすぐに行かないといけないから」

 東京に行く彼女は、至極申し訳なさそうに眉を落としていた。だから卒業式の後しか卒部式をやる暇はない、とは、数日も前から言われていたことだった。

 私は学校でほとんどスマートフォンを使わなかったし、彼女はそもそもスマートフォンを持っていないということだったので、連絡先の交換はできなかった。メールアドレスを書いた紙を、制服のブレザーのポケットの中で、くしゃりと握り潰していた。

「お別れの会をしないってことは、あれだね」

 赤く染まる夕暮れの残照で頬を赤く染めながら、彼女は笑った。

「ちゃんとお別れしないから、私たちは離れても繋がってるってことだよ」

 それはある種呪いのような言葉だった。

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