第2話

 乾いた喉に麦茶を流し込み、昨日の夜の余り物を摘まむようにだらだらと口に運ぶ。無意味に点けたテレビで流れる、スマートフォンに表示されるのと同様の、どうでもいいニュースを流し見る。

 インターネットは誰でも情報を流せるから信用ならないとはよくいうものだが、地上波のニュースだって裏でどのような人間が作っているのかはわからない。取材した根拠、専門家の意見、放送倫理、いくつもの言葉を並べたところで、それが真実らしく見えるようになるだけで、その内実の不確かさは変わらないように思える。外国人のインタビューにあてられる日本語字幕が、本来インタビューを受けている外国人の言っていることとまったく別のことを示していても、私はすぐにはそれに気付けない。一生誤解したままかもしれない。

 外国語を翻訳した日本語字幕が意図的な誤訳だらけでも、大々的に報じられる殺人事件がすべて嘘でも、降水確率がまるきり間違っていても、私には大した問題がないのだ。だからニュースにそれほど興味はない。無音が耳に寂しかっただけだ。

 黙々と夕飯の残りを片し、皿を流しに置いて上から水をかける。味噌汁が入っていた器から水が溢れたところで蛇口を捻った。

 キッチンを去ってタンスに向かう。引き出しを開けて、服装に悩んだ。平日に着る、いわゆるオフィスカジュアルと呼ばれるだろう服の組み合わせが一番上に鎮座しているが、仕事を休んだ日にまでそれを着る気にはなれなかった。

 簡単な服。メイクも最低限でいい。

 適当に底の方から引っ張り出したズボンにシャツを着て、日焼け止めの上からフェイスパウダーだけはたく。使い古しの鞄に財布とスマートフォンを入れ、少しだけ悩んでから机の引き出し、三段並んだ一番下を開ける。

 ホッチキスの芯で留められた簡素な冊子。丁寧にファイルの中にしまわれているそれをファイルごと取り出した。「文芸部 短編集」と表紙の上部に素っ気ないタイトルが表記され、右下の隅に小鳥遊沙織と私の名前が連ねて書いてある。本来ならばイラストや写真が載っているはずの中央部分を空白が埋めている。何を表紙に飾るか決められなかったのだ。

 結局二部しか刷られることのなかった部誌。角が折れないよう丁寧に、鞄に滑り込ませる。

 もう一部を、彼女はまだ持っているのだろうか。


***


 小鳥遊沙織の小説は青だった。

暗く深く濃く重く、一部の隙も一度のぬくもりもないような青。それでも青だと認識できるだけの、たったそれだけの僅かな光で照らされた青。深海の青。もしくは、遠く高く明るく澄んだ、白い入道雲と蝉の鳴き声を抱き込んだ青。降り注ぐ光がすべてを一際明るく照らして、それ以外のものには一層濃い影を落とす青。夏空の青。

彼女の作品には必ずといっていいほど青色がつきまとった。

「青色に思い入れでもあるの」

 夏休みはとうに開け、残暑すら消えようとしている九月の終わり。彼女に差し出された彼女作の小説を読み切って、私が一番に聞いたのはそれだった。

 それ以外にも言うべきことは何個もあったはずだった。どの作品が最もよかったか、逆にどの作品はいまいちだったか、部誌に載せるのならどの作品がいいと思うか。それらをすべて飛ばして、作品に透けて見えた青色への執着が気になっていた。

「この町の色だと思うから」

 返事は至極あっさりとしていた。

 彼女の視線は窓の外に向いていた。まだ日は長いため、窓の向こうに見える空は青い。真夏よりいくらか淡い青に、入道雲より陰影の薄い雲が数個浮かんでいる。校庭と校舎の間に植えられた木と、校庭をぐるりと取り囲むネットが、その景色を邪魔していた。

 端的な返事にそれ以上言うことはなく、しかし全面的に理解と納得ができたわけでもなく口を噤んだ私に、しばらくして彼女が顔を向けた。

「ぴんと来ないなら、見に行きましょう。景色を見て学ぶのも文芸部の活動のうちだよ」

 悪戯を企む彼女の表情は、子供のそれによく似ていた。


***


 高校の最寄り駅と、私の住むアパートの最寄り駅は、それほど離れていない。それほど離れていないが、別の鉄道会社の路線で、それぞれの駅に行くならば電車を乗り換える必要がある。職場に向かう時も時折、私が着ていたのと同じ制服を着た学生を見る。見知った制服の姿が車内を見回しても見当たらないことに気が付いて、始業時間を過ぎているせいだと思ったが、そうではないとすぐに理解した。いつもと逆方向の電車に乗っているのだから当たり前だった。

 ゆっくりと動き始めた電車はすぐにその速度を上げていく。空いている席に腰掛けて、再度見回す車内には、私服の人間とスーツを着た人間が大半を占めていた。比率でいえば前者の方が多いだろう。全員が席に座ってもまだ空きがあるほど、電車はすいていた。

 平日の昼前にもなるとこんなものか、と思う。月曜日から金曜日まで、平日と呼べる日は毎日のように朝から仕事に出ていたため、この時間にプライベートな事情で外出するのは随分と久しぶりのことだった。

 平日と呼ばれる日、始業も終業もきっちりと時間を決められた労働環境。

 この日々が続くのなら、きっとこれからも、こんな時間にこんな電車に乗ってこんな光景を見ることは、滅多にないのだろう。


***


 電車に揺られて、景色は早送りに進んでいく。車内に乗っていた学生服を着た人の人数が少なくなっていく。出ていくばかりで一向に人が入ってこないドアが開くたび、外の景色は閑散としてきて、空気に混じる潮の香りは強くなっていった。

 海に行くつもりなのだということは、私が普段高校から帰る時に使うのと逆のホームで電車を待つ間に察した。数分待ってやってきた各駅停車の電車に乗り、それから数駅で、終点を告げるアナウンスが車内に響いた。

「こっちまで来たこと、ない?」

「ない」

 ぐぐ、と慣性が働いて、進行方向に進み続けようとする体が傾く。椅子の端と彼女の体に挟まれて、彼女の匂いが鼻腔を掠めた瞬間に電車は停まった。慣性が消えて姿勢が直り、軽快で機械的な音楽と共にドアが開く。駅名を二度繰り返した後終点と告げる駅員のアナウンスはざらざらとしていた。

 ホームに降り立つと、一層強く潮の匂いがして、先ほど掠めた彼女の匂いを記憶から根こそぎ奪い取っていった。高校に行くために乗る電車に、乗り続けるだけで海に着くというのは不思議な気分だった。

 改札を通り、目の前を横切るアスファルトの道路の向こう、針葉樹がまばらに植えられた防風林の更に向こうに、砂浜と海が見えた。改札を出て一目で海が見えるという構図は、誰かが意図的に設計したものだろうと容易に想像がついた。

 彼女の隣で信号が青に変わるのを待ち、目の前の道路に敷かれた横断歩道を渡りながら、横目で見る周囲は、人気がなく灰色に寂れていた。あるいはそれは、潮風に煽られて錆びる建物の節々が、色褪せているからそう見えたのかもしれなかった。

「私の家、あっちの方にあるの」

 横断歩道を渡りきり、彼女は腕ごと伸ばして彼女からした右側を指しながら言った。指されるままに見た向こうは、やはり寂れたような景色が続いていて、一目で彼女の家がどれかなどわかるはずもなかった。ただ、この視界の中のどこか、もしくは今視界に収めている範囲の向こうに彼女の実家があるのだと、知ったところでなんの役にも立たない情報だけが脳に記憶された。

 防風林を抜け、砂浜には見渡す限り人がいなかった。その有様はやはりこの駅周辺の廃れ具合を実感させた。

「人が来ない分、海は青いからね」

 それが彼女の言い分だった。ごみも捨てられない、人が入らないから日焼け止めも何も溶け込まない海は、観光地よりはよほど透明で、よほど青い海が見られるらしかった。砂浜に流れ着いて放置されたままの、砂を被って朽ちているごみの数でいえば、間違いなく観光地の海よりここの海の方が汚れていた。

 ローファーのまま砂浜を歩く。迷いのない彼女の足取りに、こんなところを歩いたら中に砂が入るという躊躇は捨てざるをえなかった。踏み締める砂浜の感触は、水面が近付くにつれて固くなっていった。

 砂浜は湾曲してどこまでも続いているようだった。

「ほら、海も空も青いでしょう? 高校でも、たまに風に乗って海の匂いがするの」

 空の青さは学校で見た時と変わらなくて、海の青さは時折テレビで流れる観光地のそれよりも濁っていて、潮の香りよりも、潮風のせいでべたつく髪に不快感を覚えた。

 彼女にはこの海が青く見えるらしい。

「そのたびに思うの。ああ、青いなーって」

 きっと彼女の世界では、海も空も学校も、青く見えるのだ。

 音楽に美しさを見出すものの耳には、音楽を美しく聴く機能が備わっているように。食事に美味を感じる人の舌には、食事をおいしく感じる機能が備わっているように。彼女の目には、この町を青く見る機能が備わっているのだろう。それは、感性、と言い換えてもいい。


***


 それを、天性、と言い換えても、何も問題はないのだろう。

 潮風に髪を煽られる不快感を再び味わいながら、砂浜を踏み締める。彼女と降りた駅ではないが、同じ砂浜に降りていた。ここから少し歩けば、思い出と同じ砂浜に着くはずだ。相も変わらず砂浜は人気がなく、砂浜に降りる前に見た建物の並びも、寂れたような錆びたような様子で立ち尽くしていた。

 このまま高校に足を運んでみるのもありかもしれないと思い、砂浜を歩く。このまま進んで、防風林の切れ目から見えた駅から出る電車に乗れば、きっと高校の最寄り駅に着くだろう。それで高校に行って何になるでもないが、せっかく得た休日を海だけ眺めて終わるわけにもいかないし、何よりそれではあまりにも暇だ。

 視界の先、針葉樹林の間から、二人組の女が出てきたのが見える。遠目にも二人が何かを持っているのはわかったが、何を持っているのかはわからない。制服を着ているわけではないが、片方が太腿の中ほどから下を丸ごと晒すようなミニスカートを履いているため、ある程度若い年齢の人物なのだろうと予想はついた。別に若くない人物がミニスカートを履いていても、何も問題はないのだが。

 このまま歩き続けるか、来た道を引き返すか、彼女らと反対に針葉樹林の間を抜けてアスファルトの道路の方に出るか、悩んだ。悩んで足を止めたところに、女二人の視線が突き刺さった。

 数秒の膠着。

 二人の女が互いに顔を合わせ、ちらちらとこちらを窺いながらしきりに言葉を交わし始めるのを見て、止まっている暇があるならさっさとどこかへ行けばよかったと後悔した。

「すみませーん!」

 針葉樹に足を向けようとしたのを見てか、慌てた声音で片方が呼びかけてきた。歩き出そうとした足が、その声を無視できずに止まる。声をかけた方ではないのだろうもう一人が何かしら声をかけた方であろう女に言っているが、女はそれを払うように手を振ると、そのままこちらに体を向けた。今度はこちらに向けて、手を大きく振っている。

「すみませーん! 写真とってもらってもいいですかー!」

 潮騒と針葉樹の葉擦ればかりが鳴る砂浜で、その声は場違いなほどによく聞こえた。こちらに歩いてくる様子はないため、こちらまで来いということなのだろう。大きく振られる手は、呼びかけの後に二本に増えた。

 こんな辺鄙な海岸に、なぜ写真をわざわざ撮りに来たのか。それだけ聞いてみようと思って、針葉樹林に向けていた足を二人組に向け直す。砂浜を踏んで近付いていくごとに、二人の姿がはっきりと見えてきた。

 両手を振っているミニスカートを履いた小柄な女、その隣か少し左後ろに控えているのが中肉中背のジーンズパンツの女。ジーンズパンツの女が両手で持っている本、両手の指に覆われて見えない表紙に嫌な予感がしつつも、もう後戻りはできなかった。

「すみませんこっち来てもらっちゃってー。えへ、人いたんで嬉しくなっちゃって、大きい声出しちゃった。あ、写真これ、この携帯でお願いします」

 恐縮した様子でぺこぺこと頭を下げるジーンズパンツの女と対照的に、ミニスカートの女は躊躇した気配の欠片もない無遠慮さで喋り出した。無造作に差し出されるスマートフォンを反射的に受け取りながら、この女の警戒心の薄さに呆れが芽生えた。見ず知らずの人に、今や個人情報の塊とも称されるスマートフォンを渡して、持ち逃げされるとは考えないのだろうか。

 そんな心配をするようなら、そもそも砂浜で向こうに見つけた人をわざわざ呼んだりはしないのだろう。ミニスカートの女は、どうやら底抜けに楽天家らしい。考えなしともいうだろう。

 渡されたスマートフォンを構え、画面越しに二人組を眺める。ああでもないこうでもないとポーズを試行錯誤する二人が動くたび、海を背にした彼女たちが写真の中心に来るように角度を調整した。やがてポーズが決まったらしく、二人して並んで、結局は安直に片手の指を二本立てて停止したのを見て、口を開いた。

「それじゃ撮ります。はい、チーズ」

 お決まりの文句を口にするまでもなく、彼女らは笑顔で固まっていた。それでも撮影の合図として、その文句は便利だった。ぶれないように、とん、と軽くシャッターのボタンを押せば、画面が一瞬固まって、すぐに写真が保存された旨が表示される。

「確認してもらっても――」

 いいですか、と続くはずだった言葉は途切れた。肉眼で見る二人組、感謝の意を示すようにまた頭を下げていたジーンズパンツの女の手元に焦点が合った。写真を撮るにあたって表紙が見えるように持ったのだろう、彼女が先ほど両手で隠すように持っていた文庫本は、そのタイトルと表紙絵と、そしてその作者の名をはっきりと見せていた。

 ニキサオリ。タイトルは『深海魚の恋』。

 それは今朝がた見たものと同じ、映画化される彼女の作品だった。

「聖地巡礼で来たんです、私らこの先生の大ファンで」

 その言葉だけがやけに鮮明に耳に入って脳に届いた。

もう少し写真とか撮っていくので、というミニスカートの女の言葉に頷いて歩き出す。砂浜を踏み締める感覚も、二人組のはしゃいだ声も、潮騒までもがどこか遠く感じた。代わりに、聖地巡礼という言葉だけが、頭の中で繰り返し響いていた。

 聖地巡礼。

 彼女はこの海が聖地になるような作品を書いたのだ。

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