神様と亡霊
酔生堂
第1話
ニキサオリの小説の映画化が決定した。
だから仕事を休んだ。
瞼の裏に、まだ青色が残っていた。
***
私が文芸部に入部した時、まだあそこには数人の部員がいた。大した実績も残していない、特別な用具も必要としない、活動場所として与えられるのも当然小さな教室一つの、冴えない文系部活。本棚があるわけでも、部誌を刊行するでもない、ほとんど名ばかりの部活動。
先輩たちが卒業していった。同い年の生徒は幽霊部員になって、学年が上がるのと同時に名簿から消えた。チラシを貼ることも集会で呼びかけることも、およそ勧誘と呼べるようなことを何一つとして行ってこなかったせいで、新入生は一人も入部してこなかった。私と彼女が三年生になる頃には、二人以外に部員はいなくなっていた。
新入生の加入がなかったら、君たちの代で廃部だね。珍しく教室に来た顧問の、何の感慨もこもっていない言葉。彼女が返す、愛想笑いのような曖昧な笑顔が瞼の裏に残っている。顧問がそれを言ったのが、おおよその部活であらかた勧誘が終わった時期である六月のことだったので、何をいまさら、と私は思っていた。
「でもまあ、仕方がないかなあ」
そう言う彼女の愛想笑いの裏に、どんな感情が込められていたのか、私は知らない。たたきっと、廃部になることを是としないのであれば、彼女はそれなりの行動を起こしたはずだ。そうしなかったのだから、廃部になること自体はどうでもよかったのだ。
私も文芸部の行く末に興味はなかったため、彼女の意見に便乗するように頷いておいた。自分たちが卒業したら廃部ということは、自分たちが卒業するまでは廃部にならないということで、それはすなわち、卒業するまで私の居場所はなくならないということなのだ。ならばわざわざ異論を唱える必要などない。
私たちが廃部に対しなんの意見もないことを確認すると、顧問は帰っていった。事務連絡を済ませる時のような素っ気なさだった。
私たちが本格的に言葉を交わすようになったのは、その辺りからだったように思う。一人また一人と部員が訪れなくなっていく教室に、活動日ごとに律儀に足を運んでおきながら、私たちは口をきくことがなかった。ただ互いに黙したままで、自分で持ち込んだ本を読むなりノートに何か書き綴るなりして、とりあえず文芸部らしいことに取り組んでいた。教室に着いた時も挨拶代わりの目配せがある程度で、必ず離れた席に座り、入部した時に決まっていた活動時間が終われば、時間をずらして教室を出る。
私たちの繋がりは、共通に理解できる言語をもたぬ異国人の集まりのようでもあったし、言葉の響かない海底に座する深海生物のようでもあった。
私たちが互いに日本語を話す純日本人であり、教室の椅子の上に座る普通の人間であることを再認識させたのは、彼女の方だった。
「この部活がなくなったら」
軽やかなソプラノの声は幼さを残していた。
「私たちがここにいた証は、何が残るのかな」
存在の証拠を問う言葉は、高校の教室によく似合っていた。若く愚かで呆れるほどにありきたりなそれを、私は鼻で笑った。
「大学の願書にでも残るんじゃないの」
逆をいえば、そのくらいのものにしか残らない。そしてそれも、提出した数年後にはシュレッダーにかけられて紙屑になるのだろう。後に残る記憶すら、早々に色褪せるに違いない。
ちっぽけな文芸部の末路などそんなものだ。
「それってちょっと寂しいね」
ね、と同意を求めるような口調の割に、彼女の言葉が断定しているように聞こえたのは、気のせいではなかったのだろう。その顔が気になって彼女の方を向いた時、彼女はこちらの喉まで出かかっていた反論などまるで考えた様子もなく、笑っていた。
自身が感じている感傷を、目の前の相手も抱いていて当然だと信じているように。
「作りましょう。私たちがここで生きてた証」
彼女は――沙織は、そうして私の手をとった。
***
まどろみの延長線のような十数分。何も考えずにただベッドの上に転がって、スマートフォンに表示される無数のどうでもいい情報を流し読みする。羅列された文字を次から次へなぞりながら、頭は高校時代を思い出していた。
ニキサオリは彼女のペンネームだった。本人からそうであると明言されたことはないし、確認をとるための連絡先は交換していなかったけれど、彼女の出した短編集に掲載されている話の幾つかは、あの時読んだものとほとんど一致していた。さおり、という名前も同じなのだから、きっとニキサオリは彼女なのだ。
二つの存在に脳内で等号を引いた上で、私はニキサオリの書籍を読まずにいた。読んだのは偶然手に取った最初の短編集だけだ。そうして避けていながら、否、避けていたからこそ、彼女の小説の映画化が決まったという旨は、寝起きの頭にでも鮮明に飛び込んできた。そしてすぐに、体調がすぐれないため、欠席させてください、と嘘を吐いた。
本当は体調なんてどこも悪くはなかった。
***
「私の苗字、これでたかなしって読むの」
小鳥遊、と黒板にチョークで書いてから、彼女はそう言った。
「タカがいないから小鳥が遊べる、って意味で、この文字になったらしいけど」
わかりにくいよねえ、と苦笑したように言いながら、書き終えた自身の苗字を黒板消しで消していく。チョークの粉が、黒というよりは緑に近い板の上を音もなく滑り落ちる。
毎週火曜日と木曜日の放課後、午後六時まで。文芸部の活動日と活動時間はそれだけだった。顧問が来たのが火曜日、その後はすぐ六時になって、お互いばらばらに帰り、次の木曜日にまた顔を合わせた。
そして彼女の自己紹介が始まった。
一緒にものを作るのだから、互いの名前くらい覚えておかなきゃいけないでしょう、というのが彼女の言い分だった。それは真っ当な意見であり、実際彼女に名乗られるまで私は彼女の名前をはっきりとは憶えていなかったが、そもそも私は彼女と一緒に何かをするつもりは一切なかったのだ。廃部になるのならなればいいし、後に何も残らなくたって構わないと思っていたのだから当然だ。
「それでね麻衣ちゃん。何を作るかって話なんだけど」
「え、いや待って」
こちらに自己紹介の番が回って来たタイミングで断ろうという算段があっさりと崩されて、動揺がそのまま口を衝いて出た。自己紹介は一方だけのものでよかったのか、なぜ既に何かを作ることが確定しているのか、そしてなぜ彼女は私の名前を知っているのか、無数の疑問が一気に生まれ、どれから吐き出せばいいかわからなくなる。
待ってと言われた彼女はきょとんとした顔で大人しく数秒停止していた。しかしその短い間に私が質問の順位をつけられず、再び口を開く。
「私は部誌がいいと思うの。麻衣ちゃんも何か書いてるでしょう?」
確かに私は小説を書いていた。だが、それを彼女に話したことはなかった。なぜ知っているのか、と新たに生まれた疑問は、しかし、すぐに妥当な回答に思い至る。
彼女が小説を書いていることを知っているのは、何かの拍子にそれを覗き見たからだ。彼女が書き留めるノートの中身を、彼女が書いている最中にその傍らから、もしくは、彼女が席を外した折に、こっそりと。彼女も同様の手口で知ったのだろう。
「二人でいくつかの短編をまとめれば、それっぽくなると思うの。この前書いてた不思議な髪の色で生まれてきた女の子の話とか、すっごくよかったよ」
「勝手に読まないでよ」
勝手に話を進めるなだとか、部誌作りに協力するなんて一言も言ってないだとか、次から次へと湧き出す言葉の数々を押しのけて、ようやく出てきた一言がそれだった。嬉々として語る彼女の様子に気圧されて、自己紹介がどうこうという辺りの疑問はどうでもよくなりつつあったが、勝手にノートの中身を読まれているのはどうしても言及せざるをえなかった。ブーメランのように自分に返ってくる言葉ではあったが、一応、中身がわかるほどまじまじと覗いたことは私にはなかったのだ。遠慮して読まないでおいたのか、読んでいるのを見られることを忌避したのかは定かでないけれど。
とにかく私は、ただ書き連ねているそれらを、誰かに見せようと思ったことはなかったのだ。見せようと思える相手はいなかったし、そう思うだけのものを書いたこともなかった。
「部誌作るならお前だけでもいいでしょ。私のは人に読ませるほど大層なものじゃない」
それは紛れもなく本音だった。だがそれを、緩く首を振って彼女は拒否した。
「それじゃ私の短編集になっちゃうもの。それに、部誌っていても、私と麻衣ちゃんの分だけしか作る気はないんだよね」
君がもっとたくさん作りたいならそうするけど、と前置きして。
「人に読んでもらいたくて書いてるわけじゃないから」
あっけらかんと言う彼女の言葉に、うっかり共感してしまえば、なんとなく、それ以上反論する気も失せてしまった。
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