第20話
「やっぱりそうか」
唯が思わず口にした言葉に少し苦いニュアンスが混じった。
「ごめん」芽衣が言った。
芽衣も唯の苦々しい気持ちを感じ取ったようだった。好きでもない悠人の告白に応えて、唯から彼を奪った・・・・・・と言えば言いすぎになる。悠人は別に唯のものでもなんでもないのだから。
唯が芽衣の行動を苦々しく思ったのは、唯の大切な幼なじみを芽衣が傷心からの逃避の手段として利用したからだ。
美咲と友だちになったあとに芽衣と知り合い親交を重ねたときは、芽衣は美咲と違って他人の気持ちに寄り添える子だなと思った。クラスメートの間でも、彼女は屈託なく人当たりのいい明るい少女として認識されていた。
見かけのかわいらしさとは裏腹に自分本位な言動が目立つ美咲と違って、性格もよい芽衣は男子からだけでなく男女双方から人気があった。
でも本当の素顔は違っていたのだろうか。
美咲と唯が悠人のことを好きだと知りながら、悠人の気持ちに応えたことのみをもって、芽衣が自分勝手なひどい女だとは思わない。芽衣が悠人のことを好きなのならば。だけど芽衣が悠人のことが好きでもなんでもなかったと知って彼女の行動を振り返ると、これまでの彼女の評価は百八十度変わってくる。
「別にあんたが謝ることじゃないけど」それでも唯はそう言葉を絞り出した。
「なんでわたしが悠人先輩じゃなくて大輝君が好きだってわかったの?」唯の言葉を聞いてようやく芽衣が唯と目を合わせた。
「学園祭で悠人があんたの手を触っているのを秋田さんに見られたとき、あんたものすごい勢いで悠人の手を振り払ったじゃない。あのときわかった。秋田さんは芽衣と悠人の仲を知っているのに、それでも芽衣は秋田さんにああいうところを見られたくないんだなって」
「そうだね」芽衣は反論せず認めた。「あのときはパニックになって無意識に先輩の手を振り払ったの。先輩には悪いことしちゃった」
「あんなことされたら悠人が怒るのも無理ないよ。まあ、結果的には美咲と秋田さんが付き合い出しから、悠人の怒りも静まったけど」
「美咲に感謝すべきなんでしょうね」
それは芽衣には無理だろうなと唯は思った。大好きな秋田を奪っていた美咲に感謝することは。
芽衣が唯や周囲の友人たちが思い込んでいたような女の子ではなかったとわかっても、そのことへのショックや芽衣本人に対する嫌悪感は生じなかった。
結局、唯たちが勝手に芽衣をまるで聖女のようだと祭あげていただけで、芽衣自身がそう思われるように振る舞っていたわけではない。落ち着いて考えれば、周囲が抱く自身のイメージに関しては芽衣自身に非はないのだ。
もちろん、悠人への仕打ちに対しては腹は立つ。立つけれども、美咲だって芽衣から秋田を離そうとして、好きでもない彼と付き合い出したのかもしれない。そうであれば芽衣と美咲はどっちもどっちだ。美咲に芽衣の行動を責める資格はない。
では唯自身は?
唯にはこれから芽衣に話す行動をとる資格はあるのではないか。なによりそれは唯のためだけではなく芽衣のためでもある。
唯は心を決めた。これは芽衣の不誠実な行動を責めるより何倍も前向きな行動に違いない。
「美咲って本当に秋田さんのこと好きなのかな」 唯はさりげなく話を始めた。
「どういうこと?」
芽衣は、自分の不誠実な態度について追求されることなく、美咲と秋田さんの関係に話題が移ったので、唯に許されたと思ったのだろう。声が少し明るくなっていた。
「なんか考えがあるんだよ美咲には。普通に秋田さんを好きになって付き合い出したんじゃないと思うよ」
唯は実際にそれを確信していたので、説得力のある話し方ができた。芽衣も一笑に付すわけでもなく、真剣に唯の話に聞き入っていた。
「でもなんのために好きでもない大輝君と付き合ったりするの? 好きなふりまでして」
それは当然の疑問だった。さあどうしよう。唯は迷った。
唯が悠人に片思いしていることを世間話程度の気軽さで芽衣にペラペラしゃべった美咲に対し、彼女が義理立てする必要はない。そうは思うのだけど、やはり唯にとっては人と交わした約束というのは重かった。たとえ相手が身勝手でおしゃべりな美咲だったとしても、約束を破ることには抵抗があったのだ。
美咲はレズビアンであんたのことが好きなのよ。美咲が秋田さんと付き合ったのは、秋田さんに対するあんたの気持ちに気がついて、あんたを秋田さんから離して近づけないようにするためなの。そして彼女はあんたが悠人のことを本当は好きでもないことにも気がついているよ。
美咲にそう話すことができれば、美咲の行動の意図ははっきりと芽衣に伝わると思うがそうは言えなかった。
「芽衣はどう思う? 美咲って本当に秋田さんが好きなんだと思う?」答えに窮した唯は質問に質問で応えた。
「ううん。本当はそうじゃないと思ってる。なんのために好きでもない大輝君と付き合ったりするのって聞いたでしょ? あれ、本当はわかってて聞いたんだ。答えはね、わたしへの復讐というか嫌がらせ? みたいなことかなって思っていた」
唯は意表を突かれた。どういうことだろう。復讐とか嫌がらせとか意味がわからない。
「復讐って・・・・・・あんたと美咲って仲いいじゃん」
「美咲は本当はわたしのこと恨んでいたと思う」
「なんで?」
「悠人先輩を奪われたって感じてたんじゃないかな、美咲も」
それは違う。
あのとき美咲が失ったのは悠人ではなく芽衣なのだ。でもそれは口にできない。それに美咲「も」とか言うな。とりあえず唯自身のことは今はいいのだ。
「でもあんたが悠人と付き合い出してからも美咲と芽衣って仲良かったじゃない。つうか、悠人と付き合い出す前よりも、その後の方があんたたち一緒にいる時間が増えてたし」
「それはそうなの。美咲に悪いことしたと思ったので、普段は先輩より美咲と一緒にいようと思っていたから」
「本当に復讐だって思っている?」
「唯だって美咲は大輝君のことが好きじゃないって思っているんでしょ。わたしへの復讐じゃないならなんで好きでもない人に告って、好きでもない人と付き合ってるの?」
その答えはわかっているけど芽衣には言えないのだ。それにしても復讐・嫌がらせ説についてはこれまで唯は全く考えていなかった。
復讐・嫌がらせ説が成り立つには、当たり前だが前提条件として美咲が芽衣に対して何らかの理由で恨みを抱いていなければならない。美咲が自分に恋していることを知らず、美咲が悠人を好きだということ自体がフェイクであることを知らない芽衣にとっては、自分が悠人の告白に応えたという事実だけで、十分その前提条件が成り立つと考えたのだろう。
あるいはそれだけではなく、日頃接している美咲の態度から自分への恨みなどの負の感情を感じ取っていたのかもしれなかった。そう考えると意外と復讐・嫌がらせ説は成り立つのだろうか。
あれ。
そこで唯は初めて気がついた。美咲の行動の動機はさておき、彼女が秋田と付き合うことがどうして芽衣への復讐になるのか。唯は芽衣が秋田のことが好きなのだと推測し、それを美咲も感じ取っていたがゆえに芽衣から秋田を奪ったのだと仮定した。
芽衣がこれを復讐だというからには、彼女も唯と同様、自分の秋田への恋心を美咲に知られているのではないかと考えたはずだ。そうでなければ、秋田と付き合うことが芽衣への復讐になるなんて美咲は思いもしないだろうから。
「あんたが秋田さんのことを好きなこと、美咲も知ってるのね」
「多分・・・・・・だけど、知られていると思う」
「自分から悠人を奪っていった芽衣に対して、逆に芽衣から秋田さんを奪うことであんたに復讐だか嫌がらせだかをしたってことか」
「うん」
「悠人と別れて秋田さんを取り返したいの?」
ついに唯は芽衣にそれを問いかけた。
「・・・・・・自分勝手なことしているのはわかってるけど」
「そういうのはいいのよ」唯は少しいらっとして芽衣の言い訳をさえぎった。「悠人と別れて秋田さんと付き合いたいんでしょ」
「うん」芽衣がはっきりとうなづいた。
もうそれでもいいかと唯は思った。芽衣への恋愛感情からは始まったのか、芽衣への復讐から始まったのかはともかく、美咲が好きでもない秋田と付き合い出したということは事実なのだ。
「助けてあげる」
「え?」
「悠人と別れて秋田さんと付き合うのを、あたしが助けてあげる」
ここに踏み込んだらもう、自分も芽衣も美咲の行動のひどさを非難する資格を失うだろうと唯は思った。
なぜなら、唯のしようとしていることは極度に自己中心的かつ不公正なことなのだから。
なぜなら、芽衣の願いをかなえさせる道は、唯の願いを成就する道にも続いているから。
「何で助けてくれるの?」
「何でだっていいでしょ。そこって重要なの?」
「そうじゃないけど」
「じゃあいいじゃない。一緒にやろうよ」
「助けてくれるのはうれしいけど正直まだ迷ってて」
「悠人に未練がある?」
「違うよ。そうじゃなくて美咲と大輝君の方」
「どういうこと?」
「わたしが大輝君と付き合うってことは、美咲と大輝君が別れるってことでしょ」
「そうだよ。二人を別れさせるってこと」
「それって大輝君のためにならないかも」
「え? どういう意味。あんたは悠人と別れて秋田さんと付き合いたいんでしょ」
「うん。これ以上は先輩にも悪いから、先輩とは別れるけど、問題は大輝君の方で」
「わからないなあ。悠人とは別れるんでしょ? それができたら秋田さんとお付き合いするのに何の障害もないのに」
「あるよ。彼はもう今では美咲の彼氏だもん」
「美咲は秋田さんのこと好きじゃないって結論になったじゃん」
「美咲はね。でも大輝君は美咲の告白に応えたんだから、きっと美咲のこと好きなんだよ」
確かにそうだった。唯は芽衣と秋田をくっつけようと考えていたが、肝心の秋田の気持ちを考慮していなかったのだ。
「そうだけどさ。でも相思相愛のカップルじゃないんだよ? 秋田さん気の毒じゃん。自分の彼女が自分のことを好きな振りしているだけなんて」
「それでも大輝君はそれを知らないわけだし、美咲が黙って大輝君の彼女役を演じきってくれるなら、彼にとってはそれがベストなのかも」
「あたしは違うと思うね。秋田さんのためにこそ美咲と別れさせてあげるべきだと思うけどな」
「本当の愛じゃないからとかそういうこと?」
「そんなロマンティックなことじゃないよ。ねえ?」
「なに」
「美咲があんたを憎んでて、かつあんたにとって秋田さんは大切な人なんだってことを美咲が知っていたとしたら」
「だとしたら?」
「秋田さんのためにいい彼女役を演じ続けるわけがないじゃん」
「なんでそう言い切れるの?」
「こういうことだよ。あたしが美咲だったら秋田さんの気持ちをできるだけ引きつけて自分に夢中にさせてから、こっぴどく冷たくを振るな。そうして秋田さんを苦しめて、その苦しんでいる姿をあんたに見せつけてあんたにもダメージを与えるね」
『美咲があんたを憎んでて、かつあんたにとって秋田さんは大切な人なんだってことを美咲が知っていたとしたら』
唯はこざかしく前提条件を付けた。だから嘘を言ったわけではないのだと自分に言い聞かせた。実際には美咲は芽衣を憎むどころか・・・・・・。
芽衣は黙ってしまった。
「だから秋田さんを救ってあげたほうがいいんだよ。早ければ早いほど傷は浅くすむ。どうするの。あたしは別にどうでもいいんだけど」
やがて芽衣が顔を上げ、驚くほど深く澄んだ瞳で唯を見た。
「お願い」
彼女はそれだけ言った。
その日、芽衣と唯はファミレスで夜遅くまで作戦を立てた。
打ち合わせの内容は正直ひどいものだった。学校の知り合いに聞かれていたらどん引きされていただろう。そんなひどい内容の作戦会議中、どういうわけか唯も芽衣も躁状態に陥ったみたいで、話している内容のひどさとは裏腹に、高揚した気分でこれから取るべき行動について声高に話し続けていた。
唯は不思議な連帯感を芽衣に対して覚えていた。多分、この夜の芽衣も同じ感覚だったと思う。
「悠人先輩の方から振ってもらえればいいんだけど」
芽衣はさすがに自分から悠人を振ることに罪悪感を感じるようだった。
「悠人は芽衣にベタ惚れだからそれはちょっと難しいと思う」
「唯が先輩に告れば先輩がOKする可能性はあると思うんだけどなあ」
それはない。そんなことが簡単に実現するくらいなら、唯だってこれまで苦しい片思いを続けては来なかったのだ。悠人にはいつだって彼女がいた。彼の恋愛の対象はめまぐるしい頻度で変わったけど、その対象の中にはいつも彼の身近にいた唯が入ることはなかった。
もちろん、最近の悠人の言動、特に影山と唯しの関係を気にしたりとか、秋田の手を触っていたことを気にしたりとか、そういう事実に背中を押されたこともなかったわけではない。悠人も唯のことを異性として意識はしていたのだと考えたこともあった。
ただ、それらわずかな唯への好意のかけらをいくつ拾い集めたとしても、悠人が芽衣に執着し嫉妬している様子を見れば、あいつが好きなのは誰かは自明のことだった。唯は美咲よりは悠人に好かれているだろうけど、相手が芽衣では勝負にならない。
唯が望んでいるのは芽衣が悠人を振ることだった。それを前提に、ひょっとしたらその後に唯が悠人の心の隙間に入り込むことができるかもしれない。
それなのに芽衣はまず唯が悠人に告れと言った。そうしたら芽衣が身を引けるからと。唯に告られたくらいで悠人が芽衣を振るとでも思っているのだろうか。
「唯が考えているよりもぜんぜん現実的な話だと思う」
「いや無理だって」
「先輩はね、いつも唯のことすごく大事にしてるの。唯は他の女の子と扱い違っているもん」
「悠人が一番大事なのは芽衣でしょ」
「わかってないなあ」
「どういうこと?」
「先輩が今一番好きだなのは多分わたしだけど、一番大事にしているのは唯だと思うよ」
唯は意表を突かれて一瞬返事ができなかった。一番好きと一番大事は違うのだろうか。
芽衣は微笑んだ。
「意外と本人たちにはわからないのかもね」
「本人たちって?」
「唯と悠人先輩のことだよ」
「好きと大事って違うのかな」
「よくあるたとえだけど、わたしと唯が同時に海で溺れていたら、ボートに乗った先輩が手を差し伸べるのは唯にでしょうね」
「それはそうかも」
唯は別に謙遜するでもなく答えた。学園祭のメインステージの一件の際、悠人に助けられたた唯が彼にお礼を言ったとき彼が口にしていた言葉がある。
「おまえのお母さんに頼まれたからな」
だから芽衣の言っていることは正しいのだけど、それと恋愛感情とは違うのではないか。
「気を悪くしないでね」芽衣がおそるおそるといった表情で上目づかいに唯を見た。
「なによ」
「悠人先輩は唯に告られたらすごく悩むと思うの」
「どうして」
「断ったら唯が傷つくじゃない。先輩がもっともしたくないことって、唯が傷つくことでしょ。まして自分が振ったことで唯を傷つけるなんて耐えられないんじゃないかな」
前から思っていたように芽衣はいわゆる「謙遜ないい性格の人」ではなかったけど、頭の回転が速く観察眼も備えていることだけは確かだった。
それに続く芽衣の言葉は唯にとっては屈辱的なものだったけど、同時にひどくリアリティのあるものだった。
「だから先輩は唯の告白に応えると思うの」
悠人が好きな子は芽衣であることを前提として、それでも幼なじみの唯を傷つけないためには、悠人は芽衣を振って唯を彼女にしてくれるのだという。
そんな自尊心を折られるような提案に、ふだんの唯なら絶対に乗らなかっただろう。でもこのとき唯の脳裏を、やや焦り気味に前のめりに支配しだしていたのは、この機会を逃せばもう二度とチャンスは来ないかもしれないということだった。
「悠人がそうするっていう保証はないよね」
唯は時間稼ぎのように答えのない質問を芽衣にぶつけた。
「保証って意味はよくわからないけど、万一唯が告って先輩に振られたら、そのときはわたしが先輩に別れてくださいって言うから」
「振られた後に言われたって、あたしにはあまりメリットないじゃない。それが言えるなら最初から悠人に別れてって言ってくれてもいいのに」
「こういうことはメリットのある唯が努力すべきでしょ」
「あたしがあんたを助けるんだと思ってたけど」
唯の精いっぱいの嫌みは芽衣に通じなかった。
「助けてあげるっていう唯の気持ちはありがたく受け取るよ。でも、これをすることで唯は先輩の彼女になれるかもしれないけど、それでわたしが大輝君と付き合えるわけじゃないから」
「だから美咲の本当の気持ちを秋田さんにチクれば」
「唯が大輝君にそれを話してくれるの?」
唯は一瞬ちゅうちょして言葉を詰まらせた。「美咲の気持ちを大輝君にチクって二人が別れたら、あんたすごく美咲に恨まれると思うけど、その覚悟で言ってくれてる?」
「それは」
美咲の言動によって常日頃から感じていたいらだちを思い起こした。それらは唯に美咲の自己本位な性格を知らしめたのだが、はたしてそれは美咲から彼氏を奪うほどひどいことだったのか。
美咲の秋田さんに対する気持ちが本物ではないことについては、ある程度確信はあったけど、それをすることによって美咲に絶交されることまで覚悟していたわけではない。芽衣はそれを言っていた。
もう決めなければ。もともと唯の方から芽衣に持ちかけたことなのだから。たとえ美咲に嫌われても、唯と芽衣の幼い頃からの恋が成就するなら。「うまく行くかわからないけど、やってみる」唯は芽衣に言った。
「ありがと」芽衣が言った。
娘の帰りが遅いことを心配した芽衣のママから電話が入って、ようやくその夜の打ち合わせは終わった。
唯が帰宅したのは夜十時を過ぎていた。唯がまず悠人に告白することは決まったけど、その前にとりあえず悠人に受験勉強に専念するよう、そのために芽衣とのデートは控えるよう彼に忠告することになった。これについては唯と芽衣の共通の希望だった。唯たちの恋愛の行方がどこに帰着するにしろ、悠人は勉強に専念する必要があるのだ。 善は急げと言うけど、これが善なのかどうかわからない。ただ、少なくとも悠人に受験勉強をさせること自体は誰にとっても善だと言えるだろう。 自宅に戻った唯は自分の部屋に直行し、ベッドに横になった。今日は思ってもいなかったことに、いろいろなことが進展した。そして明日は悠人と話なさなければならない。
悠人への告白が困難なのは当然だけど、ただ受験勉強に専念するようにという、当たり前のアドバイスをすることも意外と難しいと唯は思った。
受験生の親が諭すように一般論として勉強しろというのでは意味がない。悠人に受験勉強に専念させるには、二つやめさせなければならないことがある。一つはダンスのレッスン。もう一つは芽衣とのデートだった。
その両方に悠人は青春のすべてをかけていたから、気軽にやめろとは言いづらい。ただ、ダンスに関しては、悠人の通っているスタジオのインストラクターも、時間と体力を奪うダンスの練習は受験が終わるまで休止したらどうかと言っていると芽衣から聞いたので、こちらの方はなんとか悠人を納得させることができそうだった。
問題は芽衣のことだった。唯が悠人に芽衣に会わないように忠告して悠人の反感を買わないはずがない。それでもこれは彼女の恋愛の成就なんかよりもっと必要なことだった。
悠人の受験を成功させること。それは唯にとって何よりも大切なことだから、このことだけは悠人に納得させよう。そう決めて唯は目をつむった。思っていたより精神が張り詰めていたのだろう。興奮した状態のせいかなかなか眠気が起きなかった。結局深夜の一時近くなってようやく眠りが訪れた。
芽衣と長い打ち合わせをした翌日の放課後、唯は教室に芽衣を迎えに来た悠人を捕まえた。あらかじめ芽衣には先に下校してもらっている。
「芽衣はいねえの?」不審そうに悠人が聞いた。さすがの芽衣も気が引けたのか、今日は彼に断らずにそそくさと帰宅してしまったのだ。
「家から電話があって今帰ったところだよ。急な用事だって」
「聞いてないけど」
「だから急な用事なんだって。今日は一緒に帰れないってあんたに伝えてって頼まれた」
「わかった。じゃあ、帰るかな」
「よかったら一緒に帰らない?」
「別にいいけど」
「じゃあ支度するからちょっと待って」
悠人の気が変わる前にいそいで支度した唯は、彼を引きずるように学校を後にした。学内で彼と連れだって歩いていると、周囲の女の子の視線がうるさいくらいにまとわりついてきた。悠人と一緒にいるとき、芽衣はこの主の視線が気にならなかったのだろうか。
唯と悠人は幼なじみではあるけど、一緒に帰ると自宅最寄り駅で別れることになる。家が隣り合っているわけではないのだ。だから、彼と話をするにはどこかに寄って彼と話し合う時間を作る必要があった。
今までは悠人を誘うのに遠慮したりしたことはなかったのだけど、いざ芽衣と約束をしたこと実行に移さなければならない今、唯はなかなか悠人に声をかけ誘うことができなかった。
「どうした? なんか元気ねえじゃん」
悠人が心配そうに電車の中で並んでつり革に掴まっている唯を見た。
「なんか悩んでる?」
「悩みとかじゃないけど…・・・」
この機会を逃すともう今日は誘えないかもしれない。
「何だよ」
「今日これから塾でしょ?」
「六時からな」
今は午後五時だった。
「塾のそばのファミレスとかで三〇分くらい付き合ってもらってもいい?」
「いいよ」あっさりと悠人が言った。「ちょっとくらいなら塾に遅れたっていいぜ」
「それはだめ」
「冗談だよ」悠人が笑った。
ファミレスで案内された席につき注文を済ませると悠人が真面目な顔になった。
「で? なに悩んでるんだよ」
「あんたのこと」
「おれのこと? どういうこと?」
「受験のことだよ。現役で明徳大受かろうとするならそろそろギア入れないといけなんじゃないの?」
唯の悩みを聞く気満々だったらしい悠人の表情が一変した。
「おまえ、うちのおふくろになんか頼まれただろ?」
悠人のママも彼の合格を心配しているらしい。
「違うよ。最近のあんたを見てて心配になったのよ。幼なじみとして」
「ちゃんと勉強してるよ。塾だってサボらないで毎日通ってるし」
「こないだの模試、明徳大への合格可能性が二十%だったって聞いたけど」
悠人が渋い顔をした。
「あのときは調子が悪くて実力が出せなかっただけだよ」
「悠人は地頭はいいんだから、今はもうちょっと勉強中心に生活しなきゃね」
「おまえなんか上からなのな」
悠人が苦笑した。
「頑張っているつもりだけどな」
「だってまだスタジオのレッスンに通ってるんでしょ? 受験終わるまではレッスン休めないの?」
「まあ、確かにそうだな。後藤先生にもそう言われた」
後藤先生とは悠人が通っているレッスンスタジオのインストラクターだ。細身で筋肉質の美女で、唯は以前から少し彼女のことを警戒していた。まあ、三十過ぎの人なのでそれほど真面目に気にしていたわけではないけど。
「じゃあレッスンはお休みするよね?」
「わかったよ」悠人があきらめ顔で言った。「先生とおまえに言われたらしかたない。試験終わるまではレッスン休むよ」
適度に運動する方が調子が整うし、勉強に集中できるんだけどな。悠人がぶつぶつ言った。
ここまではうまくいった。問題はこの次だ。芽衣を溺愛している悠人に、受験が終わるまでは彼女と会うのを控えるよう言わなければならないのだ。
「よかった。合格すれば後藤先生のスタジオにも通えるし、明徳のサークルでも踊れるよ」
「おう。磯谷さんって知り合いが明徳の一年でさ。よく大会で一緒になったんだけど、来年合格したら明徳のサークルに来いよって言ってくれててさ」
「すごいじゃん。もう大学のサークルに勧誘されてるなんて」
「磯谷さんもすごい上手なんだぜ。あのひとはブレークダンスだけど」
「だったらさ」
唯はこの流れで言うしかないと思った。
「おう」
「芽衣とのデートも合格するまでやめたら?」
それまで陽気に話していた悠人が黙ってしまった。怖い表情をしている。
「おまえ芽衣になんか頼まれただろ」
「違うって。ただ芽衣もあんたのこと心配してたから」
「余計なお節介する気になったってわけだ」
「あと二、三ヶ月の辛抱じゃない。浪人なんかしたらそれこそ芽衣が悲しむよ」
「芽衣も芽衣だよな。俺と会いたくないなら自分でそう言えばいいじゃんか。おまえに言わせるんじゃなくて」
「あんた、いろいろ勘違いしてるよ。頼まれたんじゃないって言ったじゃん。それに芽衣があんたと会いたくないなんて言うわけないでしょ」
「おまえはなんでいつもいつも俺と芽衣のことに口出すんだよ」
いつも口を出してなんかいない。どちらかというと二人のことには必要以上に関わらないようにしていたのだ。
「おまえひょっとして俺と芽衣の仲に嫉妬してるの? だから会うなとかいろいろ邪魔してるんだろ」
唯は悠人から視線を外しうつむいた。胸の奥が熱くなり涙がまぶたの裏に浮かんでくる。
目を拭うのは我慢しなければ。さもないと泣いていることを悠人に気づかれてしまう。
そっと顔を上げると、あふれそうになっている涙でゆがんで映った悠人の顔が、戸惑ったような、ばつの悪そうな表情を浮かべていた。
子どものころ悠人のいたずらが過ぎて泣かされたことがたまにあったけど、そういうときに唯の泣き顔を見た彼が浮かべていた表情と同じだ。
「変なこと言って悪かった。受験終わるまで芽衣とは遊ばないから。だから泣くなよ」
「泣いてない」
唯はそっと目頭を押さえた。悲しさや悔しさが感情の底に滞って行き場をなくしている。なんでこんなにみじめでつらい思いをするのだろう。
芽衣や美咲に自分の悠人への気持ちを指摘されるのだっていやでたまらないのに、張本人にまでみじめな気持ちにさせられるなんて。これも悠人に余計なことを言った唯が悪いのだろうか。
悠人がうつむきながら席を立った。
「もう行こうか。塾に遅れるし」
勘定を済ませファミレスを出る悠人の数歩あとを唯は黙ったまま付いていった。交差点までくると悠人が立ち止まって唯を見た。
「じゃあおれ塾だからここで」
「うん」
突然、彼が唯の手を握った。
「本当にごめんな。唯はおれのために言ってくれてるのに」
唯は彼に手を握られながら身を固くしていた。
「じゃあな」
彼女の手をそっと離すと彼はもうこちらを振り返らずまっすぐに塾の方に去って行った。
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