第19話
学園祭が終わると、学園内からは浮ついた雰囲気が一掃され、冬を前にして学内には落ち着いた様子が漂っていた。高校三年生たちはすでに大学受験モードに突入していたが、それに加え、悠人のように学園祭まで部活を引退していなかった生徒たちも、ようやく受験勉強に専念しなければいけない季節となった。
学園祭の日に勢いに任せて芽衣の本当の気持ちを聞き出す気になっていた唯は、実際はその後はなにも行動できなかった。その理由はいくつかある。その一つは、美咲と秋田が付き合い出すという大変なことがおきたと思って内心どきどきしていた唯の胸中を尻目に、芽衣も美咲も特になにか変わったことが起こってもいないという感じで、何事もなく平静に日常を過ごしていたことだった。 唯は毎日教室で芽衣と顔を合わせているのに、美咲が秋田と付き合い出したことをどう思っているのか、結局彼女に聞かずじまいとなっていた。教室には常に美咲がいて芽衣と二人きりになれなかったという事情もある。
彼氏ができたのだから美咲も多少は忙しくなるかと思いきや、少なくとも平日は全くそういう様子は見られなかった。彼女はあいかわらずいつも芽衣の側にいた。
悠人と仲直りした芽衣は、これもあいかわらず学園内では悠人より美咲と一緒にいることが多く、そのことに芽衣も満足しているようだった。
そういうわけで唯は芽衣の気持ちを本人から聞く機会を得られないまま日々の日常を過ごしていたのだ。そうこうしている間に、唯自身にも学園祭の後夜祭の時の勢いが心中から失われてきた。
あのとき唯は美咲の意図を疑い、芽衣の悠人に対する気持ちも疑ったけど、時間が経つにつれ本当にそうなのか疑問に思えてきた。悠人に執着している唯が、希望的観測で事実をねじ曲げ、都合のいい事実を考え出しそれを信じているだけなのではないか。そう考え出すと、唯は芽衣になんと切り出して彼女の気持ちを聞けばいいのかさえわからなくなっていた。
美咲と秋田が付き合い出したことは、芽衣や美咲の日常生活にほとんど影響を与えていなかった。悠人への影響はあったけど、それは肯定的な意味での影響で、秋田への嫉妬心がなくなった悠人と芽衣の付き合いは今まで以上に順調に見えた。
こうして唯の中では美咲の行動に感じた疑問はどんどん薄れていったのだが、それが完全に消える前に芽衣が彼女に話しかけてきた。
「今日放課後一緒に帰れない?」
昼休みが終わる頃、芽衣が唯に言った。美咲はどこに行ったのかそのときは近くにはいなかった。「いいけど」なんの用だろうと思いながら唯は答えた。芽衣は普段は美咲と一緒に帰るのに。
「美咲も一緒だよね」
一瞬芽衣の表情に陰りがよぎるのを唯は見た。
「美咲は今日はデートだって」
「一緒に帰るのはいいけど、なんかあたしに用事でもあるの?」
「うん。あとで話すね。午後音楽だよね。そろそ
ろ教室移動しよう」
午後の三時過ぎに終礼が終わっても芽衣は机に座ったままだった。美咲がバイバイと言って教室を出て行ってしまってから、芽衣は席を立った。美咲がいなくなるまで時間調整をしていたようだ。「じゃあ帰ろうか」芽衣が唯に言った。
用事があると芽衣は言ったが歩きながらそれを話す気はないようだった。唯たちはすでに薄暗くなってきた十一月の夕暮れの中、校門を出て最寄り駅の方に歩いて行った。
肩を並べて駅に向かう緩やかな坂道を下りながら、唯はだんだんと重苦しい気分になっていった。隣では芽衣が黙って歩いている。
いったい用事とはなんだろう。もしかして唯が芽衣と悠人の仲を揺さぶっていると考えて、唯を非難するつもりなのだろうか。
もちろんそれは杞憂だ。それに近いことを考えていたことは事実だが、それは唯の胸の中に秘めていて誰にも話したことはない。理性ではそうとわかるのだけど、なぜか不安な気持ちは収まらなかった。
駅前まで来ると、芽衣はファミレスの前で立ち止まった。
「ちょっと寄っていかない?」
「あたしはいいけど」
芽衣は学則どおり下校中のお店への寄り道はしないのだと悠人は言っていたけど、普通にするじゃんと唯は思った。
「それで用ってなに?」
席についてオーダーを言うところまでで我慢は限界だった。それがなんであれ芽衣の用事とやらを確認しないとこれ以上はメンタルが持たないと唯は思った。
「うん」芽衣は歯切れ悪く言った。「面倒なことだし唯に迷惑かけちゃうかもだけど」
なんだかわからない。わからないが、心配していたように唯の意図や行動に怒って、それを問いただすために彼女を連れてきたわけではないらしい。唯は張り詰めていた気がいっきに緩むのを感じた。
「なんだかわからないけど、とりあえず聞くよ」さっきまでの緊張が嘘のように唯は鷹揚に言った。「悠人先輩のことなんだけど」芽衣が言った。
やはり悠人の話なのか。唯は再び緊張しはじめた。
「悠人がどうした?」
「受験勉強の時間が足りないと思うの」
唯は芽衣の言葉に拍子抜けした。一体なんの相談をしたいのだろう。
「受験勉強って。学園祭も終わって部活も卒業でしょ。そもそも三年生はもう授業がないから、受験勉強以外することないじゃん」
「デートの時間が無駄だと思うの」
「デート?」
「うん。先輩がね。受験勉強はちゃんとするから、わたしとデートする時間は削らないって言うの」
アホか。
すでに受験が直前に迫っているうえに、悠人の学力は志望校である明徳大学の合格水準に達していない。芽衣とのデートなんて合格したらいくらでもできるだろうに。
明徳は芽衣の志望校であるということを考えれば、この先芽衣と一緒に学生生活を送りたいなら、たかが数ヶ月くらいは何もかも捨てて受験勉強に専念すべきだ。
「困ったやつだねえ。でもそれがどうしたの?」 そうは口にしなかったけど唯には関係ないことだった。
「デートとかやめて勉強に専念するように先輩に言ってもらえないかな」
「あたしが?」
なんで唯が悠人にそんなことを言わなきゃならないのだろう。芽衣が自分で悠人に言えばいい話だ。
「なんであたしがそんなこと言わなきゃいけないの?」
あまり非難らしくならないように注意して唯は言った。そんな悠人に恨まれるだけの役割を果たす義理はない。
「あたしが言ってもだめなの。でも、唯が注意すると先輩そのとおりにするじゃない?」
「そんなことないでしょ」
「そうだよ」
たしかに悠人に言い聞かせてその行動を矯正できるのは、彼女である芽衣や先生、先輩、両親も含めて唯くらいだろう。そう言われるのは正直うれしいけど、彼女である芽衣に言われるのは少し微妙な気分ではある。
「幼なじみだから多少はあいつもあたしの言うこと聞くのかもね」
「だからお願いできないかな」
「・・・・・・じゃあ言ってみるけど、あいつがそのとおりにするかどうかわからないよ」
芽衣のためと言うよりは悠人のためだ。彼が大学受験に失敗しないためには、芽衣の言うようにこんな時期にデートとかしている場合じゃない。中学高校時代をダンスの練習に捧げてきた悠人には大学受験を前にしてそんな余裕はないのだ。芽衣の志望校に先に入って待っていようと考えている悠人を助けるのかと思うとしゃくには障るけど、彼を浪人させないためだ。
それに悠人は中学時代に明徳を受験して不合格になっている。ここで明徳に受かればそのときのリベンジになる。
「でも芽衣はそれでいいの? たまには彼氏に会いたいんじゃない?」
「先輩の大事なときだから」芽衣はあっさりと言った。
一見すると彼氏の受験を憂いた模範的な彼女の態度のようだけど、芽衣の淡泊な態度や言葉に唯は違和感を感じた。そして再び、芽衣の気持ちを問いただしたいという感情が首をもたげてきた。
「そう言えば」唯は芽衣を見ながら慎重に言った。「あたしと悠人と同じで芽衣も秋田さんと幼なじみなんでしょ」
「うん。大輝君のことは小学校低学年の頃から知ってるよ」芽衣は微笑んで言った。
芽衣は、自分の彼氏の話題の時は淡々と表情も変えずに話しているのに、秋田の話題になると微笑んだ。やっぱりこれはそうなんじゃないのか。であれば、唯もここで勝負をかけるべきなのではないか。
「秋田さんとは一緒に遊んだりしているの?」
「ううん。最近はぜんぜん会えてない。美咲が大輝君の彼女だし」
「秋田さんと会えなくて寂しいんじゃないの?」
唯は芽衣からどういう返事が来るのかどきどきしながら返事を待った。しばらくして小さな声で芽衣が口を開いた。
「正直ちょっと寂しい。大輝君とはずっと会えなくて、最近やっと再会した矢先だったから、これからは普通に会えるかと思ってたのね。でも彼にはもう美咲がいるから」
「三人とも知り合いなんだから三人で会えばいいじゃん」
美咲と秋田が付き合い出す前はそうやって三人で会っていたのだから。
「わたしからは誘いづらいし、美咲も声かけてくれないんだよね」少し不満そうに芽衣が言った。
「いっそ四人でダブルデート・・・・・・は無理か」
悠人には受験に専念させなければいけないのだった。
「芽衣って美咲を秋田さんに紹介して二人をくっつけようとしているみたいだって、美咲が言ってたけど」
もしそうなら芽衣は自業自得だ。
「してないよそんなこと」芽衣が憤然として言った。
なんなのだろう? そこまで強く否定することなのか。
「美咲はそう思い込んでいたよ」
「大輝君に女の子を紹介するなんてこと、わたしがするわけないじゃん」
「なんで?」
「なんでって」
芽衣は我に返った様子で、下を向いてしまった。語るに落ちるとはこのことだ。やはりそうとしか思えなかった。唯は、緊張するというよりなにかわくわくした気分になってきた。
えい。もうやっちゃえ。
「前から思ってたんだけど、芽衣ってちょっと美咲に遠慮しすぎじゃない?」
芽衣は返事をしなかった。
「美咲って自己中なとこあるし、芽衣ももう少し自己主張した方がよくない?」
そう言いながらも、もう一人の自分が唯に対して「よく言うよ。自分こそ事なかれ的に美咲に異を唱えずにきたくせに」と皮肉めいた口調で話しかけてくるのがわかった。
「でもしかたないの。悠人先輩のことで美咲には悪いことをしちゃったし」
美咲が悠人を好きなことを知っていて、芽衣が悠人の告白に応えたことを言っているのは明白だった。
だけど本当は違うのだ。美咲は悠人を好きな振りをしていただけだ。それでも美咲の本当の行動原理を、美咲の真の気持ちを芽衣に話すわけにはいかなかった。彼女の性的指向については誰にも言わないと約束している。
「そんなのいつの話よ。いつまでも借りがあるなんて考えなくていいって」
真実を言えない分、唯の主張はピントがぼやけていた。これでは芽衣も納得しないだろう。そう思った唯は芽衣の反論を待った。
「美咲だけじゃなくて唯にも悪いことしたよね。今まで謝れなかったけど、ずっと言葉にして謝りたいと思ってた」
いったいなんの話だろう。
「美咲により悪いことしたと思う。唯が先輩のこと密かに好きなこと知っていたのに。しかも幼なじみだから、昔からずっと好きだったことを知ってたのに」
唯は芽衣の言葉にパニックに陥った。
自分の気持ちがばれていた?
そんなはずはない。唯は完璧に自分の恋心を隠してきたつもりだった。もし唯の日頃の言動から芽衣がそれを見抜いたのだとしたら、彼女は天才的な直感の持ち主だと言えるだろう。
「なんであたしが悠人のこと好きだって思うの?」
唯は小さな声で聞いた。これでは認めているのと一緒だ。
「前に美咲から聞いたから。そのときすぐに唯に謝ればよかったんだけど、わたしも勇気がなくて。ごめんね」
唯のうろたえぶりに芽衣は逆に驚いている様子だった。
美咲から聞いた?
あの女。
唯は美咲の秘密を守った。美咲に告白された唯は、彼女がレズビアンだということを誰にも言わずにいた。それなのに美咲は噂話をする程度の気軽さで、唯の秘密を芽衣に話していたということになる。唯は瞬時に美咲の行動を理解し、そして怒りに震えた。
もう自分を抑えるのはやめよう。美咲の卑劣な行動を芽衣に伝えよう。
ただ、そのためには芽衣の真意の方も唯の考えているとおりなのかどうか確かめなければならなかった。
「昔から悠人のことが好きだったのは本当。でも芽衣のことを恨んだりはしてないよ。悠人が告ったのはあたしじゃなく芽衣だもん。芽衣は悪くない」
「そうか。でもあたしと先輩が付き合い出して、唯も傷ついたでしょ?」
もうこの話はいいのに。唯が恨んでないと言っているのだから。それなのに芽衣は、上から目線で唯の気持ちを聞いてくる。そんなに唯に傷ついてつらかったと言わせたいのか。芽衣に対しては、悠人の告白に応えたことより、こっちの方がもっと恨めしい。でも芽衣の話の続きを聞くと、どうもそういうことでもないようだった。
「美咲のことも唯のことも傷つけて。こんなことなら先輩と付き合わなければよかった」
「悠人が芽衣のことを好きになったのだからしかたないじゃん。芽衣が悠人のことを振ったからといって、美咲が悠人と付き合えるわけじゃないでしょ」
美咲はそうだろう。でも唯の場合はどうなのか。芽衣と付き合えなかった悠人は唯には振り向くだろうか。
先輩と付き合わなければよかった。本気かどうかはわからないけど、芽衣は口に出してそう言った。好きな人と付き合わなければよかったなどと簡単に言えるわけがない。やはり芽衣はそうなのだ。
次の瞬間、唯はあれだけ聞きづらかった質問を思わず芽衣に問いかけていた。
「芽衣って本当は悠人じゃなく秋田さんのことが好きなんでしょ」
芽衣はうつむいた。そして目を合わせず小さな声で「うん」と言った。
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