第16話

 それから一週間くらいたったある朝、登校して自分の席に着くとすでに隣に美咲が座っていた。

「おはよ」

 唯は美咲にあいさつし美咲も答えてくれたけど、何かに気を取られている様子だった。

「どうした」

 不審に思った唯が聞くと美咲が自分の前の芽衣の席を指さした。

「芽衣来てないの? いつもはあたしたちより早いのに」

「昨日いろいろあってさ。なんか嫌な予感がするんだ」

 美咲が意味深そうに言った。

 芽衣のことを心配しているのだろうけど、少し面白がっているような様子も感じられた。

「いろいろって?」

 美咲は顔をあげて周囲を見回した。

「昨日の日曜日に、芽衣と一緒に秋田さんと会ったの」

「秋田さんって誰だっけ」

「この間話したでしょ。芽衣の知り合い。秋田大輝さん」

「芽衣の幼なじみって人か」

「うん。芽衣に借りた絵本を返すためにファミレスで」

「なんで美咲も一緒に行ったの」

 どうせ自ら志願して芽衣と大輝さんの邪魔をしに行ったに違いない。唯はそう思った。

「芽衣から一緒に行こうよって言われてさ」

 どうも邪推だったようだ。唯は困惑した。芽衣はなぜ、大輝と会うのにわざわざ日曜日に美咲を呼び出したのだろう。

 美咲も唯の困惑を感じ取ったのか美咲が声を潜めて言った。

「なんかさあ。芽衣ってわたしと大輝さんをくっつけようとしているみたい」

「え、本当に」

「大輝さんと会うのに、わざわざわたしの予定を聞いてわたしが空いている日に約束してたし」

 美咲の思い込みばかりでもないのかもしれない。だとするとなぜだろう。久しぶりに再会した幼なじみとの恋の手伝いをする理由とはなんだろう。

 美咲の気持ちを考えず悠人と付き合い出したことに対して、罪悪感のようなものを感じていたのだろうか。でもそのために美咲と大輝さんを付き合わさせるとはずいぶん乱暴な話だ。例によって美咲の思い込みではないのか。

「いろいろあったってそのこと?」

「ううん。それでね、その後家に帰ってから、芽衣と大輝さんの仲は先輩が心配するようなんじゃないからって先輩に電話したの」

 唯は本気で驚いた。いったいなんでそんなお節介なことを。

「勝手にしたわけじゃないんだよ? 芽衣が先輩に疑われることに悩んでいるから、先輩の誤解を解いてあげるって言ったら、お願いって言われた」

「悠人はどんな感じだった?」

「逆に怒らせちゃったみたい。またあいつと会ったのかって怖い声だった。というか、わたしにぶたれたこと、まだ根に持っているのかも」

 そのとき唯はふと気づいた。芽衣は大輝を美咲に近づけようとして美咲を同行させたんじゃない。二人きりで大輝と会うことを避けようとしたんじゃないか。

「二人きりじゃないって悠人に説明した?」

「もちろんしたよ。それでも全然聞く耳持たないって感じ。先輩、あれから相当芽衣に電話かメッセージ送るかしてるよ」

「芽衣も悠人に会いたくなくて休んだのか」

「多分そうかも」

 午前の授業が終わっても芽衣は教室に姿を見せなかった。無届けなので担任が芽衣や芽衣の両親に連絡を取ろうとしたが、電話に出なかったらしい。


 唯が昼休みに売店でサンドイッチを買って席に戻ると、美咲がこちらを見た。

「大輝さんも芽衣が休んだこと知らないって」

「連絡したの?」

「もしかしたらと思ってさ。でも勘違いだった」 美咲が自宅から持参した可愛らしいお弁当を開きながら言った。

「芽衣にLINEしてみたら?」

「とっくにしてるけどぜんぜん既読にならない」

 そのとき教室の後ろ側のドアから悠人が顔をのぞかせた。美咲が教室に入ってきた悠人を見つけて笑顔になった。

「先輩こんにちは」   

「芽衣は?」

 美咲のうわべだけの愛想のよさを無視して怖い顔で悠人が聞いた。

「今日は来てないですよ」

 美咲は悠人の高圧的な態度に動じずに愛想よく答えた。

「何で?」

「そんなこと知らないですよ。先輩には芽衣から連絡があったんじゃないの?」

「連絡なんかないよ」

「先輩のせいじゃないですか」

 美咲が嫌がらせのように微笑んだ。

「どういうこと」

「先輩が芽衣をいじめるから、芽衣は学校を休んだんじゃないですか」

「おれは芽衣をいじめたりしてないけど」

「じゃあなんで芽衣は休んだんですかね。わたしが芽衣と秋田さんは単なる昔の知り合いだって教えてあげたのに、先輩が芽衣を責めるからでしょ。何の根拠もないのに芽衣が浮気しているって」

「なんで約束をすっぽかしたか聞いただけだ」

 これ以上はまずい。悠人の顔が興奮で赤らんできていた。

「悠人」

 唯はなるべく冷静に言って彼の腕に手をかけた。「なんだよ」

「ちょっとこっち来て」

余計なお節介はするべきじゃないと唯は思っていた。芽衣への態度については前に一度悠人にアドバイスして裏切られていたこともある。それに芽衣と悠人の仲を固めようとする気持ちが、果たして彼女にあるのか自分でわからない。

 ただ、このまま美咲が悠人をからかうのを座視するわけにもいかなかった。こう言ってはなんだけど、美咲なんかにからかわれる悠人の姿を唯は見たくなかった。

 唯は立ち上がって入り口に立っている悠人のそばを通り過ぎた。悠人は少し迷った様子だったが、このままここにいても仕方ないと思ったのか彼女の後についてきた。その様子を、美咲が面白いものを見るような顔で眺めていた。

 人目を避けられる場所としてとっさに思いついたのは生徒会室くらいだった。探せば広い校内にはいくらでも場所はあるだろうけど、いきなり悠人と内密な話が出来る場所はここくらいしか思いつかなかった。

「こんなところに連れてきていったいなんだよ」

これから何を言われるのかわかっているくせに悠人はそう言った。

「あたしが言ったとおりになったでしょ」

「何がだよ」

「あたしだけじゃなく美咲も言ってたよね? これ以上芽衣を責めると彼女の気持ちが離れるよって」

「おれは別に責めてはいないよ」

「あんたは芽衣を責めているの。証拠もないのに芽衣が浮気したみたいな言いがかりをつけて。多分芽衣はあんたと会うのが嫌で学校を休んじゃっているんだと思うよ」

悠人は黙ってしまった。

「芽衣のこと好きなんでしょ? あんたにしては珍しく嫉妬するくらい」

「そういうことじゃなくて、おれは嘘を言われたり誤魔化されるのが嫌いなんだって」

 唯はその言葉に少し意表を突かれた。確かに彼には昔から物事を曖昧にされるのを嫌うところがあった。小学生の頃、悠人と道で出会った知り合いは、ちょっとそこまでという答えではなかなか解放してもらえなかったものだ。

 そう言えば悠人のダンス仲間と一度話したことがあるけど、その人は悠人のダンスには誤魔化しがないと言っていたのを思い出した。普通は踊っていると多少は動作が荒かったり、適当に流して次の動作につなげたりすることがあるそうだけど、悠人のダンスにはそういう部分がなく、たとえ拙いにしても正しい動作を取ろうと試みるのだそうだ。

 そう考えると今回の悠人の態度も必ずしも芽衣に執着して束縛しようとしているのではなく、芽衣の口から、相手の男との関係やなぜ自分との約束を破ってまでその相手を優先したのか納得のいくわけを知りたかっただけなのかもしれない。そしてそう考えた方が唯の精神衛生上も都合がいい。

「あんたさ、今女の子と二人きりでいるよね?」

「女の子って唯じゃんか」

 どういう言い草だ。唯は悠人の反応に少しむっとしたけど、話を続けるには好都合だった。

「そうだね。あんたと幼なじみのあたしが二人きりでいたって別におかしくないよね」

「おかしくねえよ。おれとおまえが二人きりなんかよくあるじゃん」

「このあいだは二人きりでカフェに行ったよね?」

「ああ」

「芽衣からどうしてあたしと二人きりでいたのって聞かれる?」

「聞かれたことないな」

「じゃあやっぱ不公平じゃん」

「不公平?」

「美咲からも聞いたでしょ。芽衣が会っていたのは芽衣の幼なじみだよ。あんたとあたしと同じことしているのに、なんで芽衣だけあんたから責められるわけ?」

 悠人は黙ってしまった。唯はたたみかけた。

「芽衣のことが好きなら態度を改めて謝りなよ。このままだとあんた、芽衣に振られるよ」

「わかった。そうする」

 やがて悠人がぽつりと言った。

 心から納得した様子ではないけど、ようやく自分のしたことが芽衣との仲を固めることには全く寄与していないことを理解したのだろう。


 翌日、出席してきた芽衣に、唯は自分が悠人に釘を刺しておいたので、もう芽衣に対していやな態度も取らない。だから悠人の話も聞いてあげてほしいとお願いした。唯としては幼なじみの悠人を応援しているだけでなく、芽衣のことも助けているつもりだった。

 ただ、芽衣はなにか微妙な表情だった。

「ありがとう。でも、これってわたし自身、っていうか先輩とわたしの問題だから」

「ごめん。お節介なことするつもりはないんだけど、悠人にもチャンスをあげてほしくて」

 唯は慌てて言い訳したが、これでは芽衣のことを助けたいというより、悠人のことをアシストしたいという意図が見え見えだった。

「うん」とだけ芽衣は答えたが、そのとき彼女が考えていることは唯にはわからなかった。

 昼休みの時間、悠人が唯たちの教室に顔を出した。芽衣は、彼を見ると一瞬少し嫌そうな表情をした。

 普段は悠人の方に向かって行く芽衣は知らん顔をして彼から目をそらしたので、悠人はどうしていいかわからない様子で教室の入り口にたたずんでいた。

「ほら。先輩が来てるよ」

 美咲があいかわらずからかうような、面白がっているような口調で言った。芽衣は黙ったままだ。

「気持ちはわかるけど悠人のところに行ってあげて。多分、謝って仲直りしたいんだよ」

 唯が口を挟むと芽衣はようやく腰を上げて悠人の側に行ったけど、一度も彼の顔を見ようとしなかった。

 そのとき悠人が何か言って芽衣に頭を下げた。距離があったのでなんと言ったのかはわからないけど、固かった芽衣の表情が少し和らいだ。

 それから会話を交わしていた二人だが、授業時間が迫って悠人がこの場を去るとき、芽衣が胸の前で小さく手を振り悠人もそれに応えた。

 ようやく二人は仲直りしたのだった。

それからの二人がどう過ごしていたのか唯にはわからなかった。というのも生徒会長だった唯は例年と異なり学園祭実行委員会の委員長も務めさせられており、学園祭が近づくにつれ多忙を極めるようになっていた。だから唯にとては、悠人と芽衣の仲を心配するどころではなくなっていたからだ。

 ただ二人が仲直りしたにせよ、これまで以上に一緒に親密に過ごしているかというとおそらくそれはない。なぜなら学園祭は悠人にとっても重要なイベントだったから。

 悠人が部長を務めるダンス部では、毎年学園祭では派手なステージを披露する。何組ものチームがこのステージを目指して厳しい練習を重ねる。もちろん悠人のチームも同様だが、それに加えて悠人は、部長としてダンス部に割り振られた大ホールのメインステージのイベントを企画し、準備しなければならない。これが悠人の部活引退前の最後の仕事になるのだ。彼には受験勉強まであることを考えると、芽衣とべたべたデートしている暇はないだろう。

 そんなことを考えながら実行委員会の事務室になっている教室に着くと、影山が頭を抱えて書類を睨んでいる姿が目に入った。書類から目を離すと目の前の電卓を叩いてはため息をついている。何をやっているのか。

 唯は彼の前に座って彼が眺めている書類をのぞき込んだ。学園祭で学内の大ホールで行われるメインステージの進行表だ。

「どうしたの?」

影山が書類から目を上げた。

「戸羽さん。やばい。おれやっちまったかも」余裕のない声で彼が言った。

「どうしたの」

「これ」

 影山が進行表を唯に渡した。最初そこには問題がないように見えたけど、しばらく細かい部分まで眺めていると、彼女にもその進行表の不備が浮かび上がるように見えてきた。

 インターバルの時間、演目と次の演目が替わる際に必要な、舞台の転換作業に要する時間が確保されていないのだ。これは実は初歩的なミスだった。

 メインステージに登場する各部が舞台に立つ時間の合計時間はうちの学校の実行委員会では「実時間」と呼ばれていた。当然ながら学園祭のメインステージの興業時間は実時間の合計と一致しない。出演者の交替もそうだけど、軽音楽の次に演劇が行われる場合にはステージの転換にそれなりの時間を要する。アンプやスピーカーをはけて、劇の背景をセッティングするのに必要な時間は急いでも十分や十五分はかかる。

 興業時間は、実時間とこうした作業時間の合計時間だ。影山は作業時間を全く進行表上に見積もっていなかったのだ。

 昔から代々実行委員会に伝わっているフォーマットの進行表を使えばこうしたミスは生じない。フォーマット上にあらかじめ実時間と作業時間を記入するようになっているからだ。ところがどういうわけか彼は自分でエクセルで作った進行表を使っていたのだった。

「どうしよう」

 影山が訴えるような目で唯を見た。

 各部に割り振られた持ち時間は、各部の申請時間を踏まえつつ、興業時間から作業時間を引いた実時間を按分して各部に割り当てている。そして影山は実時間ではなく、作業時間を控除していない合計時間を按分してしまっていた。つまり各部に割り当てられた時間は相当過大になってしまっているのである。

「時間配分をやり直してみんなに伝えるしかないでしょ」

 唯はそう言ったが、問題は持ち時間を知らせたのが一週間以上も前だということだ。

 各部ではすでに伝えられた時間をもとにして、演目を決め練習を重ねているに違いない。つまりその全てか少なくとも一部を修正してもらうことになるのだ。各部の部長たちの怒りたるや想像するだけで恐ろしい。

「あやまり倒すしかないか」影山は覚悟を決めたように言った。

 今でももう手遅れだがそれでも伝えるのは早い方がいい。学園祭は三週間後だった。今ならまだ構成を見直す時間は残っている。もちろん大変な苦労をかけることにはなるが、それでも黙っていては何も解決しない。

「そうだね。怒られると思うけど早い方がいいと思うよ」

 正直、唯はほっとしていた。影山のことだから、各部の部長への悪い知らせを告げる役割を彼女に押しつけるつもりなのかと恐れていたけど、そこまで責任逃れをするつもりはないらしい。

「自分のせいだから怒られるのはしかたないよ。とにかく持ち時間を減らしてもらわないと」

 このままの時間で公演をされたら夜中までかかっても終わらない。いくら怒られようが見直しをしてもらうしかないのだった。

「部長を集めて説明するならあたしも一緒にいようか」

 自分が逃げたことに多少の後ろめたさを覚えた唯は影山に申し出た。

「いいの? 生徒会の仕事もあるんでしょ。忙しくない?」

 影山は唯の仕事を気にしてくれたが、表情にはほっとした様子が隠せていなかった。彼女は余計なことを言ってしまったことを少し後悔した。

「じゃあ、今日は一緒に時間を計算しなおそう。出来たら明日なるべく早く部長たちを集めましょ」

「おれ今日のうちにメインステージ関係者のグループにLINEしておくわ。明日放課後集合してくれって」

「わかった。LINE送り終わったら正しい時間を算出しよう」

「ありがとう。ごめんな」

「いいよ」

 唯はため息を押し殺した。


 翌日の放課後、唯が生徒会室に入ると、生徒会室の長机にはなぜ呼び出されたのかわからずにとりあえず世間話をしている部長たちでいっぱいだった。その机の脇には緊張した面持ちで書類を握りしめた影山が立っていた。彼は側に立った唯を見て少しほっとしたように硬い表情を崩した。

「来てくれてありがと」

「ちょっと遅れちゃった」

 唯たちは低い声であまり意味のない言葉を交わした。影山が唯を見たので、彼女も彼を見て頷いた。彼は座っている部長たちの方を振り返った。

「忙しいところ急に呼び出してすいません。今日は学園祭のメインステージの割り振り時間に少し問題があって来てもらいました」

 何か退屈な事務連絡だろうくらいに思っていたらしい部長たちが、急に話をやめて何が起きたのだろうという表情で影山と隣に立っている唯の方を見た。その中に悠人もいた。いること自体はおかしくないのだけど、これから起こるであろう対立の相手方の方に悠人がいるのは嫌だなと彼女は思った。

「どういうことだよ」軽音部の強面の三年生が言った。

「これから説明します」影山は小さな声でつぶやくように言った。さっそく萎縮してしまったようだ。

 影山に呼び出されてここに集まっている生徒は三年生が多かった。学園内のほとんどの部ではすでに受験を控えた三年生が引退し、新しい高二の部長が彼らに替わっていた。ただ中には学園祭まで三年生が部長を務めることになっている部もあった。そういう部の大半が学園祭のメインステージを発表場所としている。つまりここに集まっている部がそうだった。

 そして受験を控えてまで最後の部活に望んでいる部長たちの学園祭に注ぐ熱量は半端じゃない。言うまでもなく悠人もその一人だ。

「みんなに割り振ったステージの持ち時間のことなんですけど」

 恐る恐ると言った感じで影山が説明を始めた。そもそも学園祭前の忙しい時期に集められたということだけで生徒会室には不穏な雰囲気が漂っていたのだけど、単純で初歩的なミスにより自分たちに間違った時間が提示されたことを理解するにつれ、彼らの表情は険しくなっていった。

「時間を間違えたのはわかったよ。それでどうしろって言うの。もうシナリオ作って練習も始めちゃってるんだけど」

 かなり実際より過大に時間を割り振られていたことを悟った、演劇部の美人で有名な三年生の先輩が言った。そのときの怖い表情だけ見ると、彼女を美人だと言う人は誰もいないだろう。

「うちなんか、もらった時間をさらにバンドに割り振ってるんだぞ。もうみんなセットリスト組んじゃってるじゃんか。やり直せとか言ったらおれ奴らに殺されちゃうぜ」

 片山という軽音部の三年生の部長がそう言った後も、怒りや威嚇、またはそこまで強い口調ではないものの、困惑した部長たちが放つ非難が続いた。

 唯と影山はそれを聞きながら口も挟めずにだんだんと萎縮していった。

「黙ってないで何とか言えよ」

 上級生に責められた影山は何か言おうとしたが口ごもってしまって言葉にならなかった。前から思ってはいたがここまで打たれ弱い男だったとは。普段は調子がいいだけなのか。唯は絶望的な気持ちでそう思った。唯が変わって説明しようにも、彼女も萎縮していたし、この後の説明を聞いた三年生の部長たちの激しい反応を考えるだけでも怖じ気づいた。

 ただ、それでも言うことは言わなければしようがない。当方のミスではあるけれどもこのままではステージは成り立たない。土下座してでも何でも時間を短縮してもらわなければいけないのだ。

 唯は影山を頼るのを諦めた。そもそもは彼のミスだけど、学園祭の責任者は唯だった。影山が言えないのなら彼女が言うしかない。

「計算し直してみたんですけど、だいたいお伝えした時間の三分の二くらいに出演時間を縮めてもらえると全体が時間内に収まります」唯は覚悟を決めて言った。「十五分のところは十分に、三十分のところは二十分にしてください」

 一瞬の沈黙のあと、これまで以上の怒号が生徒会室に響き渡った。そこまで削らされるとは思っていなかったのだろう。

「ふざけんなよ。勝手に間違えておいて平気な顔で三分の二にしろとかおまえら悪いとおもってないだろ」

「自分が言ってることわかってる? 台本を今から三分の二に縮めろってことなんだよ。シナリオライターにそんなこと言えるわけないじゃない」

「なんとか今の時間でやれないの? 終了時間を延ばすよう学校と交渉とかしたの」

「このままやったら終わる頃には終電がなくなっちゃいます」

 唯は冷静に言ったつもりだったが、周囲の人たちには生意気な正論のように受け止められたらしい。一瞬の沈黙のあと、演劇部の美人の部長が口を開いた。

「なにその言い方。実行委員会が間違えたんでしょ。今まで何年も問題なかった時間割を今年に限って間違えたんでしょ。まず、戸羽さん、あんたが土下座して謝りなさいよ。時間を減らしてなんて都合のいいお願いをするのはそのあとでしょ」

 周囲は再び静まりかえった。土下座なんかしたくない。たしかに間違えたのはこちらだけど、そこまでしなきゃいけないことなのだろうか。それにこう考えたらいけないんだろうけど、間違えたのは影山だ。

 それでも静まりかえった部長たちの静かな圧力が唯に重くのしかかった。なにか言おうと思ったけどなにも言えない。いっそもうこのまま土下座してしまった方が楽なんじゃないか。唯がそう考えだしたとき大きな声が正面から響いた。

「佳奈おまえバカじゃねえの」

それまで一言もしゃべらずに黙っていた悠人だった。バカと言われた佳奈、つまり演劇部の道下部長の顔が真っ赤になった。

「土下座とかくだらない話でおれの時間をつぶすな」

 悠人が道下先輩を見て吐き捨てるように続けた。 演劇部の道下部長は悠人の元カノだった。悠人が芽衣と付き合う前の彼女だ。うわさでは二人は受験を前にして自然に恋人関係を解消したということになっていたけど、そのあとすぐに悠人は芽衣に告って付き合い始めたのだから自然解消というのは説得力に欠ける話だった。

 実は佳奈先輩は悠人に振られたという話も一部ではうわさされていた。悠人が下級生の芽衣に乗り換えるために。

「おれだって言いたいことはあるけど、そんなことしている時間なくね? 夜中までステージなんかできねえんだから、とにかく時間削るしかねえだろ。どこが何分削れるかそういう調整を始めようぜ。遅くなればなるほど部の連中に迷惑がかかるし」

 比較的おとなしかった二年生の部長を中心に悠人への賛成の声が広がった。

「だって、このままじゃ部員に言い訳できないよ。わたしが部員に責められることになるんだよ」佳奈先輩が涙声で言った。

 美人は泣いていてもきれいだな。とりあえず、みなの関心から逃れることができた唯は人ごとのように考えた。

 悠人の一言でここにいる人たちの唯たちに向けられていた怒りの感情は消え、ある人は佳奈に同情し、悠人によって現実に連れ戻されたある人たちは実際問題としてこの先にどういう作業をこなす必要があるのか考え出した。

「おまえ部長だろ。それくらい自分で考えろ」

 悠人は泣いている佳奈を一言で切り捨てた。「唯」悠人が今日初めて彼女に声をかけた。

「新しい時間割できてるのか」

「できてます。これです」 

 ようやく復活した影山が悠人に新たに書き直した進行表を手渡した。

「進行表じゃんか。各部ごとの新旧の時間の割り振り表ってねえの?」

「ごめん。十分待ってくれれば作るよ」唯は言った。

「いや、ないならいいよ。これで見る」

 悠人は一度テーブルに置いた進行表を取り上げた。

「最初から順番に見ていこうか。最初の軽音部はどれくらいって言われてた?」

「一時間四十分」片山が言った。

「新しい進行表だと一時間だな」

「ふざけんなよ。四十分も削れるか」片山が憤って言った。

「減らさなきゃしかたねえだろ。一時間十分でやってくれよ」

「いや、だけどよ」

「一曲ずつ削ればできるだろ。片山」

 了解したのかどうか片山さんは何かぶつぶつ言っていたけどそれ以上は悠人に逆らわなかった。

「次は演劇部か。時間はなんて言われてた?」 佳奈が泣きはらした赤い目で悠人を見た。

「時間だよ時間」

「幕間も入れて全部で一時間」小さな声で佳奈が言った。

「演劇部は縮められないな。とりあえず一時間のままにしておこう」悠人は少し考えてから言った。「いいの?」佳奈がそう言った。泣き止んだ彼女は悠人の話を聞いて顔を赤くした。「悠人ありがと」

「次は弁論部のディベートか」佳奈を無視して悠人が続けた。「弁論部はさ、時間とか結構自由に調整できんじゃね」

「まあ、たしかに与えられた時間でディベートできなきゃいけないんで、短くても短いなりにできる」弁論部のめがねをかけた部長が冷静に言った。「お願いできるか」

「いいよ。四十分もらってるけど二十分でやるよ」

「じゃあ、次はうちな。ダンス部も時間半分でなんとかするわ」

「そこまでしなくてもいいいだろ。うちの部も協力して時間減らすから」ブラバンの部長が言った。 悠人はすごいな。唯はそう思った。唯たちだけならこんなに早く修正作業には入れなかっただろう。まずは唯たち文化祭実行委員会への不満と糾弾で半日が過ぎ、翌日くらいから差し迫った問題に気がついて、不承不承時間を減らす話し合いになる。悠人がいなければそんなところだったはずだ。

 ところが悠人は現実的で危機的な課題を部長たちに突きつけることで、一気に彼らの意識を変えた。これは過ちを犯した影山や唯では彼らを納得させられないことではあった。間違えた実行委員にイニシアティヴを取られることに抵抗感があるからだ。それにしても、この部長たちの中にも悠人以外にこんな芸当ができる人はいなかっただろう。

悠人はこのステージの全体像を唯や影山よりもっとよく把握しているようだった。インターバルの時間を含めて完全に新しい進行表ができたのは夜の七時。各部の主張を抑える時間込みと考えると驚異的な早さだった。各部にとっては結果は実行委員会の示した案と大差はないはずだが、悠人の説得のおかげで彼らはその案に納得した。

 やがて解散となり生徒会室には唯と影山、それに悠人だけが残った。

「志賀先輩ありがとうございした」影山が頭を下げた。

「あいつらかわいそうにな」悠人がさっきまでと打って変わって静かな声で言った。

「どういうことですか」影山が聞いた。

 どうもこうもない。影山君、あんたはもう無神経な発言をやめて黙ってなさいと唯は思った。

「これから徹夜で割り振りやり直すんじゃねえの。それで明日部員に説明して責められるんだよ」

「ごめんなさい」唯は悠人に言った。

 彼の言うことは正しいとわかっていた。部長たちからずっと責められず、あの程度の嫌みで済んだのは悠人のおかげだった。そして悠人自身もこのあとは、他の部長と同じくダンス部のステージの構成をやり直さなければならないのだ。

「唯のためじゃなきゃこんなことしねえよ」そう言って悠人は改めて影山をにらんだ。「おまえも自分のしたことわかってんのかよ。ろくに謝りもしねえで。言っとくけどあいつらが怒ったのって正論だからな」

 やっと安心した様子になっていた影山が再び萎縮し落ち込んだ表情になった。。

 唯は不思議な気分だった。影山に迷惑をかけられた悠人が怒るのは無理もない。ましてや悠人はそんな義理もないのにこの修羅場を見事に納めてくれたのだ。それでも悠人の影山に対する態度に唯は少し違和感を覚えた。

 悠人は攻撃的な性格ではなく、たとえこのように影山に迷惑をかけられたとしても、本人にこんなことを言うことはないと思う。それではなぜ悠人は影山に怒ったのか。

 まさか悠人はあたしと影山君の仲に嫉妬している? 唯は以前、影山と一緒に帰ったことを悠人に問いただされたことを思い出した。

「じゃあな。おまえらは今度こそちゃんと進行表作り直せよ」

 悠人がそう言い捨てて生徒会室から出て行った。「悠人待って」

 唯は突然怒られうつむいてしまった影山を無視して悠人の後を追った。

生徒会室から廊下に出るとその脇の階段の手前で悠人が待っていた。別に唯から逃れようとしたわけではないらしい。そのとき、昔からずっと悠人と一緒に過ごしてきても、これまで一度も彼に見せなかった態度を彼女は取った。彼に抱きついたのだ。

「おい」

「あたしのためなの?」

「うん」

 悠人は抱き返しはしなかったが、彼女の手を振りほどきもしなかった。

「あんただってダンス部の時間割大変なんでしょ。なんであたしなんかのために」

「唯は大切な幼なじみだからな。昔おまえのおふくろさんに約束したし」

「なにそれ知らない。ママと約束って」

「たいしたことじゃねえよ。まだ小さいときに唯の面倒を見てやってねって頼まれただけ」

「中一の時面倒見てくれたじゃん。それでもう約束は果たしてるよ」

「中一の時ってなんだっけ?」

 唯は、彼の質問を無視し、これまで踏み込めなかった言葉を口にした。今日の余韻というか勢いで出てしまったのだ。

「どれくらい大切なの。芽衣とどっちが大切?」

 すぐに唯は自分の発したつまらない言葉を後悔した。ここまでこれまで聞いたことのなかった言葉を口にしてくれた悠人が、困ったような顔をして黙ってしまったからだ。唯はすぐに撤退した。

「本当に今日はありがと。助かった」

 それ以上の追求がなくなったので悠人はほっとしたようだった。

「いいけど。とにかくMCとかPAとか照明とかにはちゃんと新しい進行表渡しとけよ。これ以上ミスするんじゃねえぞ」

 彼はそう言って抱きついていた唯の手をそっと振り払い階下に降りていってしまった。

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