第15話

その日の放課後、生徒会が終わった後、唯は雑誌の書評で見て気になっていた小説を買おうと駅ビルの中の本屋に行った。新刊なので新刊コーナーに平積みされているだろうと考えて探したのだが、目当ての本は見当たらなかった。店員さんに聞くとまだ発売日前だそうだった。唯はまだ発売前の小説の書評を読んでいたのだ。

 お目当ての本を入手できなかった彼女が駅ビルを出て家に帰ろうとしたとき、改札口の前でスマホを耳に当てて何か話している悠人を見かけた。

 授業が終わった後、美咲は一人で帰ったから悠人は今日は芽衣とデートする日じゃなかったのか。悠人の方に近づいていくと誰かと電話している彼の声途切れ途切れに聞こえた。

「用事? どうしたの」

「会って? どうした?」

「用事ならしかたないか」

「またな」

 相手は芽衣なのだろうか。芽衣から約束をドタキャンされたところを目撃しているらしいが、穏便に話がついたらしかった。

 のぞき見したようで気が引けた唯がその場を離れようとしたとき、悠人と唯の視線が合ってしまった。

「唯じゃんか」

 悠人が唯に言った。

「何してるの。芽衣と一緒じゃないんだ」

「急用ができたって今電話があってさ」

 悠人が少しけわしい顔をした。温厚に電話を切ったわりには、芽衣のドタキャンに対して心から納得しているわけではないらしい。

「待合せしてたの?」

「うん。そうだ、おまえ今ひま?」

「なんで?」

 唯は平静を装って聞き返した。何か嫌な予感がした。

「芽衣が来れなくなってやることなくなってさ。一緒にファミレス行かない? おごってやるからさ」

 予感は当たった。やはり芽衣の代打というわけだった。

「下校中は本屋以外は寄り道禁止でしょ」

「そんなん守ってるやついないよ」

 それは事実だった。唯をはじめ生徒会の役員でさえ。芽衣の代わりでもいいかと彼女は思った。考えるまでもなく悠人とは親しく話ができる間柄ではあるけれど、入学してから学外で悠人と二人きりで過ごすのは初めてだった。

「受験勉強はいいの?」

「もともとデートの予定だったからな」

「なら別にいいけど」

「じゃあ行こうぜ」

 悠人は唯を促して店から出て歩き出した。

「芽衣の用事ってなんだったの」

 ファミレスの席に向かい合って座ると唯は悠人に聞いた。

「よくわからないんだよな」

 悠人がメニューを開いたままテーブルに置いた。

「なんか知り合いとばったり会って、それで一緒に芽衣の家に行かなきゃならないとか言ってたけど」

「知り合いって誰だろ」

「さあ。いきなり会って一緒に家に行かなきゃとか意味わかんないよ」

「せっかくのデートなのにかわいそう」

 悠人の表情には、さっきちらりと見せたけわしさはもう浮かんでおらず、落ち着いていたので、唯も少し茶化してみた。

「別にいいけどよ。芽衣と会ったってどうせお茶するくらいだし」

「デートじゃなかったの」

「芽衣とのデートなんか本屋か散歩かせいぜいお茶するくらいだよ。あいつまじめだし」

 意外なことに二人の仲はそれほど進展していないようだった。

「今までの元カノとずいぶん違ってるね」

「それ以外のとこに誘っても芽衣は来ないし、まあ今年は俺も受験生だし」

 それから悠人はいきなり話を変えた。

「唯は?」

「はい?」

「唯って影山と付き合ってんの?」

「え? なんで影山君が出てきたの」

「この間聞いたよ。二人きりで下校してたって」

 唯は、副会長である同学年の影山君とは生徒会の活動が終わった後、駅まで一緒に帰ったことがある。最後まで残っているのは会長と副会長なので別に不自然なことではない。むしろ、そんなことをわざわざ悠人に吹き込んだやつの感覚がおかしい。

「誰が言ってたのよ」

「美咲ちゃん」

 またか。唯に関するネガティヴな情報を知人の耳に入れて回っているのはいつも美咲だ。悪気のない行為だとしてもされる方はたまらない。

 でもそれ止めさせようにも、美咲はそれがなぜ唯を傷つけるかも理解できないのだ。唯はもう半ばそのことを諦めていた。

「何にもないよ。美咲ってすぐそういうこと触れ回るんだから」

「前にさ」

 悠人が少しためらうように言った。

「なんか美咲ちゃんがおれに気があるらしいって聞いたんだけどさ」

 多分そうだろうと思っていたことではあったが、やはり美咲が触れ回ったその話は悠人本人の耳にも届いていたようだ。

 そもそもは芽衣に美咲本人が同性愛者ではないということを納得させるために行ったことだから、悠人本人の耳に入れる必要はない。ただ、美咲が悠人に片想いしているといううわさは、美咲本人が制御できないくらい多数の生徒たちに広がってしまったため、誰かがそれを悠人の耳にも入れたのだろう。

「あんたはそれを誰から聞いたの?」

「本当なのか?」

 悠人は聞き返してきた。唯が知らないと言っても信憑性はない。美咲は本当に悠人のことが好きなわけではないので悠斗に関心を持たれても困るだろうけど、今のところ悠人は芽衣に夢中な様子だった。

 だから唯は知っていることを悠人に話した。少しだけ美咲のおしゃべりへの対抗心のような気持ちもあったかもしれない。

「本当だよ。あたしたちが中一のとき、美咲に言いよってた高三の先輩からあんたが美咲を助けたことあったじゃん。あのときからずっとあんたのこと好きだったんだって」

「そんな前からなの。マジかよ」

「あの子、あんたが好きってこと高校生になるまで誰にも言わなかったからね」

「それで美咲ちゃん、俺にいろいろ言ってくるのかな」

「どういうこと?」

「唯が影山と二人一緒に帰っているとか」

「さっき言ってたやつね。それと美咲があんたを好きなこととどういう関係があるの?」

「唯に嫉妬して、俺に唯が影山と付き合っていると思わせたいんじゃね?」

「あたしに嫉妬? どういう意味?」

「唯と俺って幼なじみで仲良いじゃん。美咲ちゃん唯に嫉妬してるつうか俺と出来ちゃわないか心配してるんじゃねえのかな」

 悠人の言葉に唯は驚き凍りついた。彼とは親しい幼なじみだけど、お互いに男女の仲について匂わすような話はこれまで一度もしたことはない。悠人は全く唯のことを恋愛対象としてみていないだろうし、唯の方も可能性のない無駄なことをするつもりがなかったから。

 あたしと悠人が出来ちゃわないか心配している? 唯は狼狽のあまりしばらく彼に返事ができなかった。悠人の方も自分が何を口走ったのか彼女の様子を見て悟ったようで、気まずそうに黙った。

 美咲が唯に嫉妬することはない。美咲が本当に好きなのは悠人ではないから。

 それについては悠人は間違っているけど、問題はそこではない。悠人も唯のことを異性として意識はしていたのだ。彼が今好きな子は唯でなくて芽衣だとしても。

 唯はそう考えた。そしてその事実は彼女を最初は狼狽させたが、しばらくして幸福な感情が唯の胸中に満ちてきた。暖かい感情を胸の中で何度も転がすように味わいながら唯は彼を見た。

「どうした」

 黙ってしまった唯をいぶかしんだように悠人が言った。

「別になんでもない」

 唯は笑って見せた。彼の言葉は彼女を喜ばせたけど、少し冷静に考えてみると今これ以上この話題を追求するのは危険だ。ひどく甘美な感情をもたらしてくれたこの話には、これ以上の行き場がないからだ。これはやはり可能性のない無駄なことだった。

「あたしに愚痴を言うのはいいけど、芽衣を直接責めるようなこと言わない方がいいよ」

 唯が話題を変えると、悠人は目下の自分の悩みを思い出したようだった。

「責めはしないけど、相手が誰で何の用だったか聞くくらいはいいだろ。実際に約束をドタキャンされたんだから」

「言い方に気をつけてって言ってるの。問いただすみたいに責めちゃうと芽衣の心が離れていくかもよ」

 ちょっと言いすぎかなと唯は思ったが、言いすぎだとしても嘘ではなく本当にそう思っていた。

「約束破られた方が下手に出るのかよ」

 悠人は不満を隠さなかった。

「上とか下の問題じゃないでしょ。別れてもいいつもりで芽衣を責めるならそうしたら?」

「おまえの言うことも極端だな。誰も別れたいとか言ってねえじゃん」

「だったら少しは自分を抑えないとね」

「わかったよ」

 不承不承に悠人が言った。


 ところが、どうも悠人は自分を抑えなかった、あるいは抑えられなかったらしい。

「先輩もあそこまで言わなくてもいいと思った」

 悠人とファミレスに行ってから二日後の放課後、美咲が昨日の夜に三人で行ったカラオケでのできごとを話してくれた。

 芽衣は授業が終わるとさっさと教室を出て行ったので、今日は悠人とデートかなと思って美咲に聞いてみたらそうではないとのことだった。

「昨日のカラオケで芽衣も相当切れてたから、今日はまっすぐ家に帰ったんだと思うよ」

 カラオケで何があったのか聞く前に美咲が自分から話しはじめた。

「最初に店に入ったときからヤバいなって感じてたの。先輩不機嫌オーラ全開でね。最初は芽衣も気をつかって話しかけたりとかしてたけど、先輩ガン無視。大きな声で、大輝ってやつのことどう思っているんだよとか芽衣に聞くし。部屋がしーんとしちゃった」

 この間の唯の忠告を悠人は無視したわけだ。そしてその結果も唯が悠人に言ったとおりになった。

「芽衣も怒っちゃって『先に帰る』って言って。それで先輩が芽衣の肩を掴んで止めようとしてね。芽衣が痛がってたから、わたし思わず先輩の頬を叩いちゃった」

 美咲が平然と言った。

「叩いた?」

 唯は驚いた。が、考えてみれば大好きな芽衣が痛がっていたらそれくらいはするだろう。美咲が自分にほれていると思っている悠人はさぞかし驚いただろうけど。

「それで芽衣の手を引っ張って二人で逃げてきちゃった」

「そんなことがあったのか」

 唯は考え込んだ。

「じゃあ、あの二人もうだめそうな感じ?」

「それがね」

 美咲が気の毒そうに唯を見たので、彼女はすぐにその質問したことを後悔した。

「芽衣は怒ってたけど、ちゃんと説明しなかったわたしも悪いんだけどって言ってたから、すぐに別れたりはしないんじゃないかなあ」

 唯は別にそんなことを期待したわけではなかったのに、美咲にはそう思われたのだ。

 自分こそそれを期待していたくせにと唯は心の中で言った。

「大輝って誰?」

 その話を続けられるのがいやだった唯は話を変えた。

「芽衣の幼なじみの男の人。明徳大学の一年だって。この間先輩と会う約束を、大輝さんと会うためにすっぽかしたみたいなの」

 この間とは唯が悠人と会ってカフェに行った日のことだろう。

「美咲も大輝って人知っているの?」

「知ってるよ。急に雨が降った日に大輝さんと出会って芽衣と二人、車で家まで送ってもらったことがある。わたしはそのときが初対面だし芽衣のついでに送ってもらった感じだけど」

「どんな人?」

「いい人だよ」

 美咲が大雑把な言い方で大輝という人を評した。少なくとも美咲は大輝に興味はないなと唯は思った。もっとも美咲の場合ほとんどの男性に関心がないのだった。

 問題は芽衣の気持ちだ。

「悠人が怒るくらい芽衣と大輝って人は仲いいのかな」

「どうだろ。なんか幼なじみといっても何年も会ってなかったんだって。だから先輩も嫉妬することないと思うよ」

「でも大輝さんと会うため悠人のことすっぽかしたんでしょ?」

「何とかっていう絵本を貸すことになって一緒に芽衣の家に行ったんだって」

「それって彼氏との約束を破ってまで優先すること?」

「わたしに言われてもなあ。なになに。唯は芽衣が大輝さんのこと好きだって考えてるの?」

 正直そうとしか思えない。唯は美咲にそう言おうとしてかろうじて思いとどまった。

 もし美咲が芽衣が大輝という人を好きだと考え出したら、美咲は何をするかわからない。芽衣の恋を邪魔するために、自ら好きでもない悠人を好きなふりまでした子だ。今度は大輝が好きだと言い出して芽衣の邪魔をしかねない。

 美咲に芽衣の邪魔はさせたくない。美咲が考えたように唯は少し芽衣の浮気を期待しているのかもしれなかった、

「でも大輝さんってイケメンじゃないけどいい人っぽいよ。わたしはああいう人嫌いじゃないなあ」

 唯が質問に答える前に美咲が言った。どういう意味だろう。このさき、大輝が好きと言い出すための伏線でも貼っているのかと、唯はしばらく考えた。

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