第14話
それからしばらくして、唯が意外に思ったできごとが起こった。
悠人は以前から交際する女の子の出入りが激しかったから、彼が今どの子と付き合っているのか幼なじみの唯にも正確に把握するのが難しかった。それでも不思議と悠人と悠人に振られた彼女とのトラブルは公になることはなかった。それなのに、その頃から悠人に突然振られたという女の子たちの噂があちこちから聞こえてくるようになった。
いったいどういう心境の変化なのか唯は考えた。正直に言うと唯には少し期待する気持ちがあった。別にあたしのことを恋愛の対象として思い出したんじゃなくてもいい。
悠人が受験を意識したり、取っかえ引っかえしながら女の子と付き合う意味のなさに思い至ったのならそれでいい。唯はそう思ったのだ。だけど、悠人にはそんな気持ちは全くなかったようだ。唯にとっても美咲にとっても最悪なことに、噂どおり女の子たちとの仲を清算した悠人は、ある放課後芽衣に真面目に告白したのだ。
悠人が芽衣に告白し、芽衣がそれを受け入れたことを唯に教えてくれたのは美咲だった。その日、芽衣と美咲にあいさつして生徒会室に向かった唯を美咲が追ってきた。
「ちょっといい?」
美咲が背後から唯に声をかけた。
「いいけど。芽衣を待たしちゃっていいの?」
「今日は帰りは別行動。もしかしたらこれからはずっと別々かも」
美咲が穏やかではないこと口にした。今日の二人の様子を思い出しても普通に仲良くしていたように見えたけど、もしかしてけんかでもしたのだろうか。これから生徒会の活動があるのに、芽衣とのけんかの愚痴を聞かされるのか。唯は一瞬げんなりとした。
「じゃあ屋上に行こう。人目に付かないように」
立ち話で済ませてくれる気はないようだった。こうなったらしかたがない。唯は観念した。
「わかった。あんた本当に屋上好きだね」
危険だから生徒が立ち入りできないように施錠すべきではないだろうか。現に初等部の小学生たちがいる小学校棟の屋上は、生徒は立ち入り禁止だと聞く。唯は真面目に生徒会で提案しようかと考えた。そうすれば少しは美咲の相談という名の愚痴を聞く機会が減るかもしれない。
唯は無意識のうちに気が進まない表情を見せてしまったようだ。美咲はそれに気づいて言った。
「わたしの話聞いといた方がいいよ。唯にもすごく関係のあることだから」
美咲が押しつけがましく言った。
人気のない階段を三階分登り切りドアを開けた二人は夕暮れの屋上に立った。フェンスの方に歩いて行った美咲を追いかけた唯は、フェンスの前で美咲を見た。すぐ隣にいる美咲の横顔に夕日が射している。
「昨日、悠人先輩が芽衣に告ったよ」
美咲の言葉が耳から脳に達し、その意味が理解できたとたん、唯の足がガクガクと震えた。まっすぐに立っていられなかった唯はフェンスに寄りかかり何とか床に崩れ落ちるのを防いだ。美咲が唯の肩に手を回して支えた。
「大丈夫?」そっと唯の顔を眺めて美咲がささやいた。
しばらくしてようやく落ち着いた唯が美咲から聞いた範囲では、それはこういう状況で起きたらしい。
学校からの帰路の途中でこのまま塾に行く芽衣と別れた美咲は、駅に向かって歩いて行く途中で芽衣から借りた本を返し忘れていたことに気がついた。急いで返さなきゃいけないものでもないし明日返せばいいだろうと思ったが、今から芽衣を追えば塾に着く前に彼女に追いつけるかもと思い返した。
芽衣の通っている受験塾は学校の最寄り駅、つまり今美咲がいる場所から繁華街の方向に歩いて五分くらいの場所にある。美咲は早足で芽衣の塾の方に歩き出した。
芽衣の後ろ姿を見つけられないまま塾の入っているビルの入り口まで来ると、ちょうどビルの中に入っていく芽衣を見つけた。少し離れていたので芽衣に声をかけようと駆け足で近づこうとしたとき、どこかから現れた悠人先輩が芽衣に並んで声をかけた。
とっさに足を止めた美咲に気がつかず、先輩は何かを芽衣に話し続けている。芽衣は少し驚いているようだった。そのまま先輩は芽衣を促すように塾の外に歩き出し、芽衣も一緒に先輩の後に付いていった。美咲は少し距離を置いて二人の後を付けた。
そういえば学年が違うのであまり気にしたことがなかったが、悠人先輩もこの受験塾に通っていたのだった。
塾の授業時間を気にしたのか二人はあまり遠くには行かなかった。塾から少し離れた歩道の脇で少し立ち話をしたと思うと、悠人先輩は芽衣から離れてどこかに行ってしまった。取り残された芽衣は立ち去る先輩を少しの間見送っていたけど、すぐに早足で塾の方に戻ってきた。
「芽衣」美咲は芽衣の前に姿を現した。
「美咲ここで何してるの」芽衣が驚いた表情で言った。
「借りてた本を返し忘れてた」美咲はバッグから本を取り出して芽衣に押しつけた。
「わざわざ返しに追いかけてきたの? 明日でいいのに」本を受け取りながら芽衣が呆れたように言った。
「悠人先輩と何話してたの?」
「美咲見てたの」芽衣が不審そうに言った。
「うん。先輩なんだって?」
「塾が終わったら大事な話があるからちょっとお茶に付き合ってくれって」
「まじか。ガチ告白じゃんそれ」
「そうかな。聞いてみるまでわからないけど」
「今まで先輩と二人きりでお茶したことなんかないでしょ?」
「それはないけど」
「じゃあ決まってるじゃん。先輩に告られるんだよ」
「心配しなくても大丈夫だから」
芽衣は美咲を見て穏やかに言った。
「告白じゃないと思うけど、告白だとしても大丈夫だから」
「別にわたしは」
美咲が口ごもった。
「授業があるから行かなきゃ。先輩の話が終わったら美咲に連絡するよ。気になっているだろうから」
そうして美咲に言い返す間を与えずに芽衣は塾のビルの中に消えて行った。
その晩、どういうわけか何時になっても芽衣から美咲に連絡はなかった。美咲がLINEしても既読にすらならなかった。
「それで結局どうしたの」
なかなか核心に触れようとしない美咲の話に痺れを切らした唯が口を挟んだ。話の腰を折られた美咲が嫌な顔をしたけど、その時の唯にはそんなことを気にしている余裕はなかった。美咲もそれに思いあたったのだろう。いつもなら嫌味の一つや二つは出るはずだが、彼女はそれを飲み込んで話を続けた。
「結局その日のうちに何も連絡がなくて、次の日の朝駅を降りて学校に向かっていたらさ」
美咲はそこで話を止めて唯の方を見た。劇的な効果のようなものを狙ったのかもしれない。
「どうだったの?」
「悠人先輩と芽衣が並んで登校してた。手はつないでいなかったけどすごく二人の距離が近くて」
やはりそうなったのだ。悠人の彼女がこれまでのような女ではなく、明るく男女問わずに人気があり成績もいい芽衣になる。それは、考えうる限りで最悪の、唯が一番恐れていた事態だった。
「頭にきたから後ろからおはようって声かけてやったの」
美咲が続けた。
「そしたら芽衣は黙って俯いちゃった」
美咲は動揺していなかった。唯はそんな美咲の冷静な言動に違和感を覚えた。
彼女が悠人のことが好きだというのはフェイクであって、悠人に新しい彼女ができようがそれ自体が美咲を動揺させることはない。だけど、芽衣が好きな美咲は、彼女が男の人と付き合うことには動揺するはずだ。それなのになぜこんなに冷静な態度をとっていられるのだろう。
「結局昼休みになってようやく芽衣が声をかけてきて、中庭でごめんなさいって謝られた」
「芽衣、なんて言ってた?」
塾の帰りに芽衣が悠人に告られたことは確実だった。でも芽衣は美咲にたとえ悠人の告られても大丈夫だと言っていたのだ。それなのになぜ翌日に悠人と肩を並べて登校することになったのだろう。なぜ芽衣は悠人の告白にイエスと答えたのだろう。
「かわいそうになったんだって」
「かわいそうって?」
どういうことだ。唯は首をひねった。悠人は年下の女の子にかわいそうなどど言われるキャラじゃない。
「芽衣から聞いた話だよ?」
美咲が唯の様子をうかがった。
「芽衣が言うにはね」
美咲は再び話を続けた。
「ごめんなさい」
芽衣はそう言って美咲に向かって頭を下げた。
昼休みの中庭はそこかしこのベンチで食事をしているグループであふれていたが、芽衣が美咲を連れてきた中庭の端にはあまり人影がなかった。
「何を謝ってるの」
「美咲に言われたとおりだった。昨日先輩に告られた」
「やっぱりね」
「最初に会ったときからずっとわたしが好きだったって」
「先輩に付き合ってくれって言われたんだ。でもなんでOKしたの?」
「謝るよ。美咲の気持ち知ってたのに」
「いや、そうじゃなくて」
「最初は断ったの。美咲の気持ちを考えると、はい付き合いますとは言えませんって」
「芽衣って実は前から悠人先輩のこと好きだったの? ひょっとしてわたしが先輩のこと好きとか言ったんで諦めてたってこと?」
「そうじゃないんだけど」
「そうじゃないならなんでOKしたのよ」
「ごめん」
「怒ってるんじゃなくて、芽衣は先輩のことが好きだったかどうか聞きたいのよ。この際わたしのことはどうでもいいから」
「美咲の気持ちをどうでもいいとか割り切れないよ」
「いい加減にしてよ。話が進まないじゃない。じゃあ過去の話は聞かないけど、芽衣は今は先輩のことが好きなの?」
「と思う」
「何それ。好きかどうかもわからないのに、告白に応えて付き合い出したってこと?」
「だって・・・・・・悠人先輩、ちょっとかわいそうで」
「さっきから意味わかんない。芽衣に振られたら先輩がかわいそうってこと?」
「先輩ね。わたしと付き合いたいと思って、付き合っていた道下先輩を振ったんだって」
これでわかったでしょうと言うように、芽衣は美咲を見た。
「全然意味わかんない」
先輩が道下佳奈を振ったからなんだというのだ。
「わたしに対しては今まで付き合ってきた女の子たちと同じように接したらだめだって思ったんだって。だからわたしに告白するにはまずそうしないといけないと考えたって」
「先輩にとって芽衣はそれだけ特別な相手だってこと?」
「そうみたいなの。これでわたしに振られたら悠人先輩、一人きりになっちゃうじゃない」
「それがかわいそうだったからって意味?」
「うん」
「芽衣ってバカじゃないの。好きでもないのにそんなこと考えて先輩にOKしたってこと?」
「わたしもいつまでも昔のことを考えていてもしかたないって思った。美咲には悪いけど、先輩がわたしを好きならわたしも先輩と付き合いたいって思ったの」
「ああ、ようやくわかった。芽衣も先輩と付き合っていいって思えたのね」
「うん」
「最初からそう言えばいいのに」
「だからそれは」
「わたしのことは気にしなくていいよ。そもそも先輩はわたしのことはなんとも思っていないし。ただの片思いだもん」
「そんなこと」
「そんなことあるんだよ。よかったね。芽衣と先輩がうまくいくように祈ってるよ」
「ごめん。ありがと」
「今日一日で何回ごめんって言ってるの」
というのが美咲の話だった。
正直に言うと、これまで唯は悠人の彼女に今まで本気で嫉妬心を抱いたことがなかった。自分の恋を実らない恋だと考えてはいたけれど、今まで悠人が付き合った子たちには自分が負けている気はしなかったから。
悠人は唯のことを女として見ていない。昔からそうだったしこれからもそうだろう。でも彼が付き合ってきた女の子は今までは派手だけど頭の悪そうな子ばかりだった。
その相手が芽衣だとすると事態は全くこれまでと変ってしまう。今までの悠人のお相手と違って芽衣は可愛いだけでなく自分をしっかりと持っている女の子だった。成績だって今はかろうじて唯も負けていないけど、芽衣が本気で勉強に集中したらその優位すら危うい。そう、全ての点において唯は芽衣に勝てるところがなかったのだ。
これまで唯が悠人に片思いをしながらも平静でいられたのは、彼の相手を見下せたからだった。悠人は、あたしのようなこんなにいい女が長年身近にいたというのにそのことに気がつかない大馬鹿だ。唯は自分の心の中でいつもそう呟いて自分の心のバランスを取っていた。その相手が芽衣になるともう自分に言い訳すらできなくなってしまう。
どうしよう。唯はみっともないくらいうろたえていたけど、そのことを美咲には見せたくなかった。ここに至ってもまだ唯は、活発で積極的でいつも冷静な生徒会役員というイメージを壊したくなかったのだ。
「教えてくれてありがと」
唯は、彼女の片思いを知っている唯一の女の子にお礼を言い、その後に相当無理をして強がって見せた。
「でも、あたしこういうの慣れてるから。悠人が女を変えるたびに一々気にしてたら体が持たないよ」
唯は美咲ににっこりと笑って見せることまでしたのだ。
「それならよかったけど。唯のこと心配でとにかく話しておかなきゃって」
その時、唯は再び美咲も好きな子を失ったということを考えた。美咲は、あんなにも恋焦がれていた芽衣を失ったのに唯の心情を心配してくれている。
美咲の表情からは暗い感情はは見受けられなかった。考えてみれば自分の好きな子が男と付き合い出したというのに、それをわざわざ唯のために報告してくれることすらおかしい。
美咲は唯が悠人に長い片思いをしていることを知っていたけど、彼女は自分が好きな子を失った時に人の恋まで気にするようなタイプではない。
前にも感じたことだけど美咲は基本的には自分中心な性格をしている。その彼女がこんな時に唯のことを気にするはずがないのだ。
「あたしなんかより美咲の方が辛いでしょ? こんな時にあたしのことなんか気にしてくれてごめん」
唯は美咲に探りを入れた。
「ううん。唯はお友だちだし。それに」美咲は声をひそめた。「わたしは初めから芽衣に受け入れてもらえるなんて思ってなかったから」
そう話す美咲の表情には、やはりあまり思い悩んでいる様子はなさそうだった。
「今日は悠人さんと芽衣は一緒にいるんだ」
美咲がぽつんと言った。
唯に声をかけるまで、放課後美咲が一人でいた理由はそういうことだった。唯が悠人を好きなことを知っているから、美咲は今日屋上で唯に報告してくれたのだけど、それでもいつものように芽衣と一緒に帰れるのなら、唯への報告なんか後回しだったろう。
つまり、今では美咲も校内でも放課後の帰り道もひとりぼっちになったのだ。多分これからずっと。二人が付き合っている限りは。
ところがそういうことにはならなかった。
たしかにそれからは芽衣と悠人が一緒にいるところを見かけることになったけど、その頻度はそれほど高くはなかった。これまでの悠人の彼女とは異なり、芽衣は悠人のことを最優先することなく、むしろ美咲と一緒にいる時間の方を優先したようだった。
芽衣は悠人の告白に応えたことに対して美咲に引け目というか申し訳ない気持ちを抱いている。だから日々の暮らしの中でなるべくこれまでどおり美咲と一緒に過ごすようにしているのだということは理解できた。その甲斐もあってか、芽衣の気持ちを悠人に持って行かれた美咲もあまり動じている様子がなかった。
でもそれならそもそもなんで芽衣は悠人の気持ちを受け入れたのか。好きになるというのは少しでも一緒にいたいということではないのだろうか。それともこんなことを疑問に思うのは、自分が男性とつきあったことがないからなのかと唯は考えた。
さらに言えばこの状態は悠人が芽衣に軽んじられている感じがして、唯は少しだけいらだちを感じた。あのプライドが高い悠人が、自分の彼女からこんな扱いを受けているのによく我慢しているものだ。しゃくだけどそれだけ芽衣に惚れているということなのだろうか。
学園内ではこの二人のカップルは概ね好意的に受け止められていた。少なくとも芽衣については、悠人の歴代の彼女たちと違って男女問わず人気があったから、芽衣が悠人の告白を受け入れた結果、学園内好感度第一位のカップルが誕生したことになった。
いくら芽衣の気持ちや行動を観察したとしても益はないと唯は思った。それで悠人が唯のことを好きになるわけではないのだ。自分の仲のよい子が悠人と付き合うなんてこれまで考えたこともなかったけど、起こってみると芽衣が悠人にベタベタしないこともあって、意外と感情面で波乱は起きず、唯が芽衣に対して嫉妬することはなかった。そしてそれは美咲の気持ちにも当てはまっているようだった。
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