第11話
唯が志望校を変更したのは小学校五年の二月の二日だった。その日、六年生はほとんどが一日に続いて二日目の受験に挑んでいて、塾の教室にはいつもと違って一学年少ない数の小学生たちが中学受験塾の明徳校の校舎に集まっていた。
授業は当然普段どおりあるのだけれど、その日にみんなが期待していたのは、校舎の入居しているビルの一階に張り出される掲示物だった。
そこには個人名は出ない。少し遅れて新聞の折り込み広告として各家庭に配布される広告には、その年の合格実績とともに了解の取れた生徒の合格体験記が掲載される。顔写真とともに。
そうした広告を待つまでもなく、校舎前に掲示された合格実績を眺めただけで先輩たちの戦績はだいたい理解できた。教室の六年生の中で、ただ一人だけ受験していた中学校の名前は掲示板にはなかった。つまり悠人は第一志望校の明徳大学付属明徳中学校に不合格だったのだ。
やがて、悠人が明徳に落ちて第二志望の富士峰学院に合格し、そこに進学するということが塾の先生から唯の耳に入った。もともと明徳は男子校だから、彼女は早い段階で悠人と同じ中学に入ることは諦めていた。
ところが、悠人が明徳に不合格になり共学校の富士峰に進学したことにより、悠人と同じ学校に進学するという新しい道が開けたのだ。
そうなると唯が志望する学校は自ずと絞られたが、問題は志望校の偏差値や合格可能性を見れば、彼女が富士峰を第一志望にすることは、この地域の中学受験の常識ではありえないということだった。
唯は塾の先生たちに詰問され問いただされ説得された。それ以上に両親からは、いったいなんで志望校のレベルをわざわざ下げるのかと聞かれた。 その疑問に答えようと思えば答えられないこともなかったが、悠人の自分への気持ちがわからない彼女が、子どもっぽい恋愛事情に流されて志望校のレベルを下げたとは言えなかった。
だから唯の家庭は中学受験の志望校を巡ってぎくしゃくするようになってしまった。
それでも一年後、志望校について塾や家庭でもめるだけもめた際の辛さは報われた。唯は富士峰の制服を着て富士峰の校門をくぐった。校門の先には悠人が彼女を待っていて、彼女に声をかけ新入生の集合先である本館ホール前の受付まで連れて行ってくれた。
悠人のようなイケメンの上級生にエスコートされる新中学一年生の唯に、同じ新入生ばかりか女の先輩たちの羨望のまなざしが集まっているのを感じた。優越感と悠人への愛情が唯の中にあふれ出した。両親とけんかしてまで偏差値の高い女子校ではなく富士峰に入学してよかったと心から思った。
ただ、唯が富士峰に入学したことを悠人がどう考えていたのかはわからなかった。彼は入学したての彼女を校内を案内したことによって、唯を学園内で有名人にした。そのことにより本来地味な性格の彼女は余計なプレッシャーを受けることになった。それでもそんな彼女にも女子の友人はできた。
入学して一年目、同じクラスになった子と仲良くなった。最初にできたその友人は美咲という名前だった。とにかく可愛らしいというか女らしい子で、そういうところはよく男みたいな性格だと言われてきた唯とは正反対だったけど、それがこの子とうまが合った原因かもしれない。仲良くなってよく話すようになって感じたのは、美咲は見た目はとても女らしいけど、他の大人びた同級生の女の子たちみたいに男子への関心は全くないということだった。
見た目に反して、まだ子どもだったのかもしれない。彼女の外見は幼いとは正反対でちょっと見にはすでに高校生のように見えたけど、中身の方は年齢どおり中学一年生そのまま幼い感じがした。そして、幼さのなせる無邪気な行動なのか、男子には興味のなさそうな彼女は、女子の友だちにはすごくフレンドリーだった。
女友達への距離感が近すぎて、唯は接近してくる彼女の顔や手から自分をガードしたくなるのを我慢していたくらいだった。それでも、同じクラスになった彼女とは親友となり校内ではいつも一緒だった。他の女の子たちからはよく夫婦とかって言われてからかわれるほどだった。
美咲と仲良くなった中学一年の頃、まだ十二歳の彼女が高校三年生の男子に告白されたことがあった。驚いた彼女がその彼を拒絶したにもかかわらず、その先輩に執着されつきまとわれた。まだ幼さを残した美咲は困惑し、迷惑し、彼の行動を嫌悪した。それでも、この間まで小学生だった彼女が、十八歳の男子にその感情を伝え彼をいさめるのは難しかった。
正直に言うと、唯はその手段を使いたくなかったのだ。多分、本能的に美咲を警戒していたのかもしれない。ただ、自他ともに親友として認め合っている美咲が、高校三年生の先輩に精神的に追い詰められていくのを座視しているわけにはいかなかった。こうしたことを相談できるのは悠人しかいなかった。
「とんでもねえやつだな。ロリコンじゃねえか」悠人は唯の相談を聞くとそう言い捨てた。「わかった。毎日昼休みに美咲って子の教室来るんだな。明日、俺が行って注意してやるよ」
悠人はそう言ったけど、唯は不安だった。悠人だって中二の男の子に過ぎない。高校三年生にどうやって注意するのだろう。でも、そんな心配は結果的には無用だった。
その日の昼休み、一年生の教室に入り込み、いつものように美咲を見つめながら露骨に迷惑がっている彼女に話しかけていた三年生の先輩は、悠人に腕をつかまれ教室の外に放り出された。憤って悠人に掴みかかった先輩は、逆に悠人に制止され床に倒されたのだ。
悠人に何かあったらという心配は無用だったのだが、別な心配も生じることになった。悠人に助けられた美咲が赤みを帯び恥じらった表情で、小さな声で悠人にお礼を言ったのだ。助けられたのだからお礼を言うくらいは当然だけど、顔を赤くして感謝の言葉を述べた美咲の真意を理解するのは難しいことではなかった。唯は自分自身の手で自分の恋のライバルを作り出してしまったようだった。
幸いなことに、悠人は自分が助けた美咲の好意にはあまり関心がないようだった。
悠人がこの学校で女子たちからもてていることは入学してすぐにわかった。
ただ悠人にはかりそめの恋の相手は多かったのかもしれないが、本気で付き合った女の子はいないようだった。
彼は女子よりもヒップホップのダンスに熱中していたのだ。だから、唯の睨んだとおり美咲が悠人のことを気にしていたとしても、悠人に相手にされることはなかったのだと思う。
さらに言えば、唯が思うに、悠人は唯のことを女として見てはいないかもしれないが大切にはしてくれていた。だから、悠人が唯の親友を真面目な気持ちなしに付き合ってもてあそんだりすることはなかっただろう。
その後、そうして自分を安心させてざわつく胸をなだめていた唯だったが、結局中学校時代に悠人と美咲の仲が進展することはなく、しばらくすると、唯ももうそういう心配をすることはなくなっていた。
美咲も別に悠人に執着する様子も見せなかったので、美咲の気持ちを唯が勘違いしたのだろうと彼女は思った。それで悠人との仲を心配する必要もなくなったこともあって、唯はこれまで以上に美咲と仲良くなった。
中三になって、唯は生徒会役員にならないか誘われた。富士峰学院の生徒会は中学も高校も共通で、生徒会長と副会長は高校生から選ばれることになっていた。
残りの役員である会計と書記には学年制限も選挙もなく、その選出は生徒会長に一任されていた。唯は当時高校二年だった会長から書記にと誘われたのだった。
書記となって生徒会のメンバーを見渡すと、だいたいが成績がよく、かつ時間を取られる部活に参加していない生徒が多かった。唯はここで自分の居場所を見つけた。
当時の唯は美咲と一緒にいるとき以外に学校でくつろげる時間はなく、美咲以外に心を許せる友人もいなかった。この学園は規則も緩く、大切な六年間を生徒たちに自由に楽しく過ごさせるというのが校是だったため、周囲の女の子たちも部活に熱中するか恋愛に熱中する子たちが多く、そのどちらにも属さないのは少なくともクラス内では唯と美咲だけだった。
生徒会役員たちは普段は生徒会活動に身を入れており、活動が忙しくないときは勉強やささやかな趣味の話をして時間を潰していた。ここは美咲と一緒にいる教室以外で、唯一唯にとって心地よい場所となった。生徒会内で仲のよい子もできたこともあり、唯は放課後生徒会室に入り浸った。
生徒会役員になると、これまでどおり放課後を美咲と一緒に過ごすことはできなくなり、彼女はそのことをひどく残念がって唯を責めた。
「何で生徒会なんて面倒くさいところに入るの? これじゃわたし、唯と一緒に帰れないじゃない」
美咲は部活動をしていなくて、唯もそうだったから、これまではほぼ毎日、放課後は美咲一緒に帰宅していた。それができなくなったことについては、唯も美咲に申し訳ないと考えていた。
ただ、それにしても美咲の言い分は、徹頭徹尾完全に自分本位な視点からのものだった。まるで束縛の強い恋人が言いそうなセリフみたいだった。そのことに少し違和感を感じながらも、美咲を放課後に一人きりにしてしまったことは事実だったから、唯は美咲に謝った。
ようやくしぶしぶ納得した美咲は、放課後に会えない分を埋め合わせるように、休み時間を唯の側にべったりとくっついて過ごすようになった。そのため、唯はこの子のやたら近い距離の取り方にもだいぶ慣れてきてしまった。
そんなある日、美咲は珍しく顔を赤くして緊張した様子で、生徒会のないその放課後屋上に来てくれない? と唯に言った。
放課後、唯が屋上に通じる階段を上りきり重い鉄製のドアを苦労して開くと、夕日の中に美咲のシルエットがぼうっと浮かんでいるのが見えた。逆光になっているためその表情は覗えなかったけど、教室で話せばいいものをわざわざ放課後の屋上に呼び出すくらいだから、彼女は大切な秘密の用件を抱えているのだろうと唯は思った。何となく硬直したような彼女の姿勢からその緊張ぶりが伝わってくるみたいだった。
唯に気がつくと、美咲は唯の方に寄ってきたので、ようやく彼女の顔がはっきりと見えた。やはり緊張しているようで、その表情は何か薄ら笑いしているようにも見えた。
唯はすぐにわかった気がした。この子にもついに好きな男ができたのか。ちょっと人より遅れてるかもしれないけど、美咲もちゃんと成長しているのだ。唯はそんな彼女に対して、まるで母親であるかのような感想を抱くとともに少しだけ彼女を羨んだ。唯の好きな男は自分を女としてみていないし、かりそめだとしても一応常に彼女のような子がいた。悠人を好きでいる限り、唯は顔を赤くして親友に相談することすらできない。ただ、そんな美咲が話し出した内容は唯の想像のはるか斜め上を行くものだった。
美咲は緊張しているせいかずいぶん早口でしゃべりだした。そのため最初は何を言われているのかしばらく理解できず、何度も聞き直したくらいだった。
「・・・・・・中学生の頃から」
「女の子のことしか・・・・・・」
「最初は勘違いだと思ってたんだけど」
「わたし、女の子しか好きになれないみたい」
ようやく彼女の言うことが少しづつ理解できてきた。美咲は自分が同性しか恋愛の対象にできない人だということを唯にカミングアウトしたのだ。唯は彼女にかける言葉を脳裏に探りながら彼女の言葉を聞いていたが、そのうち彼女はとんでもないことを言い出した。
「それでね。今、わたしが一番気になっていて・・・・・・その、好きだと思うのは唯なの」
え、あたし? 唯は親友の美咲から好きだと告白されたのだった。正直予想だにしなかった事態だった。冗談で済ませるならそうしたかったけど、美咲の表情は受け流すにはあまりにも張り詰めていた。唯は、美咲に悟られないように心の中でため息をついてから彼女に返事をした。
「ごめん。あたしは美咲の気持ちに応えられない。本当にごめんね」
美咲は一瞬表情を暗くしてうつむいた。そのまま沈黙が続いた。ごめんねの後、なぜ美咲の気持ちに応えられないか話すのを待っているのだと唯は思った。それを言わずにこの場を納めることができないことは唯にもわかっていた。精一杯の告白を受けたからにはいい加減に返事するのは失礼だろう。ただ、どこまで理由を話すか、どの理由を話すか彼女は一瞬悩んだ。そして、とっさに正直に自分の気持ちを披露することに決めた。
「美咲のこと嫌いじゃないよ。女の子が好きっていうことも別におかしいとは思わない」
美咲は唯の方を見たけど何も反応しない。続けて、唯は誰かに初めて話すことを口にした。
「あたしね、片思いだけど好きな人がいるの。昔からずっと好きだった人」
そう告白すると初めて美咲が反応した。
「唯って好きな子いたの?」
美咲は予想外の答えにぶつかったかのように困惑した様子で唯に聞き返した。
この子は同性愛とか無理と言って断られることしか予想していなかったようで、唯が美咲以外に好きな人がいるという事実そのものに驚いたようだった。
無理もない。美咲だけでなく校内の知り合いはみなそう思うだろう。唯はそう思った。
色気もない男のようなあたし。周囲の恋バナに加われないあたし。自分のことはよくわかっている。美咲のように、普通に男の子と恋愛しているクラスメートのように女の子らしかったら。唯にだって、勇気を出して悠人に告白するという選択肢だってあったのだ。
美咲とは親友だと思っていたけど、その美咲ですら意外だったのだろう。恋愛する資格すら持っていない唯に恋する相手がいたなんて。
「美咲も知っている男の子」
それから美咲からの無言の圧力に負けて唯は続けた。
「志賀悠人。もちろん片思いだし、悠人はあたしの気持ちなんか気づいてもいないけど」
「・・・・・・そうか。唯の好きな人は志賀先輩なんだ」
「うん。笑ってもいいよ。あいつすごくもてるし、身の程ほどらずでしょ」唯は自嘲的に言った。
「そんなことないよ」
美咲は今失恋したばかりなのにそう言ってくれた。
「それでも、やっぱり悠人のこと好きなの。だからごめん」
「そっか・・・・・・わかった」
そう言った美咲ははうつむいて静かに泣き出した。唯は美咲の肩を抱いた。彼女とは付き合えないけど、親友を失いたくはなかった。
「これまでどおり友だちでいてくれる?」
唯はそっと彼女に声をかけた。美咲が泣きながらうなづいた。唯は一言付け加えた。
「心配しないで。このことは誰にも言わないから」
その晩、唯はベッドで横になりながら今日の出来事を思い返した。胸がざわついて精神が安定しない状態なので、一度思い返して考えた方がいいと思ったのだ。
美咲の性的指向については、学校の授業でさえ、ジェンダーとかダイバーシティーとかインクルージョンとか、そういうカタカナを駆使した話を先生がしているのだから、それが同性に向けられていてもショックではなかった。だから、彼女の落ち着きのなさは美咲のカミングアウトのせいではない。
ではなぜ心がざわめくのか。考えていくと、やはりそれは美咲のみならず唯の方も望んでいないカミングアウトを強いられたからだと気づいた。
彼女は、幼なじみの悠人が好きだという気持ちを、これまで自分の胸だけに秘めていて誰にも話をしたことはなかった。それは主に自分への劣等感からだった。
明るくスマートでおしゃれなクラスメートの女の子たち。悠人が連れて歩いているまるでファッション雑誌の読者モデルのような子たち。そんな子たちの存在を知っているのに、自分が、見栄えもせず地味で、男っぽく、友だちも美咲しかいない自分が悠人を好きだなんて誰にも知られたくなかった。
美咲は親友だった。彼女と恋人同士にはなれなくとしても、この先親友ではいたかった。悠人への恋心を話さずに彼女の告白を断るのは誠実ではないと思ったから、唯は美咲に話したのだ。このさえない自分が、属するカーストと異なる位置にいる悠人に片思いをしていると。
美咲はどう思っただろうか。今は失恋で自分のことしか考えていない彼女も、そのうち唯が自分を振った理由を思い返して吹き出して笑うのではないか。
もうそれ以上考えても自虐的になるだけで胸のざわつきは収まらないようだった。彼女は諦めて部屋の照明を消して眠りにつくことにした。
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