第5話
大輝は帰宅すると自分の部屋のベッドに転がって天井を眺めた。芽衣の感触が手や唇に残っている。
あのときは意味なんか何も考えなかった。磁石同士が引き寄せられるように、自然と身を寄せあったのだが、芽衣と別れてひとりでいるとあの抱擁とキスがどういう意味を持っているのか、芽衣の意図は何だったのが気になった。
彼氏の嫉妬深さや拘束するような言動に嫌気がさしていたところ、たまたまそのタイミングで疎遠になっていた幼なじみと再会した。何度か会っているうちに彼のことが気になるようになった。もしそうなら嬉しい。
無理もないことだが、芽衣と再会してから二度も彼女を抱擁したこともあって、大輝も芽衣のことが頭から離れなくなっていた。ただ、いくら何でもそれは楽天的な妄想だろうという気もする。彼氏の愚痴を聞いたくらいで、芽衣が彼氏と別れたがっていて、自分に気があると考えるのは思考の飛躍ではないか。
でもそれならなぜ、二度も彼と抱き合って、今日はキスまで許してくれたのか。それとも本心では怒っていたのか。そう考えると彼は芽衣に一方的にセクハラしたのかもしれない気がしてきた。彼女は幼なじみに対して強く拒絶できなかっただけなのではないのか。
このあたりの話はいくら考えても結論の出るものではなかった。それこそ芽衣本人に聞くしか答えは出ないだろう。回答のない思考の繰り返しに陥った大輝はいつの間にか寝てしまっていた。
翌日の夕方、大学の講義のあと大輝は再び待ち合わせをしたファミリーレストランを訪れた。
「秋田さん、こんにちは」
「朝倉さん」大輝はすでに席に着いていた美咲の方に向かいながら言った。「待たしちゃってごめん」
「いいえ。わたしも今来たとこです」
おととい三人で会ったファミレスで、大輝は美咲の向かいの席に座った。
ここまでのやりとりは、何だか恋人同士の有名なやりとりを男女逆にしたような感じで現実感がない。朝倉美咲と会うのは三度目だけど、二人きりで会うのは初めてだった。
今朝、大輝は起きてすぐに美咲からLINEのメッセージが来ていたことに気がついた。未読のまま六時間くらい放置してしまっていたその内容は、今日どこかで会えないかというものだった。芽衣のことで相談があるということなので、彼は了解するメッセージを送信すると、待っていたかのようにすぐに感謝と待ち合わせ時間と場所を問い合わせる返信が来た。
可愛い女の子からの誘いとか、以前の大輝なら舞い上がって喜んでいただろう。でも、芽衣と抱き合ってキスした後だと、心は全然浮かれない。芽衣のこと気にしすぎてるからだ。
「昨日はごめん。早く寝ちゃってLINEに気がつかなかった」
「こちらこそごめんなさい、突然誘ったのに来ていただいてありがとうございます」
美咲が恐縮したように言った。
「相談があるんでしょ」
注文を取りに来たウェイトレスにアイスコーヒーを頼んでから、彼は美咲に話を促した。
「そうだったんですけど」
心なしか申し訳なさそうな雰囲気で彼女が答えた。
「どういうこと?」
「昨日連絡したときは先輩と芽衣のことを相談しようと思ってたんですけど」
「え?」
相談ってどういうことだろう。前に会ったとき疑っていたように、彼氏と芽衣の不仲を大輝のせいだとまだ考えているのか。
「この間も話しましたけど、先輩が芽衣の浮気を疑ったせいで、あの二人最近ぎくしゃくして雰囲気悪かったんです。それで芽衣は学校サボっちゃったみたいなんですよ」
その日に彼が芽衣の家に行ったことを美咲は知らないようだった。
「で、今日、芽衣は学校に来たんですけど、休み時間に先輩がうちらのクラスに来て」
大輝は何か嫌なことを聞かされる予感がした。
「呼び出した芽衣に先輩が頭を下げて謝ったんです。そしたら芽衣もにっこりして、別れ際に先輩に手を振ってました」
美咲は苦笑いしながらそう言った。
「その日は校内でずっと二人で過ごしてみたいだし、わたしが心配するまでもなく仲直りしたみたいです」
大輝は腹の下の方が冷え冷えと重くなっていくのを感じた。芽衣が自分を好きなわけがないと予防線を張るように自分に言い聞かせていても、やはりしがみついてキスを受け入れた芽衣の好意を期待する気持ちがあったのだろう。
だから、悠人と芽衣が仲直りをして、芽衣が男に笑いかけ、二人で手をつないでどこかに行ったことを聞いて、こんなにうろたえショックを受けることになったのだ。
「秋田さん?」
美咲がいぶかしげに彼を見ている。大輝の沈黙を不審に感じたのだろう。
「あ、うん。それなら解決じゃん。よかったね」大輝は無理をして笑って見せた。
「秋田さん無理してない? 大丈夫?」
急に美咲が砕けた口調になった。
「大丈夫って何が?」
彼は平静を装った。
「ううん。大丈夫ならいいの」
美咲が言った。
「それより十一月十日はちゃんと予定を空けておいてね」
芽衣と美咲の学校の学園祭のことだ。
「うん、ちゃんと覚えてるよ」
先ほどのショックから少し立ち直り落ち着いてきた大輝は、美咲の言葉遣いが気になってきた。決して不快ではないのだが、美咲は何を考えているのか。
「あ、ごめんなさい。ちょっと馴れ馴れしかったですよね」
彼の顔色を察したのか美咲が慌てて言った。
「いや、そんなことないよ。むしろうれしいよ」
「じゃあ、秋田さんのこと大輝さんって呼んでいいですか?」
美咲は少し真面目な表情になった。
「うん、もちろん」
彼には反対する理由はなかった。
「じゃあ、大輝さんもわたしのこと美咲って呼んでくださいね」
「わかった。美咲さんって呼ばせてもらうよ」
ずいぶんと過剰な美咲の好意に戸惑いながら大輝も言った。戸惑いはあるが決して不快な感じはしない。おかげで芽衣に対する失恋のような感情を和らげてくれている。わざとそうしてくれているなら高校生離れした洞察力の持ち主だが、それこそ考えすぎだろう。
「美咲でいいですよ。大輝さん、芽衣のことは呼び捨てじゃないですか」
「いや、それはさすがに言いづらいよ」
美咲にだって再会当初はちゃんづけで呼んでいた。呼び捨てになったのは、思わず昔の癖が出たからだった。
「じゃあ、ちゃんづけならいいや」
美咲が譲歩した。
「ありがと」
「ありがとって変なの」
彼女が笑った。
先ほどから続く呼び方のくだりのせいか、大輝の気持ちはだいぶ和らいできた。
「芽衣と美咲ちゃんって前から仲いいの?」
いつまでも芽衣の話題を避けてもいられない。大輝は思い切って芽衣の名前を口にした。
「中学に入ったときはお互いによく知らなかったんです。で、高一で同じクラスになって仲良くなった感じです。高校二年でも同じクラスです」美咲が言った。
「それで仲良しなんだ」
「はい。校内でも校外でもずっと一緒ですね」
二人は親友で、普段から芽衣と美咲は一緒に過ごしているらしい。
「ただ、志賀先輩が芽衣に告って二人が付き合い出してからは、芽衣と一緒にいる時間は減りましたけどね」
「それはそうだろうね」
大輝は駅ビルで芽衣と彼氏が一緒にいたのを目撃したことを思い出した。
「それでも先輩よりわたしの方が芽衣と過ごす時間は長いかなあ」
「そうなの。芽衣は彼氏より美咲ちゃんの方を優先しているんだ」
「そうですね」美咲が言った。「そもそも、芽衣ってそれまで男に興味ないって感じだったんですよ。だから、芽衣が先輩の告白に応えたときはびっくりしました」
芽衣と彼氏の馴れ初めの話になってきた。だいぶ心が落ち着いていたのにまた少し胃が重くなった。
「あの二人いつから付き合ってるの」
「高二になってからです。もともと先輩が芽衣を好きなことなんか見え見えでしたけど、先輩にはその頃彼女がいたんで、表立っては芽衣に迫れなかったんだと思います。でも芽衣も先輩の気持ちには前から気づいてたと思いますよ」
思っていたより詳しい内情を美咲は話した。当然ながら大輝と芽衣が会わなかった期間は長く、その間には芽衣にもいろいろあったに違いない。ドライブのときに少しそういう話もしてたけど、そのときは生々しい話はまるで話題になっていなかった。
「芽衣もそいつのこと好きだったってこと?」
「うーん」
美咲が少し考え込んだ。
「先輩の好意に気づいてはいたでしょうけど、芽衣が以前から彼を好きだったとは思えないんですよね」
それでも今では芽衣は志賀悠人と付き合い出して手をつないで笑いあっているのだから、芽衣も志賀が好きになったのだろう。そう見極めができると、大輝はだんだん心が落ち着いてきて冷静に芽衣のことを考えられるようになってきた。
「告白に応えて今日まで付き合ってるんだから、今はそいつのこと好きなんでしょ」
「まあそうですね」
美咲が少しいたずらっぽく笑った。
「大輝さん、志賀先輩とは面識ないんでしょ。そいつとか呼んでると芽衣と先輩の仲に嫉妬しているみたい」
「違うよ」
大輝は慌てて言った。
「誤解は解けたみたいだけど、先輩が大輝さんのこと気にしているのも確かなんで、あまり芽衣と二人きりで会って先輩を心配させないでくださいね」
美咲が改まった様子で言った。
「そうするよ」
これからはなるべく芽衣とは会わないほうがいいのかなと思いながら彼は言った。
「三人で会っても嫉妬されるみたいなこと芽衣も言ってたしね」
「言ってたって」
美咲が少し驚いたように彼を見た。
「大輝さん、芽衣と話したんですか」
芽衣が学校をさぼった日に彼と芽衣が一緒にドライブに行ったことを美咲は知らないのだが、彼は思わず口を滑らしてしまった。
「実は昨日芽衣と会った。美咲ちゃんから芽衣と連絡が取れないって聞いたんで」
「芽衣のことが心配になって会いに行ったんですね。隠さないで言ってくれたらいいのに」
「別に隠したりしてないよ。返す絵本を間違えてたんで、絵本を返すついでに様子を見に行っただけだよ」
実際には絵本は返せなかったのだが。
「芽衣が、先輩は大輝さんに嫉妬してるって言ったんですか」
「まあ、うん」
「芽衣も何でそんなことわざわざ話すかなあ。大輝さんの気を引こうとしてるのかな」
「気を引くって」
美咲の口調には珍しくとげが感じられた。
「ごめんなさい。考えすぎですよね。でも、そんな相談を芽衣が大輝さんにするくらいなら、先輩が嫉妬するのもなんかわかるような気もします」
「そもそも二人はどうやってその先輩と知り合ったの? 同じ部活?」
彼は美咲に聞いてみた。
「先輩ダンス部だし、わたしと芽衣は部活してないから同じ部活じゃないですけど・・・・・・」
そこで美咲は言葉を切った。
「なんでそんなこと聞くんです?」
「いや、その先輩に嫉妬されたり疑われてるのはおれだし、いろいろ事情を知っておいた方がいいかと思って」
彼はそう言ったが、やはり芽衣とその先輩の仲が気になっているからというのが本音だったので、それは単なる言い訳だった。
「それはそうですよね」
美咲が彼の言葉を疑わずに言った。彼は、この裏表のない素直な少女に嘘をついていることに負い目を感じた。
「唯って子がいるんです。わたしとは中学入学時から今までずっと同じクラスの子なんですけど」
「富士峰ってクラス替えしないの?」
「毎年ありますけど、唯とはずっと同じクラスなんです」
「すごい偶然だね」
「そうなんですよ。それもあって彼女は芽衣と同じくわたしの親友なんです」
「そうなんだ」
すごく仲良しだと思っていた芽衣と美咲だが、美咲にとっては芽衣だけが唯一の親友というわけではないらしい。考えてみれば芽衣の学校での人間関係なんか何も知らないわけだから、いちいち驚くようなことではないのかもしれない。
「中学時代は唯とは周りの子から夫婦とかって言われてからかわれてました」
美咲が微笑んだ。
「高校になって芽衣と唯も同じクラスになってからは、三人で仲がいいです」
「そうなの。三人一緒のところは見たことがないんで知らなかった」
「唯は生徒会長だし学園祭の実行委員長でもあるので忙しくて、普段は学園の外では一緒に遊ばないんです。今度学園祭に来てくれたとき唯に紹介しますね」
「うん。それでいつも美咲ちゃんと芽衣の二人なのか」
「はい。唯は志賀先輩の幼なじみなんですけど」
それだけでもう大輝は芽衣とその先輩との接点がわかった。
「中学のとき唯が志賀先輩をわたしに紹介してくれたんです。それからですね、先輩と仲良くなったのは」
「そうなんだ」
「高校生になったとき芽衣と同じクラスになって仲良くなって、それで唯が芽衣にも志賀先輩を紹介したんですけど、志賀先輩は芽衣に一目ぼれだったみたいです」
そのとき大輝の頭に一つの可能性が浮かんだ。とはいえそれは推測に過ぎないし軽々に話していいのかもわからない。彼が少し考え込んでいると美咲が彼の方を見た。
「そうなんです」
「え、何が」
「大輝さんが考えているとおりにわたしも考えました。唯が志賀先輩のこと好きなんじゃないかって考えてましたよね?」
なんでわかったのだろう。どうも彼女はこと恋愛に関しては高校生離れした洞察力の持ち主らしい。
「ちょっと考えただけだよ。ひょっとしたらその唯って子、志賀ってやつを追いかけて富士峰に入ったんじゃないかって」
「唯は何も言わないけど多分そうだと思います」
もし芽衣が唯の気持ちを知っていて志賀の告白に応じたのだとしたら、その行動はちょっと素直に応援できるようなものではない。彼自身の芽衣に対する印象もだいぶ違ってくるだろう。
「でも、芽衣はそんなこと知らなかったと思いますよ」
美咲が再び彼の気持ちを見抜いたように言った。「芽衣の性格からして唯の気持ちを知ってたら先輩と付き合ったりしないと思います」
ここで会話が途切れた。しばらくして、美咲がからかうように大輝に言った。
「なんで男子校に入ったんですか。共学だったら芽衣も大輝さんを追いかけて同じ中学を受験したかもしれないのに」
「そんなわけないよ」
美咲のからかい交じりの揺さぶりにだいぶ慣れてきた大輝は冷静に返した。
「明徳を受験したのは偏差値が見合ってたから。それに明徳なら大学まで内部進学できるからね」
「明徳は内部進学があるんですよね。中高が男子校しかないなんて不公平ですよね」
「みんなそう言ってる」
明徳の付属校はこのあたりには彼の母校である男子一貫校しかない。他県には明徳大学系列の共学校もあるのだが、ここ明徳市からは通学範囲外だった。
「話がそれちゃいましたね」
自分で話をそらした張本人の美咲が言った。
「だから芽衣は略奪女じゃないですよ」
「そうは言ってないけど、唯って子にとっては芽衣のせいで失恋したことになるんじゃないの」
「まあ、そうですね。でも唯は芽衣を責めたりしてないし、普通に仲良くしていますよ。それは校内で先輩と芽衣がいちゃいちゃしているのを眺めているのはつらいと思いますけど」
「そうだよね」
唯という子の気持ちは、芽衣が彼氏とデートしているところを眺めていたときの自分の気持ちと一緒かもしれない。まして、大輝は久しぶりにそれまで思い出しもしなかった芽衣を見かけたときのことだけど、唯という子は、わざわざ同じ学校を受験までして追いかけてきた志賀悠人が、自分の仲のいい友だちと一緒にいるところを毎日のように見せつけられるのだとしたら。それは自分には想像できないくらいつらいかもしれないと大輝は思った。
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