第4話
その晩、帰宅してから彼は自室に入って、机の上に置いてある絵本を眺めた。色彩豊かな表紙の絵を眺めていると、なにか違和感を感じた。昔から好きだった古ぼけた絵本。古ぼけた? 彼はそこで間違いに気がついた。
古ぼけた絵本はさっき紙袋に入れてすべて芽衣に返してきた。彼の手元に残るのは新たに手に入れた一冊だけのはずだが、机上にあるそれは古い思い出の絵本だった。この間購入した絵本と返す絵本を取り違えたのだ。両者が同一のものなら別にいいが、あいにく取り違えた絵本は別物だった。 彼はどうしようかと考えたが、このことで芽衣にわざわざ連絡をするのは気が引けた。芽衣がこの絵本のシリーズにそれほど思い入れのないことは彼にもわかっていた。わざわざ取り替えにいくほどのことではない。だから大輝はもうこのことは考えないようにした。
翌朝、大学で必修の講義が休講となった大輝は、出勤する母親を車で最寄り駅まで送っていった。そのままコンビニで昼食を買い込んで帰宅して、一日ゆっくりと過ごそうかと考えていたところに美咲から、昨日友だちに追加したばかりのLINEでメッセージが来た。
昨日会ったばかりなのに何だろう。少しの期待を理性で押さえながらアプリを開いた。
『昨日はありがとうございました。わたしまでごちそうになっちゃってすみませんでした』
絵本を借りたお礼に芽衣にごちそうしようと思っていたのだが、昨日は美咲も一緒だった。芽衣の分だけ支払いするのも気がひけて、二人におごったのだが、その結果、美咲からお礼のメッセージをもらうことになった。ただ、その後にもメッセージが続いたので、美咲はお礼だけのためにLINEしてきたわけではないようだった。
『今日学校に芽衣が来なくてLINEしても既読にならないし、先生も芽衣から連絡がないって言ってました。ご両親にも連絡がつかないみたいです。秋田さん何か知らないですか?』
芽衣が学校を無断欠席してるようだけど、もちろん彼にはその理由なんてわからなかった。不思議なのは、なぜ美咲は彼がその訳を知っているかもしれないと考えたのかだったけど、とりあえず彼は知らないと返信した。
『そうですよね。芽衣と秋田さん付き合ってるわけじゃないですもんね。やっとそれが実感できました』
『あと、話変わりますけど、今度うちの学校の学園祭があるんですけど、招待するので来ませんか? 昨日のお礼じゃないけど案内しますよ』
唐突に話題が変わった。
『お礼とかいいけど、誘ってくれるなら行こうかな』
大輝は返信した。
これが対面での会話だったらこんなに冷静に言葉を返すことは難しかっただろう。女の子から学園祭に招待される。これが高校生の頃だったらどんなに嬉しかったか。それでも、ようやく彼にも自分が美咲に好かれているらしいという実感がわいてきた。
『やった! 十一月十日ですから予定空けておいてね。時間とかはまた連絡しますね』
了解です、と返すとそこでメッセージは止んだ。彼はしばらくベッドにあおむけに寝そべって、年下の女の子からの誘いについて何度も繰り返し考えていたが、しばらくすると芽衣の無断欠席と連絡がつかないことを考え出してしまった。
大輝が心配することではない。ついこの間までは何年も顔を合わせず口も聞いていなかった仲なのだから。それでも聞いてしまうと芽衣の身に何が起きているのか気になってくる。特に本人だけでなく両親にも連絡がつかないとはどういうことなのか。
たまたま連絡に気がつかないということもあり得るけど、悪く考えれば三人に何か事故が起こって連絡もできない状態だという可能性もある。考えすぎ、心配しすぎだと思い直して音楽をかけてこのことはもう忘れようとしたけど、うまく考えを切り替えられなかった。
こんなに気になるなら家に訪ねてみればいいのだけど、家から芽衣なり芽衣の母親なりが出てきたときに何と言えばいいのだろう。芽衣が心配で訪ねてきましたとは恥ずかしくて言えない。
そのとき彼は絵本のことを思い出した。そうだ。間違えて取り違えた絵本を返しに行けばいいのだ。これなら訪問の言い訳にはなる。このまま心配し続けるよりはその方が手っ取り早い。彼は起き上がって外出の準備をし、車のキーを持って部屋を出た。
二十分後、車を運転して芽衣の家の前に着いたとき、彼は肝心の絵本を忘れていることに気がついてうろたえた。
彼は車を芽衣の家の前の路上に駐車し、ドアの前でインターホンを押すかどうか迷った。ここに来て急にためらいが胸中に生じていた。芽衣が出てきて大輝の訪問に対して、迷惑そうな表情で用件を聞かれたらどうしよう。言い訳するための絵本すら彼は忘れてきてしまったのだ。一度自宅に帰って絵本を持って来るか。そう思って車の方に戻ろうとしたとき、目の前のドアが開いた。
「何してるの?」
大輝は驚いて跳び上がりそうになった。突然開いたドアの奥に芽衣が立って彼を見ていた。部屋着なのか白いパーカーにショートパンツ姿だ。
「大輝君なんでいるの?」
芽衣が戸惑ったように聞いた。
「いや、あの」
大輝は口ごもった。芽衣には彼が恐れていたように迷惑そうな様子こそないが、なんでいるのか理解できないという表情だ。もうこうなったら本当のことを話すしかないと彼は思った。
「美咲さんから芽衣が休んでいて連絡が取れないって聞いて、その、つまり心配になって」
「それで見に来てくれたんだ。わざわざありがとう。ごめんね」
戸惑っていた彼女の表情が和らいだ。その言葉と表情からは、少なくとも迷惑そうな感じは受けなかったので、大輝はようやくほっとして気分が落ち着いてきた。
「美咲のやつ余計なことを」
芽衣がぼそっと文句を言った。
「返事がないから心配したんでしょ。LINEくらい見ればよかったのに」
彼はショートパンツから伸びた芽衣の白い足から意識して目を逸らした。
「そういや今日携帯一度も見てないや」
「どうしたの? 体調が良くないの?」
改めて芽衣を見ると顔色は普通だ。
「ずる休み」
芽衣があっさり言った。
「え、何で」
「とにかく入って」
芽衣は彼を家の中に招じ入れた。大輝はリビングに通された。おばさんはいないようだ。ソファに座らされた彼のもとにコーヒーカップを二つ持った芽衣が来て、彼の横に座った。
どういうわけか正面に座らずに隣に腰掛けたので幸か不幸か芽衣のむき出しの足から目をそらしていることができた。
「彼に会いたくなかったから。昨日美咲が言ってたの覚えてる? 誤解だって先輩に言ってくれるって。昨夜のうちに美咲が電話してくれたの。本当に全部先輩の誤解だって。そしたら彼、昨日わたしが大輝君と会ってたことに怒っちゃって。わたしにLINEしてきて、なんでそんな男と外で会うんだって言うの」
「そんな男」とは大輝のことなのだろう。どうやら悠人は本気で彼に嫉妬しているらしい。
「貸した本を返してもらってたじゃだめなの?」
「それも美咲が言ったし、そもそも二人きりじゃなくて美咲もいて三人だったって言ってくれたけど、納得しないの」
「ただの昔の知り合いと一緒にいただけで怒られるんじゃ芽衣も大変だね」
「本当だよ。既読無視してたら電話してきて、それにも出なかったんだけど、そうしたらLINEで二十件くらいメッセージが来てね。もう見るのも嫌だから既読つけるのもやめちゃった。だから美咲のLINEにも気がつかなかったの」
「それで今日欠席したのか」
「だって、今日学校行ったら絶対先輩に問い詰められて嫌な思いするもん。だから今日は休んじゃった」
「それにしても学校に連絡しないのはまずいんじゃないの」
「だって体調不良とか嘘つくの嫌だし」
「今日、おばさんはいないの?」
「うん。昨日からパパと一緒に泊まりがけで親戚の法事に出かけてる。週明けまで戻ってこないの」
「先生がおばさんたちに電話しても出なかったらしいよ」
「ラッキー。明日までは怒られなくてすむな」
「明日には親と学校の先生に怒られるんじゃないの」
「それはそうだけど今そういうこと言わなくてもいいじゃない、意地悪。だいたい大輝君にだって責任があるんだからね」
「なんでだよ」
「だって先輩が嫉妬してるのって大輝君にだし」
「おれに嫉妬って完全に誤解じゃないか」
「あの人意外と独占欲が強いの」
意外と言われても彼には悠人の性格など知る由もない。
「ダンスで全国大会で優勝したんでしょ。テレビで見たことある。女の子にもてそうなのにね」
「すごくもててる。それでも嫉妬深くて独占欲が強いの。いい加減いやになっちゃう」
いやになるくらいなら、いったいなんでそんな男と付き合っているのだろう。彼はそう思ったけど、口には出さなかった。芽衣との関係性を考えるとそこまで踏み込んで問いかけるのは行き過ぎだろう。
「まあ、病気じゃないならよかったよ」
彼はソファから立ち上がった。
「心配してくれてありがと。もう帰っちゃうの?」
「車をこの家の前に路駐してるから」
「そうか。いいなあ車。わたしも運転したい」
「高校卒業したら免許取ればいいじゃん」
「そんな先まで待つのかあ。ねえ」
芽衣が首を傾げた。
「今日何か用事ある?」
「ないよ。休講だから一日寝て過ごそうと思ってたとこ」
「じゃあ、時間あるならさ。どこかにドライブに連れてってよ」
いきなりの芽衣のリクエストに大輝は戸惑った。彼氏に身の覚えのない疑いをかけられてうんざりしている少女の言動ではないのではないか。それほど悩んでいるわけでもないらしい。これでは逆に芽衣の彼氏に同情したくなってしまう。
それでも、大輝は芽衣のお願いにうれしさを覚えた。その感覚は美咲から学園祭に誘われた時と同じものだった。
「別にいいけど。学校サボってドライブとかやばくない?」
一応、うれしさを表情に出さないように自制して大輝は言った。
「車に乗ってれば誰も見ないよ。ねえ、行こうよ」
「彼氏にばれたらどうするの?」
「別にドライブするだけでやましいことないもん」
「いやいや。三人で会ってただけで嫉妬する相手でしょ」
「ばれなきゃいいんだって。ね、いいでしょ」
「まあ、芽衣が平気ならおれは別にいいけど」
「よし! じゃ、ちょっと着替えてくるから待ってて」
「わざわざ着替えなくても」
「これ部屋着だし。それにこの格好だと大輝君、落ち着かないみたいだし」
「何言ってるの」
大輝は慌てて言った。それでもじろじろ見るなと言われるよりはましだった。
「海を見に行こうよ」
三十分後、芽衣の言葉に従い大輝の車は自動車道に入り、海岸の方を目指していた。この間送って行ったときとは違い、芽衣は助手席に座っていた。ショートパンツ姿ではなくなったため、目のやり場に困るということはない。
それにしても車に乗った瞬間から芽衣のよくしゃべることに大輝は驚いた。雨の日の送りや絵本を借りたときより数倍はしゃべっている感じだ。今までの疎遠だった時間を埋め合わせようとするかのようだった。
喋っている内容は、二人が共有する過去の思い出から二人が疎遠になっている間の芽衣の出来事などだった。彼は思い出には懐かしく、彼の知らない芽衣の話には興味深く聞きながら相づちを打っていた。
「海見えないね」
話が一区切りしたところで芽衣が言った。
「まだ海岸まで出てないから」
この道路は内陸部を縦断して海辺に行き着くが、そこに着いてもすぐには海は見えない。海岸沿いに風砂の害を防ぐための砂防林が海岸線に沿って約百メートルの幅で植樹されているからだ。
大輝はふと美咲から富士峰学院の学園祭に誘われたことを思い出した。
「そういえばさ、朝倉さんから学園祭に誘われた」
そのことを芽衣に黙っているのもおかしいので、思い出してよかったと大輝は思った。
「そう」
芽衣はあっさり返事した。
「美咲も積極的だなあ」
「そういうのじゃないと思うよ」
大輝は少し焦って言った。これまでの饒舌が嘘のように芽衣は少しの間黙り込んだ。
「大輝君が来てくれてもわたしは案内できないから。彼と一緒だし」
やがて芽衣がぽつんと言った。
「ああ、うん。彼氏がいるところでおれと話したらまずいよね。疑われてるならなおさら」
大輝が慌てて言った。
芽衣と一緒に学園祭を回れるとは思っていなかったが、顔を合せて美咲と芽衣と三人で話くらいはできるだろうと思っていた。でも、よく考えれば嫉妬深い彼氏がいる校内でそんなことができるわけなかったのだ。どういうわけか彼は少し失望していた。
「あのさ」芽衣が言った。
「うん」
「大輝君はどう思う?」
芽衣が真面目な顔で彼を見ていた。
「どう思うって?」
「わたしと大輝君って幼なじみじゃない?」
「そうだね」
「そういう大輝君の存在って、やっぱり先輩はライバルみたく気になるのかなあ」
「おれと芽衣ってさ。これまで全然会ってなかったじゃん。幼なじみって言ったって小学校の頃でしょ。だから普通ならそんな男のことなんか気にしないなんじゃないの」
「そうだよね。久しぶりに会って車で送ってもらったって話したのがまずかったかのかなあ。先輩すごく焦ってたし」
彼氏が焦るほど芽衣は愛されているのかと彼は考えた。
「そもそもおれの話を彼氏に話す必要なくない?」
「だってわたしたち幼なじみじゃない。それを彼に黙っている方が誠実じゃないと思ったの」
「ごめん。おれにはよくわからない」
大輝にはそう言うしかなかった。本当にわからなかったからだ。その言葉を最後に車内を沈黙が覆った。
そのとき、車が砂防林を抜け、車のウインドウから開けた海岸線が目の前に広がった。
「わあ。きれい」芽衣がはしゃいだ声で言った。
これまで砂防林に遮られて見えなかった長い海岸線が現れた。海岸は湾曲しながら景色の奥の一点に向かって収束しながら続いている。
浜辺の先には海が真昼の垂直な光線に照らされて青く輝き、砕ける白い波が次々と海岸に押し寄せている。目の前をさえぎっていた密集している砂防林が消えて景色が開けたので、その景色はよけいに開放感にあふれ美しく見えた。
海岸にはたくさんの人がいる。サーファーなどマリンスポーツを楽しむ人に加えて、観光客らしき人たちも長い海岸線を思い思いに散策しており、晩秋の平日だというのに祝祭日のような陽気なムードが漂っていた。
「平日でも人が多いんだね」
「天気いいしね。芽衣もいい日にサボったね」「うるさい」
芽衣がそう言って笑った。さっきの嫌な沈黙が海辺の光景に払われたように消えていた。
「どこまで行きたい?」
大輝はそろそろこのドライブの行く先が気になってきた。芽衣は気分転換したいだけなのだから、明確な目的地をイメージしてはいないと思うけど、運転する方はいつまでも漫然と運転しているわけにもいかない。海を見るという目的が果たされたあと、この先どこに行けばいいのか。
「そういうところ変わらないなあ」
芽衣が右手の海の方を眺めたままぽつりと言った。
「変わらないって何が」
「いつもわたしのしたいこととか聞いてくれるとこ。小学校の頃そうだったもんね」
「そうだっけ」
自分ではあまり覚えがない。
「先輩は全部自分で決めたがるからね。デートの行き先とかどこで食事するとか全部彼が決めてる」
「そうなんだ。でも芽衣ってそんなにおとなしく他人が決めたことに従うタイプだっけ」
意表を突かれたように芽衣は海から目をそらし大輝を見た。
「そういや人に従うって昔はなかったなあ。彼は先輩だからかなあ」
「まあ、年上と付き合ってるんだもんな」
「うん」
「それでどうする? このままずっと行くと隣の県に入っちゃうけど」
「海も見たしもう戻ってもいい?」
そう聞かれても別に大輝が来たくて来たわけでもない。別にいいよとしか言いようがなかった。
「じゃあ、戻ろう」
彼は次の交差点で右折し、内陸を抜けて自動車道路のICを目指すことにした。帰路の車窓から見える景色は、別に面白いわけでもきれいなわけでもない。そのせいか、再び沈黙が車内を覆ったけど、それは別に不安になるようなものでもなかった。単に話すことがないと言うだけで、居心地の悪さを感じることはなかったのだ。
やがて大輝の軽自動車は再び芽衣の自宅前に着いた。
「今日はありがとう」
芽衣が降りる前に言った。
「いや。おれも久しぶりに海にドライブできて楽しかったよ」
大輝も思っていることを素直に口にした。芽衣が彼の手を取った。軽自動車の車内は狭く運転席と助手席の間隔も近い。大輝はそのまま芽衣を自分の方に引き寄せ抱きしめた。全く抵抗なく抱き寄せられた芽衣に彼はキスした。芽衣の両手が彼にしがみつくように背中に回された。
しばらくして唇が離れると芽衣は彼の肩に顔を埋めた。彼女の細い髪が彼の頬を柔らかくくすぐった。
どれぐらいそうしていただろうか。
「今日はありがと」
芽衣はそう言って彼の腕から抜け出して車の外に出た。少し上気した顔で、彼女は小さく手をひらひらと振った。
「またね」
大輝はしばらく車内で呆然として、芽衣が消えていった家のドアの方を眺めていた。
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