第3話

 その晩、大輝は絵本の入った紙のバッグを持って芽衣の家を辞した。絵本は無事に借りられたのだが、彼にはそのことより、帰り際に芽衣とLINEの友だち登録をし、電話番号を交換したことの方が収穫のように思えた。絵本を読み終わったら連絡できるようにと、芽衣の方から連絡先を交換しようと言ってくれたのだった。

 もちろん芽衣には彼氏がいるわけだが、彼のことを男として意識しているのではないにせよ、大輝に好意的な態度を示してくれている。

 大学に入ってからそういう距離の近い女性がいないこともあって、大輝にはそれが嬉しかった。たとえ疎遠になっていた幼なじみと再び男女の仲ではない付き合いが戻っただけだとしても。

帰宅した大輝は、仕事から戻っていた母親に芽衣の母からの挨拶を伝えた。母親は彼と芽衣の接近を喜んだようだった。

「ママがきっかけを作ってあげたんだから感謝しなさいよ」

 母親が言ってから首をかしげた。

「芽衣ちゃんに彼氏がいなかったらねえ。あんたにも可能性が」

「ないよ」

「それもそうか。あんたとじゃ釣り合わないもんね」

 翌日、朝一番の講義のあと次の教室への移動中、振動したスマホを見るとメッセージが来ていた。SMSを開くと知らない携帯番号からだった。

『突然ごめんなさい。先日車で家まで送って頂いた朝倉です。まだお礼も言っていなかったので、芽衣にお願いして大輝さんの電話を教えてもらってショートメールを送らせてもらいました。送っていただいてありがとうございました』

 携帯のキャリアのショートメールサービスは電話番号でメッセージが送れる。芽衣と連絡先の交換をしたが、最初のメッセージは芽衣ではなく美咲からだった。彼は三号館の入り口脇で立ち止まり、とりあえず無難な返信を送った。

『気にしないでね。わざわざメッセージありがとう』

 しばらくディスプレイに美咲が返事を入力中の様子がうねうねと表示されていたが、やがて新しいメッセージが届いた。

『この間お会いしたあと、学校で芽衣から大輝さんのことをいろいろ聞きました。昔はすごく仲がよかったんですってね。芽衣が今度また三人で会おうって言ってたので、そのとき改めてお礼させてくださいね』

『ありがとう。でもお礼とかいいですよ。またね!』

 この間、車で送ったときといいこのメッセージといい、美咲は彼に好意を持ってくれているようだ。自分に自信がなく猜疑心が強い大輝でも、さすがにそう認めざるを得なかった。家に送った夜、芽衣もそういうことをほのめかしていたことが改めて思い出された。

 年下の女子から好意を示されることは素直に嬉しい。大輝は思わずいろいろな妄想を思い浮かべた。

 美咲と自分が付き合ったとした周囲の反応はどうだろう。相手が高校生なので、大学生の彼女がいる友人たちからはロリコン呼ばわりされかねないが、前にも考えたとおり年齢はそんなに離れていないのだ。

 そういう可能性を妄想しながらも、いまいち浮かれていないのは芽衣がいるからだった。彼はあの夜以降、抱き寄せた芽衣の細い肩の感触を繰り返し思い返していた。

 あれは、彼氏ともめた芽衣が一時の慰めを求めただけで、異性として彼への好意を示したわけではない。そう自分に言い聞かせても、寄り添ってきた芽衣のきゃしゃな感触が脳裏から離れないのだった。

 自分の不安定な感情を持て余したあげく、彼はもう考えるのを諦めた。なるようにしかならないのだ。彼氏のいる芽衣を思い続けるのは不毛だ。それに、この間再会するまで芽衣が自分を覚えていることすらないと考えていたのだ。それならば美咲の好意を素直に受け止めた方がいいのかもしれなかった。ただ、三人で会うことが簡単に実現するとも思えなかった。

 ところが三人で集まる機会は意外と早くきた。講義の合間や帰宅してから寝るまでの間を利用して、彼はスカーリーおじさんの絵本をすべて読み終えた。

 といっても絵本なのでぼうっと眺めつつページをめくっていたら、芽衣から借りた五冊すべてを読み終えていた。

 読み終えたら返す約束をしていたから、その夜、大輝は芽衣にLINEでメッセージを送った。芽衣からはすぐにメッセージではなく音声通話がかかってきた。

「大輝君と電話で話すの初めてだ」

 電話の向こうで芽衣が言った。

「そうだっけ」

「まだ子どもだったから携帯とか持ってなかったじゃない。しょっちゅう会って一緒に遊んではいたけどね」

「うん。あれ、芽衣って小学校のとき携帯買ってもらってなかったっけ」

 大輝がまだ携帯電話を持たされていなかった時期に、二歳下の芽衣が先に携帯を持っていたような記憶がある。多分、芽衣と会わなくなる直前くらいではなかったか。

「やっと芽衣って言った」

 芽衣の笑い声がした。

「この間は芽衣ちゃんって言ってたのに」

「あ、ごめん」

 思わず芽衣を呼び捨てにしていた。昔はお互いに芽衣と大輝君と呼びあっていた。呼び捨てをためらって二人の仲に少し敷居を作っていたのは彼の方だったのかもしれない。

「ごめんじゃない。芽衣って呼んでいいよ」

 芽衣が言った。

「わたしは携帯持ってたけど、大輝君が持ってなかったでしょ。それよか絵本全部読んだ?」

「読んだ。つうか見た。懐かしかったし、それ以上に新鮮で面白かった。ありがとう」

「どういたしまして。もともと大輝君の絵本だもん」

「いや、あげたものだし返すよ」

 芽衣って呼んでいいよとはその方がうれしいということか、文字どおりそう呼ばれてもいいくらいの意味だろうか。

「そう? じゃあ返してもらう。わたしも久しぶりに見たくなったし」

「宅急便で送るか家に行っておばさんに渡しておこうか」

 本当は芽衣と会って返せればと期待しながら大輝はそう言った。そしてその期待は裏切られなかった。

「どっかで会おうよ」

 芽衣が言った。

「芽衣ちゃんがよければそれで」

「芽衣ちゃんじゃないでしょ」

 芽衣が少し不機嫌そうに言ったけど、その声はすぐに明るさを取り戻した。

「じゃあ、日程とか調整してまた連絡するね」

「調整ってなに?」

 日程なら自分と調整すればいいんじゃないのか。それとも彼氏の了解でも得るのだろうか。

「また連絡するから」

 芽衣はそう言って一方的に通話を切った。


 調整するとは美咲との日程調整のことだったようで、三日後の昼時に大輝は芽衣と美咲と駅前のファミレスで待ち合わせをしていた。

「禁煙席でお願いします」

 待ち合わせ時間の三十分以上早く到着した大輝は、三人で待ち合わせだとたどたどしく申告して四人がけのテーブルに通された。

 昨晩、芽衣から連絡があったときは落ち着いて受け答えできたのだが、今朝起きて自宅を出る頃になると、どういうわけか極度の緊張が彼に訪れた。車で送ったときだって三人で一緒だったのだが、あのときはいきなりそういう状況に放り込まれたので緊張する暇さえなかった。その後の芽衣との出会いだって偶然だ。

 改めて時間を決めて三人で外で待ち合わせするのは初めてじゃないかと気がついてからは、本来の彼の性格が顔を見せ手足が震えるような緊張を覚えた。

 女の子と待ち合わせをすること自体が人生で初めてなので緊張するのは無理はないと自分でも思うが、問題はどちらの女の子と待ち合わせをしていることが彼にとってプレッシャーとなっているのか、自分でもわからなかったことだった。

 メニューを渡された大輝は、とりあえずドリンクバーを注文し、アイスコーヒーを作って席に戻った。待ち合わせ時間まで三十分もあるので、注文せずに待っているわけにもいかなかった。

 幸い三十分も待つまでもなく、華やかな感じの少女二人がファミレスに入ってきた。休日なので二人が通う学校の制服ではなく私服姿だった。

 店内に入るなり周囲を見渡した芽衣と彼は目を合わせた。芽衣は案内しようとする店員を制して、かたわらの少女に彼の方を指し示した。そのまま二人は彼の方に歩いてきた。

「早いね」

 芽衣が彼に笑いかけた。

 二人との待ち合わせを楽しみのあまり、彼がこんなに早く来ていると思われたのだろうか。そう思われるのは恥ずかしいのだが、よく考えればそれは必ずしも芽衣の勘違いではないのだ。

「こんにちは」

 美咲が首を傾げるようにして彼に笑いかけながら言った。

「芽衣に誘われたんでわたしも来ちゃいました」

「こんにちは」

 大輝は美咲に答えたが、芽衣の服装が新鮮だったため、芽衣に目を奪われたままだった。小学校の頃とは違う格好の芽衣がいる。最近よく会うようになったとはいえ、考えてみればそのときの芽衣はいつも制服姿だった。

 彼はやや長く芽衣を見つめてしまったようだった。

「秋田さん、芽衣ばっかじっと見てる」

 美咲が笑って彼に指摘した。

「そんなわけないでしょ」

 芽衣が口を挟んだ。少し頬を紅潮させていたが、照れたせいか気分を害したせいかはよくわからなかった。

「違うって」

 大輝はあわてて芽衣から目をそらし取り繕った。

「冗談ですよ。二人とも何慌ててるの」

 二人は大輝の正面に並んで座った。女の子が二人並んで彼の前に座っているという体験に彼は少しまぶしさと戸惑いを感じた。やはり、車の後尾座席にいたときとは受ける印象が違う。

 彼は急に自分の服装が気になってきた。目の前の女の子たちと釣り合っているように周囲から見えるだろうか。彼女たちは彼の服装をどう思っているのだろうか。

「何飲んでいるの」

「アイスコーヒーだけど」

「そう。ねえ、どうする」

 一つしかないメニューを開いて、芽衣は美咲に差し出した。

 それからしばらく大輝は二人に無視された。メニューをのぞき込みながら、何を注文するか相談が始まったからだ。ようやく何かスイーツ的なオーダーが決まったらしいので、大輝は店の人に声をかけた。

「これ、ありがとう」

 オーダーを取ったウェイトレスが席を離れると、大輝は借りた絵本の入った紙のバッグを芽衣に差し出した。

「うん」

 芽衣が受け取り自分の横に置いた。

「これが噂の絵本か。スカールおじさんだっけ?」

「スカーリーおじさん」

 芽衣が修正した。

「というか噂って言うなよ」

「ごめん」

「噂って何?」

 大輝が聞いた。

「ああもう。美咲は」

 芽衣が嫌な顔をした。

 大輝は不意に思い出した。この表情は昔たまに見たことがある。大輝にだけ秘密だよって話してくれたことを、彼がその日の夕方に芽衣の母親に聞かれるままぺらぺらと喋ってしまったときの芽衣の顔だ。

「この間、その絵本を大輝さんが芽衣から借りたでしょ。そのあと、芽衣の彼氏が秋田さんに嫉妬して大変だったんですよ」

「うそよ。大輝君気にしないで」

「だって本当じゃん。カラオケで先輩怒っちゃって大変だったじゃない」

 あの日、携帯で男と言い争ったあと、彼の胸に顔を埋めた芽衣の姿が思い浮かんだ。

「嫉妬ってなんで?」

「芽衣が先輩の約束を破ってデートをキャンセルしたでしょ。だから、この間カラオケで先輩が切れちゃって」

「先輩って志賀って人?」

 大輝のその言葉を聞いて、芽衣と美咲が同時に大輝を見た。

「何で知っているの」

 芽衣が驚いたように大輝を見た。芽衣はあの夜彼氏がいることを彼に話したが、大輝が彼氏の名前を知っているとは思わなかったのだろう。

 美咲も芽衣と同じように驚いているようだった。二人の視線を背負った大輝は、それを説明する義務を負ってしまったようだった。

 芽衣はどういうわけか気を悪くするというより、うるんだような目で彼を見ている。彼が芽衣の彼氏の名前を知っていると言う事実は美咲には好奇心を、芽衣にはどういうわけかある種の期待のような感情を生じさせたようだ。

 芽衣の視線の強さに彼は観念した。

「前に男の人と一緒にいるところを見かけたんだ。その人って、前にテレビで見たダンスで優勝した志賀悠人って人じゃないかなって」

「見てたの」

 芽衣が彼に言った。怒っている様子はない。

「芽衣の彼氏は一年上の志賀さんなんです。校内ではイケメンと美少女のカップルで有名なんですよ。なのにね」

 美咲はからかうように芽衣を見た。

「絵本を借りにおれが芽衣の家に行ったから?」

 あの夜にうすうす感じていたことを大輝は口にした。

「おれのせい?」

「そうですねえ。大輝さんが悪いわけじゃないけど、結果的には大輝さんのせいかも」

「違うよ。大輝君のせいじゃない」

「よくわからないけど、その志賀ってやつ、おれのせいで芽衣に嫌な態度を取ってるってこと?」

 大輝はそう言ったが、二人が何も喋ってくれないことに戸惑った。彼が助けを求めて芽衣を見るとうつむいている。

「芽衣のこと呼び捨てなんですね」

 美咲が面白そうに言った。

「志賀先輩の心配もただの嫉妬じゃないのかもね」

 そう言われて大輝は再び芽衣を呼び捨てにしてしまったことに気がついた。

「幼なじみだし、昔から大輝君にはそう呼ばれてたんだよ」

「この間は芽衣ちゃんって呼ばれてたじゃない。ひょっとしてあの後、二人に何かあったの?」

「何もないって。あんたも先輩も考えすぎなんだよ」

 芽衣はそう言ってから大輝を見た。

「大輝君、気にしなくていいからね」

「秋田さんって見かけによらず手が早いんですね」

 美咲がからかうように言った。

「だから美咲が心配するようなことは何もないって言ってるじゃん。美咲ちょっとしつこい」

 大輝は、美咲が心配するようなことという言い方が少し引っかかった。先輩が心配するようなことって言いそうなものだけど、美咲も面白がって言っているのではなく何か当事者として関わりがあるのだろうか。

「まあ、別にいいけどね」

 それにしては美咲はあっさり矛を収めた。

「でも先輩はわたしと違って別にいいけどとはなんないと思うよ」

 そのとき彼女たちの注文したパフェとケーキが運ばれてきたので、話は一時中断した。

 その後、美咲は志賀の嫉妬心については話題にしなかったが、小学生の頃の二人の仲を聞きたがった。

「一緒に登校とか下校とかしてた?」

「してたよ」

 芽衣も過去の話については、別に避ける様子もなく楽しそうに話しはじめた。一緒の登下校、放課後どちらかの家で、暗くなって帰宅を促されるまで二人きりで遊んだこと。ほんの時たま、大輝が招待されて芽衣の家族と一緒に一泊で旅行に行ったこと。

 全部芽衣が話したのだが、美咲と一緒に聞いていると、懐かしさより二人の思い出話の陳腐さの方を確認させられてしまった。

 本当に二人の間には特別な関係は何もなく、それはどこにでもいる幼なじみ同士の思い出に過ぎなかったのだと思い知らされた。最初は相づちを打ったり質問を挟んでいた美咲も、興ざめしたのか黙って聞くだけになっていた。それでも芽衣はその陳腐な思い出を話し続けた。こんなものでも、芽衣の中では特別な思い出なのだろうか。

「二人が幼いながらも将来を約束したような仲じゃなかったことはわかったよ」

 美咲がついに飽きたのか芽衣の話を遮って言った。

「それにしてももうちょっと色気のあるエピソードはないの? 幼いながらもどきどきしながら初チューしたとか」

「ないよ」

 芽衣と大輝の声が重なった。芽衣の方を見ると彼女もきょとんとした表情で彼を見ていた。

「でもさ。恋する男の直感ってあながち間違ってないと思うんだけどなあ」

 美咲が少し考えこんだ。

「恋する男?」

 芽衣が聞き返した。

「先輩だよ。あの人だって見さかいなく嫉妬する人じゃないじゃん? 何かやばいって感じたからああいう態度を取ったんでしょ?」

「彼は考えすぎてるだけだよ」

「でもさ。昔は単なる幼なじみだったけど、久しぶりの再会で成長した互いの姿を見て異性として気になったとかあるんじゃないの? 何もなきゃ先輩が嫉妬するわけないじゃん」

「またそういう話? 美咲さっき別にいいけどねって言ったくせに」

「そういやそうだ。この話はもうやめるよ」

 美咲はあっさり引き下がった。

「今度チャンスがあったら、わたしからも悠人先輩に念押ししとくよ。芽衣と幼なじみの男の子との仲は先輩の誤解で二人ともお互いを異性として意識してないって」

「うん、お願い」

 芽衣は大輝と視線を合わさずに美咲に言った。

「ついでにカラオケでのひどい態度の説教もしとく」

 その後、すぐに三人は解散した。まだどこかに行くところがあるらしく、二人は彼に手を振り街の中に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る