第2話


 次に芽衣と会ったのは二週間後の夕方だった。今までだって存在を忘れるくらいずっと話もしていなかったし、最後の別れ方も別れ方だったから、もう話すこともないのではないかとも思っていた。だから、大学からの帰りに、途中下車した駅の近くで芽衣を見かけたとき、気まずさもあり大輝はわざわざ話しかけようとは思わず、そのまま駅ビルの本屋に向かってエスカレーターに乗った。

 そういえば、この駅はこのあいだ芽衣と美咲を車に乗せた駅だが、大輝は今さらながらにこの駅が富士峰学院の最寄り駅だったことに気がついた。「よ」

 エスカレーターの後ろから芽衣に声をかけられた。

「今、目が合ったのに見なかったことにしようとしたでしょ」

 何で明るく話しかけてくるのだろう。この間はわりと気まずい感じで別れたのに。というか制服のブレーザー姿の女子高校生に声をかけられるなんて初めてだ。

「目合った? 気がつかなかった」

「嘘ばっか」

 見た感じではこの間の別れ方を気にしている様子はない。芽衣なりにこのあいだの別れ方を気にして、偶然出会った今、何もなかったかのように振る舞っているのか。

「本当だって」

 無難に返すと、芽衣は本当かなあって言う感じで彼を見上げたまま少し首をかしげた。その様子は確かにかわいらしく見えたけど、そういうあざとい仕草は昔はしなかったよなと大輝は思った。

「どこ行くの」

「本屋だけど」

「わたしと一緒だ」

 エスカレーターを降りると芽衣が横に並んだ。「何買うの」

「取り寄せた本を受け取りに行くんだ」

「へえ。どんな本?」

 また上目づかい。可愛いいけど何でだ。久しぶりに再会した幼なじみへの関心としては、少し度が過ぎてはいないか。この間はあんなに不機嫌になったくせに。

 男として彼女に関心を持たれているわけではないだろう。芽衣には彼氏がいるのだから。昔の幼なじみに対して、この間の気まずさをなかったことにしたいのか。それならそれに付き合うか。

「ちょっと言うの恥ずかしいけど、絵本」

「絵本?」

「うん。昔英語で見てた絵本があったんだけど、このあいだふと思い出して読みたくなっちゃって、取り寄せしたんだ」

「へえ。どんな絵本?」

「スカーリーおじさんていう絵本の原書」

「え」芽衣が戸惑ったように言った。

「普通知らないよね」

 それは小学生の低学年の頃、当時通っていた英語教室でよく読んでいた英語の絵本だった。擬人化された動物が登場するその物語を大輝はすごく好きだった。彼は母親にねだってその絵本を買ってらったのだが、いつのまにかどこかになくしてしまった。英語教室の方も、小学校三年の二月に中学受験塾に入ったときに辞めたので、それ以降その絵本を見たことはない。

 先日ふとその絵本を思い出した大輝が注文したその英語版の絵本が、今日本屋に入荷したのだ。

「スカーリーおじさんのその絵本」不思議そうに彼を見上げて芽衣が言った。「うちにあるよ」

「芽衣ちゃんも持ってたんだ」

 芽衣も同じ英語塾に通っていたのか。少なくとも同時期には芽衣はあの塾にはいなかったはずだ。「忘れちゃった?」

「何が」

 塾に一緒に通った記憶はない。

「大輝君からもらったの。五冊くらいあるよ」「あの本、君のところにあるの? 君に渡したんだっけ」

 大輝は驚いた。

「そうだったんだ」

「うん。前はよく読んでたけど、中学生になった頃から全然読んでいないの」芽衣は続けた。「よかったら返そうか」

 芽衣のところにあるなんて本当に考えもしなかった。いくら探しても出てこないはずだ。

「返すって言ったけど、別につまらないとかもらって迷惑だったとかじゃないよ。あの本大好きだったんだから」

 芽衣が付け加えた。

「でも、買い直すほど読みたいなら全部返した方が本も喜ぶかな」

芽衣に絵本をあげた記憶なんて全くないのに、たまたま読みたくなった絵本を取り寄せ入荷したその日に芽衣と出会って昔の絵本のありかを知る。そんな偶然もあるのだ。

 二人で話しながら歩いていると、もう本屋の前に来ていた。返してもらうにせよ注文した絵本は受け取らないといけない。

「ちょっとごめん。本買ってくる」

 レジで支払いを済ませ上質な固い紙に印刷された重みのある絵本の入った紙袋を受け取り芽衣の方に歩み寄っていくと、芽衣はスマホで誰かと話をしていた。邪魔するのも気がひけた大輝がどうするか迷っていると、彼に気がついた芽衣が会話を終え電話をしまった。

「見せて」

 芽衣が言った。

 大輝は紙袋から厚い大判の絵本を取り出して芽衣に見せた。芽衣は英字のタイトルと親しみやすい擬人化された動物が描かれた表紙をしげしげと眺めて、やがて明るい声で言った。

「よかった。これダブってないよ」

「ダブってないって?」

「大輝君なくした絵本を買い戻したって言ってたけど、これうちにないやつだよ」

「そうなの? この絵本のシリーズってたくさん出ているから間違えたかな」

「でもよかったじゃない。うちにあったの返しても同じ絵本が二冊にならないで」

「あげたやつだし返してくれなくていいよ」

「だからわざわざ取り寄せるほど読みたいなら返すって」

 しばらく押し問答した結果、かつて大輝が芽衣にプレゼントした絵本は大輝に返すのではなく貸し出されることになった。

「じゃあ早速渡すから、うちに寄っていって」

「今日これから?」

 大輝は驚いた。

「これからどっか行くの?」

「いや、家に帰るだけ」

「じゃあいいじゃない。私の家、大輝君の家に帰る途中だし」

 話がついて、大輝と芽衣は駅ビルから直結している駅のホームに向かった。偶然に芽衣と会って意外な成り行きとなったが、制服姿の芽衣と肩を並べることに何か心地よい感じがしていた。仲直りっぽくなって気が緩んだということもある。ずっと仲のよかった妹と歩いているようだ。大輝も芽衣も一人っ子だったから、仲のよかった小学生の頃は本当に兄妹のようだとお互いの母親は言って笑っていた。

「芽衣ちゃんは何か本を買うんじゃなかったの?」

 二人は大輝の絵本を受け取るとそのまま本屋を出てきてしまっている。

「別に今日じゃなくてもいいの」

 やがて二人は電車に乗り込んだが、車内は富士峰の制服姿の生徒であふれていた。大輝と芽衣が並んでいると、車内のあちこちから富士峰の生徒たちの視線を感じる。

 大輝は居心地が悪かったが、芽衣の様子をうかがうと別に周囲の視線を気にしている様子はなかったが、なにか考えごとをしているようだった。

 車内では特に会話もなく、やがて二人は自宅の最寄り駅で下車した。

 駅から十分ほどして住宅地の中に入ると、日が完全に沈みあたりが薄暗くなってきた。家々の灯りが二人の歩く道の路面にぼんやりと滲んで映っている。街路灯のあるところを通るときだけ明るさが増して、隣を歩く芽衣の表情がよく見えるようになる。この間のよそよそしさが嘘のように、親しみやすい微笑みが浮かんでいた。

 やがて二人は芽衣の家に着いた。大輝は前庭のある二階建ての家をしげしげと眺めた。

「この間は車から降りなかったから気がつかなかったけど、昔遊びに来てたのとなんか違うな。建て替えた?」

「建て替えてはいないけど、去年改築? リフォームっていうの? それをしたの」

「庭とか玄関とか感じが違うもんな」

「でも意外」

「何が」

「うちの家のことなんて覚えてないと思ってた」

「なんで」

「だってもうわたしに興味ないでしょ? 今日だって無視したし」

「してないって」

 もうわたしに興味がない、とはどういう意味だろう。大輝が悩んでいるあいだに、芽衣が鞄の中から鍵を取りだして玄関のドアを開けた。

「あがってく?」

「いや、もう夜だしいいよ」

「そう? じゃ本持ってくるから待っててね」

「うん」

 それ以上勧めずに、芽衣は家の中に入っていった。閉まったドアの前でわずか一~二分たってまたドアが中から開いた。早かったねと言おうとして大輝は開いたドアから出てきた人を見た。

「久しぶりじゃない、大輝君。ずいぶん格好良くなったわねえ」

 出てきたのは芽衣ではなかった。大輝は一目見て芽衣のお母さんだとわかった。昔はこの家に遊びにくると、よくこの人に面倒を見てもらっていたのだ。久しぶりに見ても見た目は以前とあまり変わらないままだ。

「ご無沙汰してます」

 大輝はあわてて頭を下げた。

「大輝君が来ているって芽衣から聞いてびっくりして出てきちゃった。こんな暗いところに立ってないで中に入りなさいよ」

「もう遅いですし、すぐに帰りますから」

「だって絵本を待ってるんでしょ? どこにしまったっけって芽衣がぶつぶつ言いながら部屋を探してるから、ちょっと時間かかると思うよ」

「別に今日じゃなくても大丈夫です。見つけたらでいいって芽衣さんに」

「いいから入って」

 大輝の言葉を途中で遮ると、芽衣の母親は彼の腕を引っ張って家に入れようとした。

「じゃあ少しだけ」大輝は諦めて言った。

この家の外見は記憶と違ったし内装もリフォームされていたようだが、中の部屋の配置は昔の記憶のままだった。

 玄関を入って小さなホールの正面に二階に上がる階段がある。そういえばそこを登り切った先の左側のドアの奥が芽衣の部屋だった。芽衣の母親(小学生だった彼はおばさんと呼んでいた)は、彼を一階のリビングの方に連れて行った。

「芽衣が絵本を探し出すまでここでおしゃべりしましょ」

 彼女はそう言いながら、大輝にリビングのソファに座るように促した。

「コーヒーでいい?」

「はい」

 部屋の内装というかインテリアは、記憶の奥にあるかつての様子とあまり変わっていない気がする。リビングは記憶より狭く感じられたが、部屋が狭くなったのではなく大輝が大きくなったのだろう。座ったソファは多分当時のものではない。考えてみれば最後にこの家を訪れてから十年近くの年月が流れている。それでも、部屋の匂いというか雰囲気には既視感があった。

「懐かしい?」

 ソファに座って部屋のあちこちを眺めている大輝を見て、おばさんが笑った。

「はい、コーヒー。砂糖とミルクは?」

「このままで大丈夫です」

「本当に久しぶりねえ。びっくりしたよ。今でも芽衣と会ってくれてたのね。全然知らなかった」

「いや、ずっと会ってなかったんです。この間久しぶりに駅前で会って」

「そうなの? あの子なにも言わなかったから、びっくりした。でもうれしい」

何がうれしいのかはわからないけど、大輝との再会を喜んでくれている様子は伝わってきた。

 おばさんはコーヒーを乗せてきたトレイを胸に抱えたまま、大輝の向かい側に座った。

「今夜は友だちと遊ぶから帰りが遅くなるって言っていたの。高校生が夜遊びなんかだめだって言ったんだけど、芽衣も反発して言い返してくるじゃない? それでいつも家の中がギスギスしちゃうの。だけど」

 おばさんは大輝に微笑んだ。

「君と会ったせいかな。芽衣が早く帰ってきた」

「絵本を渡したかったんですよ」

 それだけではない感じも少しあったけど、とりあえず大輝は無難に返事をした。やはり芽衣は本屋には用事がなかったのだ。芽衣の用事は友だち、つまり彼氏だったのだろう。だけど彼と出会ったせいで早く帰ったとか言われてもあまり実感がない。おばさんの話から察するに、大輝と本屋で出会った芽衣は、彼氏とのデートをキャンセルして家に帰ってきたということらしい。

「昔はすごく仲よかったじゃない、芽衣と大輝君って。でも思春期になると男女の幼なじみの仲って微妙になるしね。今でも昔のとおり仲いいなんて珍しいんじゃない?」

 おばさんが感慨深げに言った。

 そのとき芽衣がいきなりドアを開けてリビングに入ってきた。

 勢いよくドアを開けて入ってきた芽衣は、ソファに座っている大輝を見て、問いただすようにおばさんを見た。

「上がってもらったの」

「見当たらないならいいよ」

 おばさんと大輝がほぼ同時に声を出した。

「何よ。わたしには家には入らないって言ってたくせに、ママに誘われたら上がるんだ」

「芽衣がわたしに妬いてる」

 おばさんが笑った。

「ママ、リフォームしたときわたしの部屋の本とか一度ほかの部屋に動かしたじゃん。あれどこに置いた? スカーリーおじさんの絵本、そこに残ってない?」

「納戸の中かしら。ちょっと待ってて」

 おばさんはそう言うとリビングを出て行った。芽衣はその後について行かずに、大輝の隣に腰を下ろした。芽衣が大輝の方に顔を向けると、芽衣との距離が近くて、彼は思わずどぎまぎした。

「絵本のことで手間かけちゃってごめん」

 二人きりの間を持て余して大輝は言った。

「別にたいしたことないよ」

 芽衣が笑顔を向けてくれた。彼の思い込みでなければとても好意的な笑みに思える。

「いや、だけど今日は用事があったって」

「ママが言ったの?」

 芽衣は笑顔を引っ込めた。

「いつも余計なこと言うんだから」

「別に用事の内容とかそれ以上のことは聞いてないから」

 大輝は慌てて付け加えた。

 実際は彼氏とのデートだろうと推測していたことなどおくびにも出さずに。芽衣はまた微笑んで少し腰をずらして彼の方に座る位置を近づけた。「気にしてくれたの?」

「そりゃ予定を変えてもらったみたいだし」

「昔はそんなこと気にしなかったくせに」

「そうだっけ」

「年上だからってなんか偉そうだった。もっともわたしもあの頃生意気だったけどね」

 それはそうだと大輝は思った。

 芽衣は二歳年上の彼に対してため口で話してたし、遊び場所や何して遊ぶかも自分で決めたがっていた。もっともあの頃はと言うが、今でも芽衣はあまり変わっていない。

 彼が当時の芽衣のことを語ろうとしたとき、マナーモードになっていた芽衣のスマホが振動した。ディスプレイをちらりと眺めた芽衣は、ソファから立ち上がった。そのまま部屋を出て行くのだろうと思ったけど、彼女は少しためらってから座り直して電話に出た。

「さっきも電話で話したじゃん。知り合いと会って用事ができたって。どんな用事だっていいでしょ。なんでいちいち先輩にそんなことまで説明させられなきゃいけないわけ?」

 耳に押し当てているスマホから、男のいらいらしたような声が漏れ出していた。何を言っているかはわからないけど、その声に込められた怒りの感情は伝わった。

 ここにいてもいいのか彼は少し悩んだ。芽衣も芽衣だ。彼氏とのけんかなら部屋を出てからすればいいのに。

 大輝は居心地の悪さを感じつつソファで身を固くしたまま、しばらく男のいらだった声を聞いていた。芽衣はもう反論しないでただ電話の向こうの声を聞き流しているようだった。

「もう切るよ。なんでも先輩の都合に合わせたりできないから」

 芽衣は途中で、一方的に話続けている相手の話に割り込んで電話を切った。

「ごめん」

 けんかの原因が自分との用事にあることを感じ取った大輝は彼女に謝った。

「大輝君のせいじゃない。わたしこそごめんね。変な話を聞かせちゃって」 

 芽衣はそう言うと再び彼の隣に腰を下ろした。

「今のは彼氏なの」

 この間は頑なに彼氏の存在を口にしなかった芽衣がそう言った。

「うん」

 芽衣はそれ以上何も言わなかったし、大輝もほかに何を言っていいのかわからなかった。芽衣の身体が大輝に近づいた。それから彼は肩に軽い重みを感じた。芽衣が彼の肩にもたれかかったのだ。 何で自分がそんなことをしたのか後になってもわからなかったけど、彼は思わず芽衣の肩に手をかけ自分の方に抱き寄せた。芽衣は大輝に逆らわなかった。

 彼女は、そのまま大輝の胸の辺りに顔を付けたまま彼に寄り添った。二人は視線を合わせず、しばらくその姿勢でじっとしていた。

「絵本あったよ。ほら」

 ドアの外でおばさんの明るい声がした。ドアが開く前に二人は申し合わせたように身体を離し、ソファの上に座り直した。

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