Day08『こもれび』:ある昼下がりの話

 うだるような暑さに包まれた昼下がりの湖畔。

 一日遅れの天体観測のために早めの野営の準備も終わり、束の間の休息を堪能していたときのことだ。

「ん?」

 ふと気付いた違和感に思わず首を傾げた。

 まだ火を点けていない焚き火を挟んで親友と雑談をしていたのだが、先程まで視界の隅に座り込んで作業をしていたはずの幼馴染みの姿がいつの間にかにいなくなっているのである。その周辺がすっかり片付けられているので、気分転換に少し席を立ったというわけでもなさそうだ。

「どうしたの?」

「ああ。いないと思って」

 端的な説明になってしまったが、親友は難なく理解してくれたらしい。不思議そうに背後を振り返って、納得したようにひとつ頷いてくれた。

「本当だ。さっきまでそこで薬の調合してたのに」

「あいつ、どこ行ったんだろうな……?」

「夕食になるまでは自由時間だから、その辺を散歩してるのかもよ」

 彼の言う通り、夕食の準備が始まるまでは自由時間で好きなことをして過ごす日となっている。特に急ぎの用もやることもなかったために、たまには羽根を伸ばしてゆっくり休もうということになったのだ。

 テントの中で読書をしたり、湖周辺を探検しに行ったり、簡易で作ったハンモックで寝ていたりと、仲間たちはそれぞれ思い思いに過ごしている。どこで何をしていようと本人の自由だ。

 だが、何となく、妙な胸騒ぎがする。

 そんな気持ちに急かされるように立ち上がった。

「……俺、探してくる」

「そんな心配しなくても大丈夫だと思うけどなあ」

「それはそうかもしれないが……あいつ、集中すると周りが見えなくなるタイプだろ? 見てないところで何かやらかしたらと思うと不安なんだ。うっかり大怪我して歩けなくなってるかもしれないだろ」

「そっか。確かに、心配なら探すのが最善だよ。それにもうすぐ夕食を作り始める頃だと思うし」

 親友はそう言って笑った。

 その言葉に背中を押されるように、夕食の準備を始めるまでには戻る、と伝えて駆け出した。

 足が進むまま何も考えずに向かった先は、湖畔周辺で。森の木々と湖の岸辺の間は、ある程度踏みならされているのか小道のようになっていて歩きやすい。仲間の一人が同行者を連れて探検に出掛かけたように、この湖周辺を探索する者が多いのだろう。

 そんなことを考えながら歩いていたら、木々の向こうから視界に飛び込んできた光景に思わず息をのむ。

 穏やかな湖に日差しが差し込んで、水面がキラキラと反射して輝いている。その光景の中、湖岸近くの木漏れ日の中に横たわる倒木に座る、ふわふわした水色の髪を見つけた。

「レジーナ!」

 反射で名前を呼んで彼女に駆け寄った。

 こちらを振り向いた幼馴染みは目を丸くして驚いた様子だったが、その表情はすぐに屈託のない満面の笑顔へと変わる。

「ヒロ! こんなとこで何してるの?」

「それは俺のセリフだ。そっちこそ何してんだ?」

「薬の調合が終わってヒマだからお散歩してたら、こんな素敵な光景を見つけちゃって」

「確かに綺麗だな、ここ」

 頷きながら倒木の端に座った。

 肩が触れた瞬間、彼女は驚いたように小さく肩を跳ねさせてからサッと横に移動して、座るスペースを広げてくれた。その好意に素直に甘えて、腰を下ろしてから少しだけ真ん中のほうへと移動する。

 木々の葉の隙間から差し込む日差しはジリジリと熱いが、風が吹く度に葉とともに木漏れ日も揺れて僅かながらも影が落ちるのでそれほど熱くなく、また、湖畔から吹き込む涼しい空気はひんやりとしていて気持ち良い。深く息を吐いて視線を上に向ければ、遮るものが何もない湖の上には雲で飾り付けられた青空がどこまでも広がっていた。

 とても居心地の良い場所である。つい長居してしまう気持ちがよくわかる。

「……ええと。ところで、何しに来たの?」

「ああ、そうだった。姿が見えなかったから探しに来たんだ。心配だったのもあるし、もうすぐ夕食の準備を始める時間だろ?」

「そ、そっか、そうだよね。もうすぐ時間だからわざわざ呼びに来てくれたんだ。わざわざありがとね!」

 へらりと笑って彼女は立ち上がった。

 見上げたその横顔は眩しそうに水面を見つめていて、湖から吹いてくる涼風に揺れる水色の髪の隙間から覗く耳がほんのり赤い。心地良いとはいえ十分に日差しの当たる場所だから、長長居したせいで熱中症になりかけているのかもしれない。戻ったらまず水分補給をさせなければと思った時だ。

「うん、じゃあ帰ろ――っわぁっ?!」

 そう言いながら彼女は歩き出そうとしたが、その一歩を踏み外して盛大にバランスを崩した。悲鳴に近い短い声を上げた彼女の体が湖のほうへ倒れそうになるのと、咄嗟に立ち上がった勢いのまま彼女の腕を掴むのはほぼ同時だった。

「っと、大丈夫か?」

「う、うん、だいじょぶ。ありがと」

「どういたしまして。湖に落ちなくてよかったぜ」

 笑いながらそう言って、彼女を比較的地面の固い安全な場所に立たせた。

 来る前に何となく感じた胸騒ぎの正体はこれだったのかもしれない。夏間近で日差しは暑いとはいえまだ水は冷たいし、日が落ちれば湖畔からの風は肌寒いから、きっと風邪を引いてしまうだろう。彼女は今晩の天体観測をとても楽しみにしていたから、最悪の事態は避けられたことに密かに安堵する。

 彼女は落ちそうになってビックリしたのか、口数が少なく目を白黒させたまま視線を下げている。目が合わないことに、表情が少し固まっていることに、どことなく寂しさを感じてしまう。何となくでも、普段から笑顔を絶やさない彼女のクルクルと変わる表情が暗いままなのは嫌だなと思った。

「……なあ。夜にまたここに来ようぜ」

 気付けば、そんなことを言っていた。

 それを聞いた彼女は弾かれたようにパッと顔を上げてこちらを見てきた。目が合ったその表情は鳩が豆鉄砲を食ったようで。彼女からはもう憂いた様子が微塵も感じないことに内心で胸を撫で下ろしながら言葉を続ける。

「ここ、こんなに空が綺麗に見えるだろ? きっと星も綺麗に見えると思うんだ。だからさ、みんなで天体観測した後でもう一度、ここで二人で星を見よう」

 ニッと笑ってそう告げた。

 彼女は驚きで真ん丸にした目に僅かな嬉しさと期待を滲ませている。嬉しそうに口を開きかけた彼女は、しかし少しだけ躊躇った様子をみせると、戸惑ったように小首を傾げる。

「え、でも……私でいいの? だってフリィとか――」

「フリィたちは何も関係ないだろ。それに、俺はレジーナと一緒に見たいんだ」

「……! 私も! 私もヒロと一緒に見たい」

 そう言って彼女はふにゃりと笑った。

 唐突にフリィの名前を出されたのには驚いたが、彼は唯一無二の親友なので彼女なりに気遣った結果なのだろう。……しかし、彼とは仲間たちみんなで天体観測をする時に一緒に見るのだから、改めて彼と星を見るなんておかしな話である。

 彼女の自分より他人を優先する優しい性格に救われる時があるのも事実だが、嬉しいと思ってくれたんだから、こういう時くらいは自分の気持ちを優先してくれてもいいのにと思ってしまう。

 嬉しそうに笑う彼女に、思わず笑みが浮かぶ。

「なら決まりだ。夜にまたここに来て、二人で星を見ようぜ。約束な!」

「うん、約束!」

 木漏れ日の下で花咲くような笑顔を浮かべる彼女は、この光景の何よりもキラキラと輝いて見えた。

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