第6話

 6 美しい「もの」の終わり


 英磨君と目が合った瞬間に撃たれると思った。

 幸か不幸か、銃口を向けられておびえる姿は、英磨君の嗜虐性を刺激したのか、いきなり撃たれることはなかった。

「昨日は姉ちゃんとええことしとったやんけ」

 昨晩、久々津英真に鉄拳で制裁された後、手当されたのだろう、額にまかれた包帯には血がにじんでいる。

 下卑た顔。下卑た笑み。久々津英真、英修氏とそれとわかるほど似ているのに、二人にある気高さは少しも感じない。

「俺が見とるのも知っとってヤッとったやろうが、見せつけやがって」

 銃口を向ける。少しでも逃げるそぶりを見せれば撃たれるだろう。

 英磨君の背後にも久々津家の家人が駆け付けてきている。大路さんの姿も見えた。彼らにも油断なく銃口を向け、けん制する。英磨君は銃の扱いには慣れているようだった。

 家人の何人かは銃を持ち出してきている。例えば、私が乱心して銃を持ち出したとしてもおそらく、取り囲まれ射殺されるのがオチだろうが、久々津家の係累とあってはそういう手段は取れないようだった。どうにかして無傷で取り押さえようとしているが、英磨君は家人をなかなか近づかせない。

 英磨君の持っている銃はオートマチックと呼ばれるものだった。銃把に弾倉があるタイプ。銃弾の数は十数発は入るはずだ。

 もともと何発入っていたのかわからないが、十二発あったとして、さっき一発目、二発目の銃声を聞いたから十発か、それ以上はあると思っておいた方がいいだろう。弾切れは期待できない。

 そういう私が考えても仕方のないことにばかり頭が回る。

 私が英磨君に殺されるにしても、それまでいたぶるに十分な弾数はあることになる。ということに嫌なことを思いつく。

 銃口が私に向けられた。そのまま、外に向かってしゃくる。

「出ろ」

 言われるまま、私は靴も履けずに玉砂利の敷かれた庭に出た。

 背中に銃口が当てられたまま、銃口に押されるように歩く。歩くたびに玉砂利の尖ったところが足の裏に当たって少し、痛みを感じた。

「英真は?」

 わざとエマと呼び捨てにしてみる。

 英磨君は露骨に嫌な顔をした。が、気にしないふりをすることにしたようだった。

「神社や。お前の頭を打ちぬくのんを見せられんで残念や」

 久々津英真がいたら、絶対できないくせに。

「ひざまずけ」

 言うとおりにする。

 銃が後頭部に突きつけられる。遠巻きに見ている家人の誰もが、止めようとはしない。

 「ここは世間の常識やなくて水主山の常識が通用してるとこや」という大路さんの言葉を思い出す。

 久々津一族が水主山でよそ者に何をしようが、極論、殺人をしようが水主山の常識で裁かれるのだろう。今、この時のように。

 むしろ、殺されるのが水主山の者でなくてよかったとすら思っているかもしれない。

 一縷の望みは英修氏がこの場を収めてくれることだが、動けないのか、それともほかの理由があるのか、仲裁に入ってくれる様子はない。

 二発の銃声が誰に向けられたものなのか。

「最初に見た時から気に入らんかったんじゃ。死ね」

 引き金を引く直前、

「えぇぇ……いぃぃぃぃまぁぁぁああああ!」

 と、絶叫する久々津英真の声が頭上から聞こえてきた。姉ちゃんの声。引き金を引く指が止まった。

 その声は頭上のはるか遠くから聞こえた。と思う間もなく、急速に近づき、玉砂利の庭のすぐ上に。

 庭の上空に一瞬黒い影が差したかと思うと、どぉん、という轟音とともに大量の玉砂利が撥ね跳んだ。

 落下した勢いで二度、三度、跳ね、それでも勢いを完全に殺せず、塀にぶつかってようやく黒い影は動くのを止めた。

 立ち込める土煙の向こうに、塀に大きな陥没ができていた。その真ん中あたりに黒い影がある。

 黒い影は上空から落下した時のすさまじい勢いで砕け散っていてもおかしくないと思われたが、その形を保っていた。

 土煙が晴れるころ、それは人であることが分かった。

 久々津英真だった。落下した衝撃で上着は破けて、背中の刺青様が露になっている。

 ジーンズも半ば破けているが、どこも出血していない。これも刺青様のご加護というわけなのだろうか。

 久々津英真は何らダメージを感じさせることなく、平然と立ち上がる。息も乱れていない。

「なんで!」

 英磨君の絶叫

「アカンタレが、調子乗っとるからな。急いで見に来たったんや」

 そういって山の方を指さす。

 昨日は気が付かなかったが、庭まで出ると山の中腹にある神社が見えた。

 神社から屋敷まで高低差はおよそ三十メートル。それ以上かもしれない。

 刺青様の身体強化の能力をフルに使って、三十メートルを一気に落下して、屋敷に降臨して見せた、ということなのか。

 久々津英真が刺青様を受け継いだのは男性が継承した範囲よりも少ないという。それでも自殺に等しい三十メートルの高低差の落下をものともしない。

 ならば余すところなく継承した者の身体能力はどれほどのものなのだろうか。いわゆる時の権力者に決して表ざたにはせず、陰ながら使われていたのも頷ける。

 そんな場違いの感慨をよそに事態は動いていく。

「汚ないんじゃ! 何でもかんでも出しゃばってきやがって。ホンマやったら刺青様かって、俺が受け継ぐはずやったのに。くそくそくそ!」

 久々津英真は冷めた目で英磨君を見ている。

 あの継承の儀式を聞いてさえそれを受け継ぎたいと思うのだろうか。

「俺が受け継いどったら姉ちゃんに好きでもない奴とそんなことさせることなかったのに。俺がもっともっと……」

 大粒の涙をこぼし、むせび泣く。ひどく幼く見えた。

「刺青様の力で俺を小突き回しやがって、姉ちゃんなんか刺青様がなかったら、俺にも負けるくせに」

 もう英磨君の言っていることは支離滅裂だ。支離滅裂なだけにどれも本音なのだろうと思う。

「くそ! こんなこと言いたいんとちゃうのに! 俺は俺は」

「英磨」

 久々津英真が口を開く。怒鳴りつけるかと思っていたが、思いのほか優しかった。

「お前はホンマにアカンタレやな」

 慈母の眼差し。口元には笑みさえ浮かべている。

「姉ちゃん」

 英磨君が拳銃を取り落とし、駆け寄らんばかりだ。

 だが、その眼差しは直後に冷たく変貌し、英磨君にその銃を固く握りしめさせた。

「お父様はどうした?」

 英磨君の体が固まる。

「血の匂いがする」

 久々津英真の言葉にますます、英磨君の体がこわばる。

「英磨、なんで庭先でこんな騒ぎんなってんのに、お父様はおれへんのや?」

 また、英磨君の瞳に卑屈なものが混じる。

「英磨、正直に言え」

 英磨君は何も答えない。うつむいたままだ。

「撃ったんか?」

 さらに言う。

「その銃で? お父様を? あんなにお前のことを心配しとったお父様を?」

「俺は一人前の大人や!」

 一人前の大人がまず言わないことを言う。

「それで一線を超えたんか。なんでや」

「俺は姉ちゃんを解放したってくれって頼んだだけや。俺が当主になるから

……」

「ドアホがっ!」

 久々津英真は最後まで言わせなかった。

「ドアホ」

 英磨君を罵倒する声は明らかにそのトーンを落としている。

「なあ姉ちゃん。俺と二人でやり直そうや」

「何を言うてんねん。何を」

 久々津英真は頭を両手で抱えてうつむいている。

 そんな久々津英真の様子を顧みることなく、英磨君は明らかに浮かれた調子で言葉を続ける。

「姉ちゃんから刺青様の記憶を教えてもらって俺があいつらと交渉すんねん。ちょっと脅したら言うこと聞きよるって」

「何をオノレの都合のええ夢見とんじゃ。久々津の家が代々、どんだけ気をつこうて水主山を生き延びてさせてきたと思おてんねん」

「もうそういう時代と違うんやって」

「待て、英磨」

 鋭い声。英磨君が口どころか体さえぴたりと止めた。

「なんか妙な連中と連るんでへんやろな」

 黙る。再び、怒りのオーラとしか言えないものが久々津英真の体から立ち上る。

「言うたんか。水主山のことを」

「ええやんけ。水主山は変わっていかなあかんねん」

「ええことあるか! 誰にそんな題目吹き込まれたんじゃ! どうせ、お前の頭で考えたこととちゃうやろが!」

 はっとした顔で今度は久々津英真が体を強張らせる。

「そいつらにお父様を殺せと言われたんか」

「それがどないしてん」

「英磨」

 英磨君に対する怒りのオーラが急速にしぼんでいくように思えた。

 もう、久々津英真は英磨君を自分の親族と見ていない。さっきまであった憐憫の情もない。何の感情もなく、英磨君を見ている。

 その視線に一番うろたえたのは英磨君だった。

「姉ちゃん、そんな目で見んといて」

「姉ちゃんて。私はあなたのお姉さんとちゃうよ。そもそもあんた誰?」

「姉ちゃん」

「なあ、こいつ誰や」

 久々津英真が周囲の家人に問う。

 固唾を呑んで、事の成り行きを見守っていた家人は久々津英真の真意を測りかねて黙っている。

「大路さん、こいつ誰」

 大路さんに顔を向け、再度問う。

「英真様が知らないとおっしゃられるなら、わたくし共もその方は存じ上げません」

 大路さんの言葉も何の感情もこもっていなかった。聞かれたことに関して事実のみを述べているだけ、と言った風情。

 英磨君の顔が見る見るうちに青ざめていく。体温さえ1、2度下がったかのようだった。呼吸も荒くなる。

「待って、待って」

 荒い息でそれだけを言った。

「どうしたんですか? こんなところで銃を持って。物騒じゃないですか。ここは私の家ですよ。早く出ていかないと警察を呼びますよ」

 ひざまずいて二人の間でこのやり取りを見ているとサービスエリアのやり取りを思い出す。

 あの時と比べ物にならないほどの冷え冷えとしたやり取り。

 完全に久々津英真は英磨君を切り捨てようとしている。自分の肉親であろうと関係ない。肉親だからこそ、許せないのだろう。他人なら殺せば済む。

 肉親であればこそ殺せない。だから、自分から水主山を出て行けと暗に言っている。

「なんでや、なんでや」

 そんな繰り言を英磨君は言う。

 家人たちはどうするべきか迷っているようだった。

 ほんの一時間ほど前まで自分たちが仕えていた人間が、当主となった人間から勘当ともいうべき扱いを受けた。

 ならば、英磨君を拳銃を持って屋敷に闖入してきた狂人として扱うべきか、当主の気変わりした際の後難を恐れて何もしない方がよいのか。家人たちの逡巡が伝わってきた。

 そんな周囲の家人の動揺を知ってのことだろう。大路さんも静観している。

 誰も積極的に英磨君をかばおうとはしていない

「そうか! そうか! それやったら出ていったらぁ。ただし!」

 叫ぶ。血走った目で私を見る。

「こいつを撃ち殺してからや」

 銃口が私に向けられる。今の英磨君ならためらいなく撃つ。

 とうとう撃たれる。その恐怖で私の体は硬直する。

 なぜ、そんな出ていく物のついでに撃たれなければならないのか。

 久々津英真の裸身が脳裏にひらめく。鮮やかな蜘蛛の刺青。蝶を食らう刺青。私の生まれてきた意味。

 かちゃりと撃鉄を起こす音。撃たれたと思ったが、撃たれる気配はない。

 伏せた顔を上げると、いつの間にか久々津英真が私と英磨君の間に割って入っていた。銃身を久々津英真が握っているのが見えた。

「邪魔すんなや!」

 英磨君の怒声などまるで聞いていない。

 そのまま、久々津英真は銃口を自分の胸に当てる。

「撃て、英磨」

「は?」

 英磨君も私も大路さんをはじめ家人も全員が呆気にとられる。

「出ていくんやったら、あたしも殺せ」

「そんなんできるわけ無いやろ!」

 英磨君は銃口を久々津英真の額から外そうとするが、できない。

「なんで、できひんねん」

「姉ちゃん、死んでまう!」

「そんな覚悟でお父様も殺したんか。お前の邪魔をする奴は全員殺すくらいの気概でおらんと、外に出てもやっていかれへんぞ」

「俺は誰を殺しても姉ちゃんだけは殺したない」

 腕から力が抜け、銃把から手を放そうとする。

「ヘタレが。お前のフニャチンなんか土下座されたって入れさせたるか。昨日のは目に焼き付けたか? それを思い出して一生、日陰でチンチンしごいとけ」

 英磨君が一番言われたくないことを、一番言ってはいけないタイミングで平然と言った。

 英磨君の顔は見えなかったが、凄惨な顔をしていたことは間違いない。

 銃が固く握りしめられた。引き金が絞られた

 それが久々津英真の意志なのか、刺青様の意思なのかはわからないが、今、久々津英真の背中の刺青様は菩薩の姿を形どっていた。

 パンという破裂音。

 銃弾は確実に発射された。発砲煙がそれを物語っている。

 久々津英真はそこに立っている。

 背中の菩薩様の目のあたりに穴が開いていた。

 そこから血が流れる。涙に見えた。

 血涙は菩薩様の頬をつうっと伝う。

 それを最後に背中の菩薩は形をゆがめ、驚くほどの速度でただの青い染みとなった。

 刺青様は無敵ではない。矢や刀などの速度には刺青様は硬化反応できるが、銃弾の速度には反応できない。

 それが昨日、英修氏が言っていた、「まあ、鉄砲が出てきてからですな。出てきたからこっち、随分、仲間がおらんようになってしまいました」なのだ。

 久々津英真は私の方に倒れてきた。思わず抱きとめていた。

 美しき野生味を溢れさせていた顔はもう生気の消え失せた、ただの美しい顔となっていた。大学の構内でよく見た表情。

 情交を交わした愛しき体は、もう生命活動を止めていた。

 別れの言葉を聞くことも、言うこともできなかった。あのどぎつい関西弁をもう聞くことができない。

 獣の雄たけびをあげて、英磨が私を押し飛ばした。

 久々津英真の死体を抱えてただただ、雄たけびをあげている。

 さらに大路さんが駆け寄ってきて英磨と久々津英真を引き離そうとするが、なかなかできない。

 ほかの家人もこぞって大路さんに手を貸そうとするが、再び発砲音、誰かが銃弾に当たったのだろう。叫び声、泣き声。そしてまた、発砲音。密集しているから誰かに当たる。

 庭は阿鼻叫喚の様相となった。

 私は完全の蚊帳の外だった。ただ、喪失感を抱いていた。喪失感のまま立ち上がる。

 どこに行くアテもなく、ふらふらと縁側に上がり、そのまま喧噪の中心から離れる。

 誰も私のことを気にしていなかった。

 英修氏のいた部屋の障子は開いていた。なんとなく入る。

 思った通り、英修氏はいた。後頭部を撃たれていた。思いがけなかったのだろう。意外にその表情は穏やかだった。

 一瞬で久々津家が崩壊した、この現状を知ることなく死ぬことがよかったのか悪かったのか。

 英修氏が久々津家に対してどんな感情を抱いていたのか。知ろうと思えば知ることができるのだが、それはもう少し、時間をおいてからにしようと思う。

 部屋を出て縁側から、屋敷の中に入る。

 どこを歩いていたのか記憶もないが屋敷の一室に財布があった。英磨の財布だった。まだまだ、札束と言っていいくらいの額が入っていた。全く悪気なく、いただくことにした。

 そのまま、屋敷をうろうろしていると、気が付くと表玄関に出ていた。

 自分に合うサイズの靴があったので、ありがたく使わせていただく。多分英磨の靴だろう。

 外に出て、乗ってきた軽バンをのぞく。キーが付いたままだった。気味が悪いくらい運がいい。

 何も考えたくなかった。ただ、ここから離れたかった。

 軽バンに乗って、エンジンをかけ、発進させる。

 久々津家の門を出ると、加勢を頼まれたのか何人かの水主山の人間とすれ違ったが、特に誰何されることもなかった。

 来た時と同じように小さなトンネルを抜ける。

 水主山の外の世界は、ひどく光が過剰でハレーションを起こしていて、色褪せて見えた。その時は。

 運転している間のことは記憶がない。事故に遭わずに東京まで帰ることができたのは奇跡に近かったと思う。

 軽バンは駐車場を借りているわけでもないので、そのあたりに乗り捨ててきた。もう、モラルとか順法意識とかを考える余裕も何もなかった。

 自宅に帰って、何も食べずに何も考えずに眠った。

 久々津家の人間が来るならその時はその時だと思った。

 二日間寝ていた。嫌な夢をずっと見ていたが、それはまた語ることもあるだろう。

 目覚めて、初めて久々津英真が死んだことを実感して泣いた。長い間、泣いていたと思う。

 泣き疲れて、腹が減ったので近くの定食屋に行き、飯を食う。

 自分でも驚くほど食べた。いつもの倍以上。顔なじみの店主も驚いていた。

 また部屋で眠り、昼頃目覚めて、大学に行った。

 大学に行くと、こちらでも騒ぎが起きていた。

 漫研のメンバーの一人が人を殺したのだという。

 殺されたのはアメフト部の人間。意外なことに最初に因縁をつけたのは漫研のメンバーの方だという。

 アメフト部の人間が久々津英真を襲った事で、漫研は彼らを敵とみなして対立してきた。 アメフト部の面々が食堂で食事を摂っているとき、彼らの食器を一方的にひっくり返した。当然、激昂するアメフト部の一人の両耳を両手でふさぐように持ち、ミカンを両手でつぶすみたいに粉砕して見せたというのだ。

 悲鳴や非常ベルが鳴り響く中、そのあと漫研メンバーは、三階建ての部室棟の屋上に上がった。屋上に通じるドアは施錠されていたが壊されていたという。

 屋上の柵に手をかけ、彼は叫んだ。

「我は、この国の王なり!」

 失笑が起きてもおかしくない発言は、あまりにもやらかしたことのギャップが大きすぎて、音が消えたような沈黙に支配されたという。

 その発言ののち、彼は力尽きたように柵から転落した。地面に頭から落下したが、どういうことか奇跡的に無傷。そのまま警察に逮捕された。

 連行されるとき、頬のあたりにそれまでなかった青い痣があったという。

 そして、私のことを言う。

 久々津英真は相性にこだわり、セックスしていた。

 刺青様が本能の部分で久々津英真を支配して、妊娠した子供に刺青様を受け継がせようとしていると思っていたが、それは間違っていた。

 もっと直接的に継承させようとしていた。

 刺青様は生殖器にまで及んでいた。セックスの際、男性器を通じて刺青様の細胞を流し込むためだ。

 見事、刺青様を継承するに足る器に当たればよし。

 刺青様にとって愛も恋もない。ただ、次世代に血統を継承させる事のみに専心する。

 生命とはそんなものなのだろう。

 結局、授業は受けずに帰りに食料を買えるだけ買って帰ってきた。

 ベッドに突っ伏すとへその下あたりに奇妙な感覚があった。

 皮膚のすぐ下を何かが這うむず痒い感覚。

 シャツをまくってへその下を見る。痣のような青いものがそこにあった。一センチ四方ほどの小さな痣。今までそんなものは自分の体に無かった。

 だがよく似ている物をほんの数日前まで見ていた。

 刺青様によく似ていた。

 恐ろしくて凝視する。

 不意に、それはへその方に動いた。

 諦念に似た感情で刺青様かもしれない「もの」を見る。

 ペン立てに立てていたボールペンを持つ。わしづかみにして自分の腕に突き立てる。

 貫通するほどの勢いで突き立てたのに、砕けたのはプラスチック製のボールペンの方だった。

 それでも信じられなくて台所の包丁を突き立ててみるが、包丁の刃が欠けただけだった。包丁の刃の部分を右手で思い切り握る。包丁にひびが入り砕けた。

 夢であればよかったのに、痛みもないのに、現実だった。

 継承してしまった。

 覚悟を決めて目を閉じる。そうするのが正しいやり方なのかはわからないが、へその下の刺青様に意識を集中させる。

 五官以外のもう一つの器官が自分の中に開通したのを自覚した。

 刺青様を制御するためというべきか、交信するためというべきか。

 新しく芽生えた器官をコントロールする感覚に戸惑いつつも、まずは動かしてみる。

 へその下から、腹へ、右胸へ、右腕。ゆっくりと刺青様を動かしていく。

 それだけの位置に動かすだけなのに気が付けば五時間が経っていた。全身に汗をかいていた。随分と頭の奥の方が疲労している感覚があった。

 今は動かすだけならただ思うだけで、一秒かからずできるようになっている。

 移動が終われば、今度はその形を変形させるイメージを思い浮かべる。

 分裂はできないようだが、つながっていれば自分のイメージの形に変えることはできるようだった。あとは色彩までは表現できない。今の時点では。

 少し移動させては全体の形がゆがむ。もどかしい。

 夕方に始めたこの作業はすでに深夜に達していた。

 ようやく、自分の思っていたものが右の二の腕にできた。

 相合傘。久々津英真と私の名前が描かれている。決して両思いだったとは言えないが、自意識過剰と言わば言え、という気持ちだった。

 右腕にある刺青様は、それなりの出来栄えだと思った。十分満足できる。

 ひどく腹が減って、買い込んだ食料を食えるだけ食う。久々津英真も言っていたが、刺青様を維持するにはかなりのカロリーが必要とする。これからは食費がかさみそうだと思った。

 腹がくちくなり、ようやく、気が抜けてまた眠った。

 悪夢というか、過去の継承者の経験したことを追体験した。ひどく陰惨な記憶。孤独な記憶。楽しいと思えるような記憶はほとんどない。膨大な知識を無理矢理、脳に流し込まれるとはこういうことかと、恐怖した。

 こんなことを夜ごとに久々津英真や英修氏は体験していたのだろう。寝ているのに寝ていない感覚。

 ひどい寝汗をかいて目覚めた。

 携帯の時計は四時。ただ、うなされて目覚めたわけではない。ひどく感覚が鋭くなっていた。これも刺青様を継承した者の余禄のひとつだ。

 部屋の外に誰かいて、中をうかがっている。水主山の人間だろう。

 何かをするならすればいい。また、ひと眠りする。

 朝、起きて部屋の外に出る。道に出ると、男が二人立っていた。

 大路さんと英磨だった。

 大路さんの隣に立つ英磨は頭を包帯で巻かれていた。右腕は骨折しているのだろうギブスが巻かれている。左足もギブスが巻かれ松葉杖をついている。

 相当取り押さえられるのに、手こずらせたことがうかがえる。

 大路さんはさすがというべきか、荒事に慣れているのか無傷のようだった。

 その無傷の大路さんを目の前にしてさえ、数日前のような暴力のプロフェッショナルに対する恐怖を感じなかった。

 平然と二人の方に歩く。背後にやはり久々津家の人間の気配を感じた。

 動揺したのは大路さんの方だった。怖気づいて逃亡するところを捕まえる算段が狂ったのと、私の様子が以前と違うのを敏感に感じとったようだった。

 英磨はもちろんのこちらの変化に気づくはずもない。重傷と言える怪我をしてさえ、こちらにメンチを切ってきている。

 それが気に入らない。

 二人と私の間は五メートルはある。

 その距離を一歩の軽い踏み込みで跳んで見せた。二人の目の前に音もなくふわりと着地する。

 私は英磨を相手にしていなかった。大路さんの目を見る。

 私を見つめる二人は開いた口がふさがらない。

「継承したんか? いや、したのですか」

 大路さんが聞く。私はうなずく。英磨はむやみに口をはさむことをやめたようだ。表向きは静かに大路さんと私の会話を聞いている。

「気づいたのは?」

「昨日です」

「どうするつもりですか」

「どうするも何も好きにします」

「どうか、自重をしてくださいませんか」

「自重する必要はあるんですか」

「一度、水主町に戻っていただきたい」

「大路さんたちは英真や、英修さんではなく刺青様に仕えているんですか?」

「そう言われても仕方がありません」

「なら、やはり好きにさせてもらいます」

「なんじゃオラ!」

 とうとう、我慢しきれなくなったようだ。

「黙って聞いとったら調子に乗りやがって、俺は認めへんぞ!」

 英磨は無傷の左手を懐に入れる。そうすると思った。英磨から最近、かいだことのある匂いが漂ってきていたからだ。久々津英真が撃たれた時の銃の硝煙の匂い。まだ、あれを持っていた。

 そこにあると分かっていれば、銃は弱点ではない。

 懐に入れた英磨の左手首をつかむ。そのまま、握りつぶす。

 ぱき、という乾いた音。銃が懐から落ちた。

 絶叫の形に大きく口を開けられた英磨の顎を右手でつかむ。左手は英磨の頭。

 そのまま、無理やり閉じさせる。かつんと歯が合わせられる音。

 絶叫できずに英磨の口から間抜けなうめき声が漏れた。

「舐めたことしてると、今度はキンタマ握りつぶすぞ英磨」


           完

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