第5話
5.美しい「もの」の残り香
疲れ切って寝ていたが、不意に覚醒した。
変な夢を見ていた。
夢をどう解釈すればわからないまま、覚醒した時の姿勢のまま、息をつく。
もう一つ、もっと夢のような出来事があった。
あれも酔った挙句の夢だったのか。と思うが、掛け布団を独り占めにして畳の上で寝ている久々津英真が私の隣にいた。
起こさないように注意しながら、立ち上がる。行為の最中に蹴飛ばしていたらしい携帯を部屋の隅に見つけ拾いあげる。
時刻は午前4時だった。
襖の方を見る。英磨はいなかった。
のどが渇いていた。洗面所で顔を洗って、蛇口から直接水を飲む。
いくらでも飲めそうな気がした。
「水飲むんやったら、私も起こしてえや」
久々津英真が立っていた。さっきまでくるんで寝ていた掛布団を肩にひっかけている。
「ごめん」
久々津英真が歩くたびにぽたぽたと音がする。久々津英真の背後に点々と白い水滴のようなものがある。
私が放った精だった。
「あーあ、ホンマに遠慮無く、好き放題しよったな」
「好き放題したよ。してくれって言ったからね」
「ようあんなできんな。引くわ」
少なくとも床に垂れた精を一緒に拭くほどには気安さが生まれていた。
「ちょっと話せえへん?」
水を飲んで一息ついてから久々津英真が、そう囁いてきた。
承諾すると、久々津英真は先に布団に入り、片方を空けてこっちに来いと布団をたたく。
苦笑しながら私は久々津英真の横に体を横たえる。腕枕するような形になった。
久々津英真は私の胸に頭を預けてくる。甘えてくる小動物のような愛おしさがある。
「この刺青さんはな、ホンマは男にしか受け継がれへんねん」
いきなりこれだ。初めての寝物語は相当なハードモードになりそうだった。
「じゃあなんで刺青様と共生することになったの?」
「お父様がな。ちょっとしくじってしもうたんや」
要するに久々津英真が幼少の頃、英修氏の言っていた「こまごまとしたこと」の最中に瀕死の重傷を負ってしまったという。
刺青様は共生関係にあるから、宿主の生死は自身の生死にかかわる。
速やかに宿主となる者を探さないといけない。次の宿主は近親者の男が一番適しているそうだ。できるなら、13歳以上。
その時は不思議だったのだが、久々津英真のこの時の寝物語を私は居合わせたように思い浮かべることができた。
英磨君はそのころ生まれていたが、病弱であったうえ幼すぎた。
9歳の久々津英真が宿主に選ばれたのは前代未聞のことだった。何が起こっているのか知らされないまま、抱え上げらえるように神社に向かった。
水主山の神社の本殿内に英修氏はいた。周囲には神職の者が数人。その横には釜が据えられており、濛々とした湯気と大きな泡が周囲にひっきりなしに飛び散るほどの熱湯が煮えたぎっていた。
英修氏は意識はあるが動けない。血に染まった衣服はぼろぼろで素肌が露になっている。すでに刺青様は英修氏の皮膚の下で不定形にうごめいている状態だったという。
英修氏の刺青様の範囲は、久々津英真のそれよりも広く、ほぼ全身に及んでいたそうだ。
瀕死の英修氏の制御下にない刺青様はいつ皮膚を食い破って出てきてもおかしくなかった。
「英真、頼んだで。死なんといてや」
息も絶え絶えに英修氏が久々津英真に語りかけたという。
久々津英真は神職に猿轡をされ、全裸にされたうえ、用意されていた板にうつ伏せに押さえ込まれた。その瞬間。
「ううううううううううううううう!」
猿轡に阻まれ、叫び声をあげることができない。大きく見開かれた目から涙がとめどなくこぼれ、鼻からは熱い息が尽きることなく吐き出される。
熱湯が背中にかけられていた。その次に両腕、両足。
押さえつける神職にも飛び散る熱湯が掛かっているが、鋼の意思で久々津英真に身動きを許さない。
触れた瞬間に赤くなるどころか、赤黒くただれるほどの熱湯。皮下組織や神経、血管まで損傷する深度Ⅲの熱傷だった。
板に乗せた久々津英真を英修氏のもとに運ぶ。久々津英真はもう、身じろぎすることもできない。
「すまん!」
英修氏がそう叫ぶと力を振り絞り、胸のあたりの皮膚を力任せに引きちぎった。こぼれる血と何かが溢れてきた。
刺青様と呼ばれ、崇められている「もの」がその傷口から飛び出した。
皮膚の下では青く見えていた刺青様は白日のもとでは赤いアメーバ思わせた。
その刺青様を英修氏は掴んで、久々津英真の背中に押し付けた。
猿轡を噛みちぎらんばかりに強く強くかみしめられる。白い猿轡に血がにじんだ。
刺青様は久々津英真の熱傷の皮膚を覆うように蠢く。蠢きながら脆くなった皮膚のほころびに達するや、すごい勢いで瞬く間にそこから皮膚の下に入り込んだ。
激痛なのか、それともそれ以外の感覚なのか、久々津英真の体がびくんとと跳ねた。
英修氏の体にあった刺青様が皮膚の下からシートでも引き抜くように急速に消えていき、久々津英真の皮下に吸収されていく。
「ぬううううああああああ!」
刺青様が体から抜けていくのはよほどの激痛なのか、絶叫が本殿に響き渡る。
絶叫が終わるころ、英修氏の体から刺青様が消えていた。刺青様が消えた英修氏の脇腹には銃創が3つあるのがわかった。
力尽きた英修氏はその場にぐったりとうなだれる。
神職が呼吸を確認し、脈を診る。
「生きておられる」
すぐに別の板が持ってこられ、英修氏は本殿から運び出された。
残ったのは久々津英真と神職が数人。久々津英真の体のそばには、赤い刺青様が蠢いている。だが、いまや刺青様が体に入り込んでいく動きはかなり遅くなっていた。
要するに9歳の女の子の体には英修氏の刺青様のすべてを収納するには小さすぎたのだ。
久々津英真の体に入りきらなかった刺青様がどこにゆくこともできずに、その場で干からび始めていた。
干からびていくのは早い。あっという間に刺青様はカサブタみたいになって動きを止めた。
どれほど時間が経ったのか、久々津英真がびくりと動いた。その拍子に赤黒く変色した皮膚がぼろぼろと崩れる。その下にはいま、皮が張ったばかりのピンク色の皮膚が見える。そこをすぐに青黒い刺青様がインクが染みこむような動きで覆い隠す。
この時から、少女は今までの名を捨て、久々津一族の当主となり、久々津英真を名乗る。
「皮がな、グズグズになるほど柔らかないと刺青様が入ってこられへんねんて。とは言うてももうちょっとやり方あると思わへん?」
うなずくしかない。やり方はあったはずだ。
「昔からのしきたりで、お父様は熱湯の風呂に肩まで浸かったって聞いてるし、そのまた遥か昔は頭の先から足の先まで全部、熱湯につかったらしいけどな」
過酷な刺青様の継承の儀式を聞いて身震いするしかないが、どこか既視感もある。それが不思議だった。
「まあ、あたしはお父様が生きてたんが一番うれしかったけどな」
頭部より下は包帯に覆われていた英修氏の姿を思い出す。英修氏がいま、こうして生存できているのなら、死んでいてもおかしくない熱傷を負ってまで刺青様を継承する意味はあったのか。まず、英修氏がするべきは治療ではなかったのか。
「なんか言いたいことわかるけど、どっちに転ぶかわからん状況では刺青さんの継承を優先すんねん。そうやって水主山の人間は生き残ってきたんや」
今もそうだ。久々津英真は時々、不似合いなほど分別臭いことを言うが、この類まれな因習の中で育ってきたのだ。それも無理はないと思った。
ふと、見ると久々津英真は泣いていた。大粒の涙を流しながら、しきりにしゃくり上げている。
「どうしたの」
内心の動揺を抑えながら聞く。
「あたしはあたしが分かれへんねん。こんな古いとこが嫌で無理言うて東京に行って、結局戻ってきて……」
「うん」
うなずいてやることしかできない。
「ごめんな。ごめんな。こんなことに巻き込んでもて。もう一つあたし、謝らなあかんねん。多分、あたし、あんたのことそんなに好きちゃうかも」
いつ聞くにしても、このタイミングで聞きたくなかった。
「でも、抑えられへんかってん。スケベな気持ちじゃなくて。衝動があんねん。私やない何か。刺青さんやと思う。相性がいいと思ったらせえって。それに逆らわれへんねん」
ここは後から思えばだが、先に記す。
好きとか、気が合うといった心の相性ではなく、刺青様がこれと見込んだ者と久々津英真とセックスさせているということなのだろう。
おそらく継承の儀式の様子から察するに、久々津英真の神経と深く結びついているであろう刺青様の寄生する範囲は体内、それも脳まで及んでいるのかもしれない。そうなら、刺青様がある程度、久々津英真の心理を操作することがあっても不思議ではないような気がする。
刺青様を継承した人間が刺青様をコントロールしているのではなく、刺青様も人をコントロールしている場合もあるのだろう。もしかしたら、こちらが思っている以上に刺青様の知性は高いのかもしれない。
あの凄惨な継承の儀にしても、刺青様が現在の継承者から次の継承者に寄生するためにもっとも楽な方法をとらせているともいえる。
その方法がたとえ次の宿主に生死にかかわるようなものであっても、刺青様には関係がないということなのだろう。
そして、相性とはどういうことなのだろうか。
男だけが、継承できる刺青様が女である久々津英真に継承されてしまったイレギュラーな状態。
ずっと男にのみ継承されていたのは、刺青様にとって男に寄生する方が居心地がよいからだ。原始的な衝動を保っている刺青様はまた、男に寄生しようとするだろう。
だから、生殖行為を継承行為の代替として機能させている。
次の刺青様を持つ継承者を懐妊するために。
その行為が理に適っているかは問題ではない。刺青様の思惑? 本能? に適っていればよいのだ。
その時の私はただただ、久々津英真の言葉にショックを受けていた。
あれほど赤裸々なことをしたばかりなのに。刺青様の無いところのどこにほくろがあるか、知っているのに。
しょせん、私は漫研の連中と同じだ。久々津英真にとっては十把一絡げの存在なのだと、埒もなく思う。
恥ずかしい限りだ。
久々津英真はひとしきり泣いた後、寝息を立て始めた。
なんとも言えない気分だったが、自分の腕の中で警戒心もなく眠る久々津英真を邪険にすることもできない。
そのまま照明を見つめているうちに私も寝てしまった。
はっと目を覚ますともう朝だった。携帯の時計を見る。7時前だった。
久々津英真はもういなかった。残り香だけが残っていた。
また、何か夢を見たような気がするが思い出せない。
大路さんが迎えに来るまで何もする気が起きず、ただぼんやりと天井を見ていた。
そのあたりに脱ぎ散らかされた、汗まみれの自分の服を着る。不快だった。 また、大路さんの住居で一緒に朝食を摂る。
とりあえず英磨君の顔を見ることがなければ、どこでもよかった。
「お前、何したんや」
大路さんがタクアンをぽりぽりかじりながら聞いてくる。
標準語ではなく、関西弁で聞いてくるあたり少しは打ち解けようとしてくれているらしい。
「英磨さんがな、朝からピリピリしてんねん。ちょっと、あの状態の英磨さんには近寄られへん」
「何って言われても……」
「よう身に染みたやろうけど、ここは世間の常識やなくて水主山の常識が通用してるとこや」
「はい」
「お前には同情してんねん。けどな、どう立ち回るかをよう考えんと取り返しのつかんことになるで。見ること、聞くこと、やることすべてに気を遣わんとあかんぞ」
心底、私のことを考えてくれていることは、十分に伝わってきた。が、もう手遅れだと思った。
「英真様は魔性やな」
大路さんがぽつりと言う。私よりもよほど長く水主山で過ごしてきた大路さんにとっての正直な感慨に思えた。
「うっかり関わったら死ぬで、ってもう遅いか」
にかっと笑い、冗談めかして言うが、こちらは内心ひやひやしている。昨晩のことを言ったら大路さんはどんな顔をするだろう。
「もう、俺にできることはないからな。網元様とよう話合うこっちゃ。網元様には英真様も頭が上がらんからな」
あれほどのことをされても父子の情があるということなのだろうか。
「よう話して決めぇや」
「ありがとうございます」
乾いた音が2発、響いた。
大路さんが朝餉の乗ったテーブルを蹴り飛ばすような勢いで立ち上がる。
わき目もふらずに、靴も履かずに一目散に音のした方に駈けていく。
あの音。ドラマでしか聞いたことのない音だ。銃の発砲音。
もっとも聞こえてはならない場所で聞こえたから、大路さんは取る物も取り敢えず、駆けつけていったのだ。
方々から怒声が聞こえてくる。
「英磨さん!」
「何をしとるんですか!」
また乾いた音。今度は1回。怒声とバタバタする音がこちらに近づいているような気がする。
嫌な予感しかしない。
ここから出た方がよさそうだ。と、靴を履きかけた瞬間、玄関が開けられた。
「おう、ここにおったんか」
刺青もあらわに、目は血走り、口元に凶暴な笑みを浮かべ。銃を振りかざした英磨君がそこに立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます