第4話

 4 美しい「もの」に喰らわれて


 こんな時でも食欲があるのが自分でも不思議だった。

 夕餉が美味しすぎたからだ。きっとそうだ。

 離れに通されるとすでに夕餉が用意されていた。大皿に海鮮が山盛りにされている。少しだが、酒もあった。どれもお土産に買って帰りたいほど美味だった。帰れれば、だが。

 そう思うと気が重くなる。

 箸を置いて、離れの窓を開ける。日本庭園が見渡せた。英修氏と会ったあの座敷の障子も見える。塀は高すぎて越えられそうにない。離れの屋根によじ登れれば、塀も越えられそうだが、見とがめられずに登れるとは思えない。

 ただ、私が気づいていないだけで、おそらく私の動向は見張られているはずだ。下手なことをしたら袋叩きに遭うのが関の山だろう。

 落ち着いてはいるが、暴力をふるうのに手慣れていて、しかもためらわない雰囲気が大路さんにはある。

 大路さんは大きな手をしていた。そして太い指をしていた。あれを拳骨に作って振るわれたら、と思うと背筋が寒くなる。

 窓を閉める。何の能もない私はおとなしくしているしかないようだった。

 離れは浴室も備えられていた。

 正直、英修氏の話を聞いている間中、冷汗が止まらなかった。

 腹がくちくなったら、汗でべとべとする体が不快になってきた。

 今度は入浴したくなる。明日は死んでいるかもしれないのに、勝手なものだと思った。

 たかが入浴なのに、やけくそな気分で入浴した。


 離れに入ったときには、すでに私の服は洗濯されて部屋の隅に置かれていた。どこまでも行き届いている。

 浴衣もあったが、自分の服を着る。何かあった時に行動できるように。

 シャツを着ようと拾い上げたとき、何か硬いものが二つ落ちる。

 私の携帯電話だった。それと財布もある。

 藁にもすがる気持ちで携帯の電源を入れる。圏外だった。

 ですよね。

 今のところ、何かがある当てはない。

 

 奥の部屋には床が延べられていた。どこまでも……。

 腹いっぱいになって、酒も適量入って、入浴して、では当然のように急速に眠気に襲われる。

 少しだけ、眠ろう。何かあった時にすぐ対応できるように。

 布団に入る。一瞬で眠った。

 

 誰かが言い争っている声で目が覚めた。まだ外は暗い。携帯の時計を見る。1時を回っていた。

「姉ちゃん!」

 英磨君の声だ。

「なんであいつやねん!」

 英磨君がここで「あいつ」という人間は一人しかいない。私だ。

 英磨君と言い争っているのは、女性の声。久々津英真だろう。

 誰に憚ることなく英磨君は大声だ。なんで、なんで、と聞き分けのない子供のように繰り返している。

 それに対して久々津英真の声は何か話しているのはわかるが、聞き取れるほどではない。

「なんで俺とちゃうねん。俺が一番、姉ちゃんを……」

 英磨君が言い終わる前にごん、という鈍い音がこの離れまで聞こえてきた。それに続いて何かがぶつかり、割れる音。騒動を聞きつけて大路さんか誰かが来るかと思ったが、静まり返ったままだ。

 何かあるかと聞き耳を立てていると、ノックもなく離れの襖が開けられた。

 闖入者はなんの遠慮会釈もなく、次々と襖を開ける。照明を着けながら移動しているのが、スイッチを押す音とわずかに開けられた襖の隙間から漏れてくる光からわかる。

 私が休んでいる部屋も傍若無人に開けられた。

 やはり、始末されるのだと思いながら、照明を越しに見るシルエットは女性だった。

「なんや、起きとったんかいな」

 驚かそうとでもしていたのだろうか。拍子抜けした口調だった。

「で、なんで浴衣着てへんの?」

 布団から体を起こしている私を見て言う。そう言い言い照明のスイッチを入れる。そのまま、襖を閉めた。

「あんな音がしたら誰でも起きるよ」

 安堵と恐怖を感じながら、答える。

 久々津英真は浴衣姿だった。左手にタオルを持ち、右手の拳のあたりを拭っている。赤い染みができていた。

「それは?」

 タオルを指さす。

「ああちょっと英磨がな。大丈夫やで、手加減はしたから。今、うちの人間が手当てしてるやろ」

 やはり、あの音は英磨君を鉄拳で制裁した時のものらしい。英磨君に同情した。

「どうしたの、こんな夜中に?」

「あんたが来おへんから、こっちから来たんやけど」

 勘弁してほしかった。

「アホなこと言わないでよ」」

「誰がアホやねん」

 茶化す口調ではなかった。

「私のとこまでくる度胸があったら逃がしたろ思っとったのに」

「本当?」

「嘘に決まっとるやーん」

 憎たらしいことこの上ない。

 いつの間にか久々津英真は布団に座っていた。

 私と同じ目線にいる。

 じっと私の目を見る。磁力を帯びたかのような目線。久々津英真の目から目が離せなくなってしまった。

 至近距離に久々津英真がいる。

 軽バンに一緒に乗っていた時には気づかなかったが、良い香りがした。

 頭の奥が麻痺するような。息をするたびに目の前がかすむような気がした。

 これもしせい様の持つ力なのだろうか。

 あの時は弁当や食料の匂いが充満していたから、この香りに気づかなかったのだろうか。

 益体もない考えが巡る。

 頭がくらくらする。鼓動が早くなる。息が早くなる。恥ずかしいほどに下半身の一部が硬くなっていた。

 久々津英真の顔が近づく。私は身じろぎもできない。ただ、まっすぐに目を見ている。

 どう取り繕おうと、ここに見つめあう二人と言えるほどの心の通い合いはなかった。

 どちらかと言えば肉食獣の視線に射すくめられ、捕食される寸前の草食獣という構図だった。実際、私は首に歯を立てられ、喉笛を食いちぎられても抵抗しないだろう。

 このまま、終われるなら、それはそれでいいような気がした。

 情けなく、動けない私にかまうことなく、久々津英真の唇が私の唇に近づく。

 ほんの少しだけ触れ合った。

 私の体に電撃が走ったような気がした。

「チューしてそれで終わりとちゃうからな」

 一瞬のキスのあと、久々津英真が言う。

「やっぱり殺されるの?」

「自分、ホンマ、アホやな」

 あきれるように言う。

「ムードもへったくれもないわ。萎えるわー」

 久々津英真は立ち上がるや、浴衣の帯を解く。

 私が何も言えないうちに浴衣は床に落ちた。浴衣の下には何も身に着けていなかった。

 ムードも減ったくれもないのはどちらなのだろう、という考えもよぎらないではなかったが、今は久々津英真の裸身に釘付けになっていた。

 無機質にな蛍光灯の光の下で、白い裸身がさらされる。やはり目を奪われるのは、刺青様の共生している範囲だ。正面から見ると、両肩から両肘にかけて。両の乳房を避けるようにして、わき腹から太ももの膝の上まで、左右対称に刺青様が広がっている。背中には全面だろう。

 何の刺青をモチーフにしているのだろう。肩のあたりに幾何学的な模様を下地にして蝶が舞っているのは見えた。直感的にだが、不穏な感じがした。

 久々津英真のスタイルはほっそりとしている印象だったが、体のラインは出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。刺青様のおかげで(?)一層、体のラインが際立つ。

 豊かな黒髪に比べ、体には体毛がほとんどない。

 乳房の先端はわずかに桃色に色づいている。股間は見まいとするのだが、葛藤さえできずに見てしまう。恥毛はほとんどなかった。

 同世代の女の裸身を目の当たりにするさえ初めてなのに、それが久々津英真とあっては……。ただ、ただ、まじまじと見てしまう。

 美しかった。沸き上がる劣情も何もかも込みで。

「おい、スケベ、堪能したか?」

 腰に手を当てて、私を睥睨する。その口元はいたずらっぽく微笑んでいた。

 気まずかった。

「ええねんで。心ゆくまで見ても」

 優しく言ってくれるが、かえって、下を向いてしまう。

 久々津英真の足が見える。そのつま先を支点にくるりと踵を返した。

「な、見て」

 反射的に顔を上げる。久々津英真の背中が目に飛び込んでくる。背中はその半ばまで黒髪がベールのように覆い隠されている。

 両手で後ろ髪がかき上げられる。重い緞帳が開けられるように、背中があらわになった。

 そして、そのまま固まった。

「教えて」

 脳髄に響くような甘えるような声音。また、あの甘い香りが鼻腔に満ちる。意識を搦めとられていた。

「背中はどんなんになってる?」

「クモ……」

「クモ?」

「蜘蛛が蝶を捕まえて食べようとしてる」

 蜘蛛の巣の幾何学的な模様を圧するように、巨大な女郎蜘蛛が背中のど真ん中に鎮座している。蜘蛛は若干戯画化されている。蜘蛛は前足で巣にかかった可哀そうな蝶を捕らえ、今にもその鋭い牙を突き立てようとしている。

 蜘蛛の巣は腕から太ももまで精密に張り巡らされている。そのそこかしこに、囚われの蝶が配され、なすすべなく貪り食われるのを待っている。

 そんな風に見えた。

「ふうん、今そんなんになってんねや」

 久々津英真がかき上げていた髪をおろす。蜘蛛は再び黒髪のベールの奥に隠された。久々津英真はこちらに向き直り、布団の上に座り込む。また視線が至近距離で合う。

「どういうこと?」

 刺青様のことは久々津英真が完全に制御していると思っていたが、違うのだろうか。

「あんな、いっつも気ぃ張って刺青さんと付きおおてるわけとちゃうねん。ちょっと気ぃ抜いたら勝手に柄を変えよんねん。千年のストックがあるから、結構飽きひんで」

 刺青様を刺青さんと呼ぶ。随分とフランクな関係を築いているようだった。

「私の気持ちがわかってるような柄になるときもあるんやけど」

 言葉を切る。顔が紅潮していた。

「この柄って私の気持ちやと思う?」

「わかんないよ」

 目をやっとのことで反らし答える。そんなことは頓着せずに久々津英真はにじり寄ってくる。お互いの膝が触れる。

「ホンマに?」

 お互いのかすかな息遣いが聞こえるような距離で吐息にのせて言う。

 久々津英真の手が私の膝の上にのせられる。

「蜘蛛があんたで、食べられる可哀そうな蝶はあたしって思わへん?」

 逆だろ、そう茶化そうとしたが。

 意外に小さな久々津英真の肩をつかんで、布団に押し倒していた。

 限界だった。

 正気の沙汰ではないことは承知の上だった。

 香りがいや、久々津英真の存在自体が私の理性を消失させていた。

 これまでだって、こんな光景を思い浮かべなかったわけではない。だが、現実になるとは夢にも思わなかった。

 だって、私はあまりにも彼女には似つかわ……。

 しゃらくさい。

 私が蜘蛛で、久々津英真が食べられる可哀そうな蝶だというなら、そういう風に扱ってやろうではないか。

 私に組み伏せられている久々津英真は一切の抵抗をしなかった。その気になれば、たやすく打ちのめせるはずなのに。

 慈愛に満ちたように見える顔が微笑んでいる。

 夢中でキスをする。初めてで勢い任せだから、お互いの歯が当たる。それでもお構いなしだった。息の続く限り。ふ、ふ、と私も久々津英真も荒い息。

 息が続かなくなってようやく顔を離す。見れば、キスの最中、歯で口を切ったのか久々津英真の唇の端から血が流れていた。

「ええんよ」

 血を舌で拭う。

 そう言って顔をつかむと乳房に持っていく。思うさまもてあそぶ。久々津英真の控え目な喘ぎ声。優越感。

 興奮で汗が出る。暑い。

 そういえば、私はまだ服を着たままだった。服をもどかしく脱ぎ捨てる。

 脱ぎ捨てて、ただ行為に耽る。

 夢中の行為。どれくらい経ったか。

「なぁ、なぁ」

 久々津英真の甘えた声で次の行為を急かされる。もう私の下半身は限界だった。

「その、あれは?」

 ひとかけらだけ残っていた理性。

 荒い息で避妊具の有無を問う。

 間抜けな質問だったが、久々津英真は微笑んだ。

 私の体の下の久々津英真が私を優しく抱き寄せる。

「そんなんいらんねん」

「でも……」

「ええねん。大丈夫やから」

 大丈夫ではないだろう。大丈夫ではないだろう。大丈夫ではないだろう。

「大丈夫。好きやで……」

 そういって私の下半身を導く。私は抵抗しなかった。

 ゆっくりと。ゆっくりと。根元まで。

 そのあとは、もっともっと夢中で行為に耽った。

 久々津英真の一段高くなった歓びの声が私の自尊心を満足させる。興奮させる。

 何度も精を放った。それでも萎びなかった。

 そのさなかで後ろからの行為に及ぼうと、久々津英真のお尻を抱えたとき。背中の「もの」が目に入る。

 蜘蛛の刺青。

 暴風雨のようなぐちゃぐちゃな思考の中で思う。

 やはり、私は蝶だと思った。久々津英真という蜘蛛に捕食される、快楽に溺れる蝶。

 原始的な快楽に感覚が鋭敏になっているためだろうか、視線を感じた。その視線の方向にためらいなく目を向ける。

 閉められていたはずの襖が少し開けられている。人影がある。血走った目が私たちの行為を凝視していた。

 英磨だった。歯噛みしながら嫉妬に狂った目で喘ぐ姉を見ている。私など眼中にない。ただただ、その眼は久々津英真だけを見ていた。

 もう、私はおかしくなっていた。うろたえるどころか優越感を感じていた。

 英磨の情けない様子を見て、また精を放った。

 

 ひどく怖い夢を見た。

 海の中にいた。海中を泳ぐ夢の中の私は現実の私とは別人だった。夢の中の私の手足は指先に至るまで円と点と線をモチーフにした幾何学的な模様で覆われていた。

 海中を追跡するものがいる。何に追われているのか、わかっている。後ろを見るまでもない。

 巨大なサメだった。

 明らかに夢の中の私を狙っているのだ。人とサメだ。海中での移動速度など比べるべくもない。あっという間に追いつき凶暴な形をした歯で私をかみ切ろうとしてくる。

 追跡を振り切ることはできず、とうとうサメの牙にかかった。

 まともにいけば胴体に食らいつかれ、そのまま真っ二つにかみ切られてもおかしくない。

 だが、サメの鋭い歯は皮膚を食い破ることなく、表面で止まっている。サメの歯が立たずに皮膚の表面をガリガリと滑る。

 咥えられるような格好。夢の中の私はそれを好都合だと思った。

 何が好都合なのか、私にはさっぱりわからないまま、夢の中の私はためらいなく、サメの目に腕を突っ込む。手のひらほどもある眼球を握るや、指に力を入れて潰した。サメはその痛みに身をよじり、口を開き、私を振り落とそうと、めちゃめちゃに動き回る。が、私は目に突っ込んだ腕で体を支えて、振り落とさせない。

 眼球を握ったまま更に腕を奥に突っ込む。脳のあたりまで腕を突っ込んだところで、サメは動きを止めた。

 目から腕を引き抜く。海中に血が煙のように立ち上った。

 絶命して弛緩したサメは海上に向かって浮いていく。

 浮かんでいくに任せて、夢の中の私はサメの顎をつかんで、海岸の方に向かって泳ぎだす。

 あと、海岸まで数十メートルあたりで海上に出る。

 海岸には人がいた。まだ、誰が誰やらわかるような距離ではないが、夢の中の私にはどこに誰がいるのかわかっていた。

 はっきり見える。夢の中の私と同じ鯨面文身の男たちと、彼らほどではないが刺青を身に刻む女たちがいた。

 浮かんでいるサメの上に立ち、彼らに向かって手を振る。彼らも手を振り返してくる。

 歓声が起こっているのがわかった。

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